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映画感想 雨に唄えば

 あったかも知れない、もう一つのハリウッド史。

 1952年のアメリカ映画『雨に唄えば』は今でも伝説的なミュージカル映画として知られている。公開された当時から批評家から「もっとも良くできたミュージカル・コメディの1本」と称賛され、現在までその評価はほぼ変わることがない。1989年には「文化的・歴史的、芸術的にきわめて高い価値がある」としてアメリカ国立フィルム登録簿に登録。
 映画批評集積サイトRotten tomatoでは批評家によるレビューが75件あり、肯定評価は堂々の100%。オーディエンススコアも95%と極めて高い。

 監督は主演を兼ねたジーン・ケリーとスタンリー・ドーネン。ジーン・ケリーは当時のMGMが代表する映画スターだった。作中でも見事な歌唱、ダンスを披露しているし、スタントも本人がこなしている。ただ映画監督としては独裁者だった……という側面もあり、ヒロイン役のデビー・ネイノルズに対し容赦のない罵倒をしていたという記録がある。
 もう一人の監督スタンリー・ドーネンはもともとメトロ・ゴールドウィン・メイヤーで振付師・ダンサーをやっていたが、同じく舞台でコーラスを務めていたジーン・ケリーと意気投合し、ハリウッドに作品を売り込む。1949年『踊る大紐育』を大ヒットさせ、3作目である本作が「名作」と評価され、ヒットメーカーとしての道を歩んでいく。
 それでは本編を見ていこう。


 1927年。歴史大作映画『宮廷の風雲児』のプレミア上映で、劇場前には人が集まっていた。間もなく出演者がやってきて、レッドカーペットを歩いて行く。出演者が一人やってくるたびに、集まってきた人々は歓声を上げる。だが人々が待っていたのはゼルダ・サンダーズでもオルガ・マールでもない。みんなが待っていたのは……。
 来た! ドン・ロックウッドとリーナ・ラモントだ。二人が車から降りた途端、人々が熱狂の声を上げる。興奮しすぎて気絶してしまう人もいた。
 ドン・ロックウッドはマスコミに「あなたの成功物語を聞かせてください」と乞われて、自分の人生を語る。幼少期の思い出から、友人と旅をしながら芸を披露していた日々のこと。やがて映画会社に勤め、スタントマンとして活躍していくうちにキャリアアップして、こうして映画の主演を任されるようになった……。
「彼なしに僕の成功は語れません。生涯の友、コズモ・ブラウン。僕らはともに育ちました。僕には常に掲げているモットーがあります。威厳。常に威厳を持つ。これは僕の両親から教えられました」
 こうしてドン・ロックウッドは自身の成功物語を語り終えるのだった。

 『宮廷の風雲児』のプレミア上映を終えて、観客達へのスピーチも終えて、ドン・ロックウッドとリーナ・ラモントが舞台袖に引っ込んでいく。リーナは不機嫌顔だった。
「なによ! 女にはスピーチはさせないの? あたしのファンもいるわ!」
 凄まじいキンキン声。この声を聞かせるわけにはいかない。映画会社はリーナを一度も観客の前で喋らせることはなかった。
 それにリーナは思い込みも激しく、自分は共演者のロックウッドと恋仲だと思い込んでいた。しかしロックウッドにはそんなつもりはまったくない。マスコミが「間もなく2人は結婚する!」と書き立てていて、迷惑していた。

 そんなプレミア上映の後、ドン・ロックウッドは親友のコズモ・ブラウンとともに車に乗って帰宅しようとしていた。しかしその途中でタイヤがパンク。仕方なく車を降りたのだが、すると「ロックウッドよ!」とファンが殺到してくる。
 ロックウッドは次々に集まってくるファン達から逃れるために、そこにあった車に乗り込んだ。
 女が一人で運転する車だった。女は突然乗り込んでくる男に驚いたが、相手がドン・ロックウッドだと気付くと、「家まで送るわ」と申し出る。
 車を運転しながら、2人は言葉を交わす。しかし女が「映画には台詞も演技もないわ。ただの無言劇よ」と批評する。「僕は役者じゃないと? パントマイム師か? 僕の職業をけなす君はいったい何者なんだ?」とロックウッドは怒りを込めながら尋ねる。女は舞台女優だった。そのまま二人は言い合いになり、険悪な雰囲気で別れるのだった。

 その後、ドン・ロックウッドは映画会社の社長が開催するパーティに出席する。そのパーティで社長は“新しい映画”を公開する。それは音声付き映画である“トーキー映画”だった。
 しかしトーキー映画に対しみんな批判的だった。「あんなもの、ただの玩具だ」「悪趣味ね」とケチョンケチョンだった。
 それから社長は会社を代表する二人のスターのために巨大なケーキを用意する。そのケーキの中から現れたのは――先日、車の中で口論になったあの女だった。


 ここまでが前半25分くらい。
 内容を詳しく見ていきましょう。

 まずオープニングシーン。主演3人が歩きながら主題歌『雨に唄えば』を熱唱……うわぁ声と音楽がゴチャゴチャだ。当時は二つの音をうまくコントロールできなかったのかな……。

 歴史大作映画『宮廷の風雲児』のプレミア上映。そのレッドカーペットの上で、ゴシップ情報を発信するおばちゃんが喋っている。
 こういうおばちゃん、この時代からいたんだ……。いや、まさかレッドカーペット上で喋っていたとは思わないけど……。アメリカではこういうハリウッド・スターのレッドカーペットを見ながら、スターたちが着ているファッションの寸評をしたり、ゴシップ情報を語ったりするおばちゃんというのがテレビタレントといている。おすぎとピーコのアメリカ版みたいなやつ(『シュレック』でそのパロディっぽいのやってたよね)。ああいうおばちゃんって、いつの時代にもいるんだろうな……。

 そのゴシップおばさんに「あなたの成功物語を聞かせて」と乞われて語り出す。
ロックウッド「一流の教育を受け、ダンス学校でコズモに出会い、両親の社交場で芸を披露したものです。いつも大盛況でした」
 と語るけれど、実際は場末のバーなんかに勝手に潜り込んで、歌と踊りを披露して小銭をもらっていた。

「褒美に両親が劇場に連れて行ってくれて。シャールやムリエールなどの一流の古典劇を楽しみました」
 と台詞では語っているけど、実際には大衆映画をお金を払わずこっそり忍び込んでいた。
 なんだか『キングコング』っぽい看板だけど、なんなんだろうね、この映画。『the Dangers of Drucilla』って書いてるけど。『ドラキュラ(Dracula)』じゃなくて「ドルシラ(Drucilla)」だよ。ドルシラってなに?? 妙に面白い看板。

 その後、ロックウッドは親友とともに、旅をしながら芸を披露していた……。と語るなんでもないひと場面だけど、歌と踊りがかなり凄い。ロックウッド役のジーン・ケリーが本当に踊れるんだということがよくわかる。

 映画会社に入った後、しばらく演奏係を担当していたが、スタントマンが殴られて昏倒し、代わりがいなくなってしまったので、ロックウッドがすかさず「私がやります!」と名乗り出る。
 って、ちょっと待て。当時の撮影は殴り合いのシーンで本当に殴っていたのか。この辺りも嘘か本当かわからない、当時の伝説。

 その後、ドン・ロックウッドは次々と無茶なスタントを務め、生還。当時はろくに安全確保もせずにやっていたから、こういう無茶な撮影で活躍できていた、というのはかなり凄い。
 で、その活躍が社長の目にとまり、「you! 次の映画で女優で絡んでみなよ!」と声を掛けてもらえる(こんな台詞はない)。ここからロックウッドの出世コースがスタートする。

 そこからはドン・ロックウッドとリーナ・ラモントのコンビでヒット作を連発。映画雑誌は二人が「恋仲」として報道。しかしそれは映画の中だけの話で、ロックウッドにはそんなつもりはまったくない。
 それに、リーナ・ラモントには大きな秘密があった。それを隠すために、ロックウッドは人前でリーナを喋らせまいとしていた。

「なによ! 女にはスピーチさせないの?」

 リーナの秘密……それは凄まじいキンキン声。まさに「顔と声が一致しない」状態。例えて言うと金田朋子声。みんなリーナはもっと穏やかな声だと思っている……そのイメージを壊さないために、人前で喋らせないようにしていた。
 声を聞いた瞬間、「あ、これはダメだ」と思わせる見事なキンキン声だ。もちろん、リーナ・ラモント演じるジーン・ヘイゲンの地声ではなく、役作りとして作った声。この声のために声楽の講師がついていたそうだ。

 映画のファンに取り囲まれて、逃げるために飛び乗った車。それが舞台女優キャシー・セルダンとの出会いだった。
 キャシー・セルダンは映画について「台詞も演技もなし。ただの無言劇だわ」と批評。これにはロックウッドもカチンとくる。
 気の小さい男……だと思うだろ? でも作り手ってみんなこんなもの。作品をちょっとでも批評されると激高する。で、一通り怒り狂った後、「なんであんなことを言ったんだろうか」と落ち込む。これは創作やっている人みんなにあること(我が身を見るようで、ちょっと気まずい)。創作やっている人は「ああ、あるある」と思うところだけど、そうじゃない人は「なんでたかがあの程度で?」と不思議に感じる場面。
 この場面、キャシーは「私は舞台女優よ」と言ったけれども、ちょっと盛っている。確かに舞台女優ではあるけど、そんなに実力のある女優ではなく、主演女優の後ろで踊っているダンサーみたいなポジション。キャシーにもプライドってものがあるんでしょう。
 アメリカでは映画がもっとも大きな大衆文化だけど、格でいうと舞台俳優のほうが上。この時代からそうだし、今でもそう。舞台俳優が一番尊敬される。一方、映画は「演技力なくても顔さえよければ出られる」……みたいな言われ方をする。それで、有名俳優はみんな演技の勉強として舞台に出たりする。舞台に出ないと演技派として認められない……みたいな空気が今でもある。

 パーティ会場で映画会社の社長が「トーキー映画のデモンストレーション」を披露する。
 当時は画面の中の人物と声が一致していることが不思議な現象だったし、違和感のある光景だった。初めてトーキー映画を見た俳優達は「こんなの売れるわけないわ」とボロカスに批判するのだった。

 その後の催しでケーキの中から登場のキャシー・セルダン!
 これは……食パンをくわえて「遅刻遅刻!」と走っていたところを角で男の子とぶつかる。その次の学校のシーンで「転校生を紹介しよう」……の場面で「あ、あの時の!」――を彷彿させる。
 実際まさにそんな感じで、二人の関係はこの段階では険悪。
 一方のキャシーはちょっと気まずい。キャシーは舞台女優ではあるけど、実際はこういうパーティに呼ばれて踊りを披露するだけの人。それが嫌な奴にバレちゃって、とにかくも気まずい。

「映画でこれを学んだわ!」

 二人は言い合いになり、とうとうキャシーがケーキをロックウッドに……ではなくリーナに投げつけてしまう!
 この映画で一番愉快なシーンかも。しかしキャシーはこれで失業してしまうのだった。

 ドン・ロックウッドはその後も歴史映画『闘う騎士』の撮影を続けるのだが……。
 撮影中、社長が突然やってきて、「『闘う騎士』はトーキーに変更するぞ!」と宣言。
 撮影がそこそこ進んでいる状態なのに、無茶な……。
 なぜこうなったのかというと、1927年、トーキー映画『ジャズ・シンガー』が大ヒット。映画撮影に革命が起き、サイレント映画はあっという間に時代遅れになっていた。
 この潮流に今すぐに乗らなくちゃいけない……ということで撮影中の映画でも中止してトーキー映画に変更することになった。

 こちらが映画『ジャズ・シンガー』のワンシーン(キャプションは映画『バビロン』から引用)。
 1927年、映画史上最初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』が公開。ただし全編トーキー映画だったわけではなく、一部の歌唱シーンのみが画面と音がシンクロする「パート・トーキー」だった。
(『闘う騎士』の試写会で「オールトーキー」という文言が出てくる。当時は「全編喋ります」がアピールポイントになるくらいだった)
 一部とはいえ、映画の画面から音が出て俳優が歌っている……というシーンに当時の観客は大ショック。俳優が歌い出すと映画館中の観客が総立ちになって一緒に歌い出す……みたいな場面が映画『バビロン』で描かれていた。
 『ジャズ・シンガー』は当時記録的な大ヒットとなり、その年一番の収益を上げた。その年に始まった第1回アカデミー賞ではアカデミー名誉賞を受賞。最優秀脚本賞にノミネート。歴史的にも重要な作品として1996年に米国議会図書館の国立フィルム登録簿に保存されることとなる。

『ジャズ・シンガー』黒人に扮装する主人公

 そこまでの歴史的な映画なのに、どうして現代の私たちはこの作品の存在を知らないのだろう?
 言われている説の一つが、主人公が黒塗りメイクをして黒人のふりをして歌う場面がある……ということ。これは現代だと「黒人差別」にあたる。当時としては「問題なし」だったが、今ではそういうわけにはいかない。
 しかし、お話しはもっとデリケートで、そもそも主人公は戒律の厳しいユダヤ人。アメリカでも立場的にいいとはいえない存在。そんな主人公が黒人メイクをする……というお話しになっている。現代で語るにはあまりにもデリケートすぎる物語なので、触れないようにしよう……とされている説がある。

 当時の人からすると、「音の出る映画」なんて売れるとは思ってはおらず、最初だけ物珍しさで売れているがすぐに飽きられるだろう……と思っていた。
 こういう話はゲームでキャラクターがしゃべり出した……というときにも似た反応があった。『ドラクエ』と『ファイナルファンタジー』という歴史のある作品がボイス付きになったのは、時代遅れになった頃だった。歴史や伝統があると、逆に革新に追いつけず、そこで時代遅れになってしまうものなのだ。『ドラクエ』も『ファイナルファンタジー』もある時期までは最先端を走っていたはずだったのだけど……。

 さっそくトーキー映画の撮影が始まるのだけど、しかし当時は「音の収録ってどうやってやればいいんだ?」という感じ。それまで音の収録なんてまったくやってこなかったから、ノウハウがない。マイクの質も悪いため、俳優は「マイクのあるところ」に向かって芝居をしなくてはならなくなる。すると芝居が萎縮してしまう……。試行錯誤しながらの撮影だった。

 とにかくも撮影を完了させて、試写会まで持ってくるのだけど……観客は失笑。まず音声がうまく入ってない。雑音も一杯入っちゃってる。さらにサイレント時代の感覚で芝居をやっているから、何もかもが大袈裟で、ギャグっぽく見えてしまう。台詞が入るなら、芝居のほうは抑制しなければならなかったのだけど、当時の俳優はそういうことまで思いつかなかった。

 次第に映像と音声がズレ始めるトラブルも発生。ヒロインと悪役の声が入れ替わっているように見えて、観客は大爆笑。
 これはマズい……どうしようか。

 突飛な発想で『闘う騎士』はミュージカルに変更。……公開までもう何日もないのに。当時はそういう無茶な変更ができたんだな……。

 問題はヒロイン役のリーナ。喋りの演技ができない。歌えない。踊れない。ついでにおバカ……。顔がいいだけで売れた女優をどうするか……。
 そこでコズモが思いついたのが「吹き替え」。リーナの声を別の人に吹き替えてしまえばいいんだ!
 ……サイレント映画からトーキー映画に移り変わる時代、そんなことがあったのだろうか……。

 リーナのキンキン声を、キャシーの声に吹き替えている場面。
 実はこの場面、リーナ役女優の「地声」。リーナのキンキン声はもちろん作ったもの。リーナ役の地声が聞こえるのはこの場面だけ。


 はい、映画の解説はここまで。もっと詳しいところは本編を見てね。
 さて感想は……『バビロン』から続けて見たから変な感じだった。というも、お話しの展開がほぼ一緒。ちょっと比較してみよう。

 映画『バビロン』のワンシーン。

 『雨に唄えば』のワンシーン。もしかして、同じ映画の撮影シーン?

 映画『バビロン』。「I Love You…I Love You…I Love You…」の台詞。

 『雨に唄えば』でも「I Love You…I Love You…I Love You…」の台詞が出てくる。

 その場面を見て失笑する観客。

 『雨に唄えば』の同じシーンでも観客失笑。

 こんな感じだったので、見ていると「あれ? このシーン見たことあるぞ」という奇妙な既視感。1927年『ジャズ・シンガー』の公開でサイレント時代が突如終焉を迎えるが、音の撮り方がわからず悪戦苦闘する……という展開もまったく一緒。『バビロン』と『雨に唄えば』を続けて見ると、同じ事象の「裏」と「表」を見るような感覚になる。
 そこで「ああ、『バビロン』ってそういうことだったのか」と気付いた。あの映画のラストに『雨に唄えば』が出てくる理由もわかった。『バビロン』が描いていたものって、実は「虚構の世界のハリウッド」だったわけだ。リアルな「あの時何が起きたか」という歴史を描いた作品ではなく、あくまでも虚構世界。そもそも「ハリウッド・バビロン」という書いてあることが本当かどうかわからないゴシップ誌を元ネタにしているし、最初から「映画の中で描かれた虚構のハリウッド」がメインモチーフだった。「あの名作映画『雨に唄えば』の裏側はこうだったかもよ」……というのが『バビロン』。なにしろ「映画の都ハリウッド」での話だから、映画の中で描く歴史も映画の虚構……。この2作を続けて見てやっと、『バビロン』が本当に描こうとしていたものが見えてきた……という気がした。

 『バビロン』の話は横に置いておくとして、一つの映画として『雨に唄えば』はどうだったのか……? 正直なところ、今の感覚で見るとコントにしか見えなかった。描かれているものすべてが作り物っぽく見えてしまう。背景にも奥行き感がなく、ずっと「劇中劇」を見ている感じにすらなる。
 しかし実は最後のシーンで屋外シーンになり、今までのお話しがすべてドン・ロックウッドとキャシー・セルダンによる再現映画だった……という見方ができるようになっている。なんとなく劇が舞台っぽく見える……というのは、そういう狙いだったかも知れない。

 歌唱についてもどうなんだろう……という疑問もある。歌と踊り自体は一流の人がやっているので、滅茶苦茶にうまい。そういう話ではなく、作劇としてそこで歌唱を入れる意味はあるのだろうか?

 ミュージカルの読み方は慣れてないと難しく、ミュージカルは音楽シーンによって物語がシンボル化する。歌唱シーンによって象徴的に物語が進行する。例えばドン・ロックウッドとキャシー・セルダンのロマンスは物語として特に描かれない(とくにロックウッドがキャシーに惚れた理由がない)。歌唱シーンを一つ通過したら、もう恋仲……という関係性になっている。ミュージカルはそういう見せ方をするのだけど、どうしても物語そのものがおざなりに見えてしまう。

 途中、映画撮影に行き詰まって、「次のシーンどうしようか?」「こういうのはいかがですか?」と中世フランスを舞台にした映画だったはずなのに、突如ニューヨークへ行き、そこで大出世する……というお話しに変わっていく。
 確かに途中で「現代人が中世フランスにタイムスリップするお話し」にしたものの、この展開はさすがにバランスが悪くないか? ここだけ急に世界観が変わってしまっている。しかも10分以上とかなり尺が長いのに、物語の展開上、特に意味がない。
 なんなんだろう、このシーン……と見ていて困惑する場面だった。

 やっぱり現代の感覚で見ると、すべてがコントに見えてしまう……で話は終わっている。時代が変化し、表現の水準が変わると、前の世代の表現はどうしても陳腐に見えてしまう。『雨に唄えば』は今の時代に見るのは少し厳しい。名作映画と呼ばれる作品でも、時代を超えるのは難しい。そう思わせる視聴体験だった……。

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