映画感想 シン・エヴァンゲリオン完結編 Ⅰ
!ネタバレ警報!
ついにAmazon Prime Videoにて『シン・エヴァンゲリオン完結編』が配信開始! しかもプライム会員無料だ!
劇場で見に行けなかったので、すぐに視聴。ここまでに結構ネタバレ喰らってきたけど、これ以上ネタバレを喰らうわけにはいかない。もったい付けずにすぐに視聴だ。
それで、いつものように映画の感想文を書いていくつもりだが、今回は薄らぼんやりな感想文を書くつもりだ。というのも設定のほとんどがわからない。なんで電車が宙に浮かんでいるのとか、「コア化」の意味とか、そもそもなぜニアサードインパクトが起きたのかとか……そういう設定的なものはほとんどわからない。過去作品で描かれてきたこともほとんど記憶の彼方。テレビシリーズを見たのだって、20年前で以来見返してない。細かいところがみんな薄らぼんやりだ。
そういう「よくわからない設定的なもの」について、今回はあえて一切調べないことにした。用語の確認すらしていない。ネットの考察なども一行も読んでない。外部の情報を入れずに、この映画だけの印象で「どう感じたか」を中心に書いていく。
今回、そのような感想文の書き方をした理由は……いざ調べようと思ったら、調べなくてはいけない項目が死ぬほど多すぎて収拾が付かない(テレビシリーズ最初から見返すのか?)、ということと、見ていた印象として、「これは設定的な整合性を求めても仕方ないヤツじゃないかな……」というポイントがいくつもあったからだ。「設定的な整合性を求めても仕方ない」という話は後半の方で掘り下げていこう。
そういうわけで、今回はかつてないふんわり感想文を書いていく。以下よろしく。
いつものように、映画前半のあらすじを見ていこう。
冒頭はフランス。フランスはニアサードインパクトによる弊害で、見渡す限り真っ赤。生命なき世界となり、そこに立ち入るために防護服が必要だった。
そんな場所に、ヴィレの選抜隊が封印柱の上へ着地。L結界の中和、ユーロネルフの復元に挑むが、予想以上にL結界濃度が濃く、作業可能時間はわずか720秒。その間に、伊吹マヤを中心とする「カチコミ隊」による作業が始まった。
すると当然のようにネルフの横槍が入る。先兵として飛来してきたのは、エヴァ44A航空特化タイプだ。パイロットを乗せないエヴァの群体が、独力で単縦陣を組んで向かってきた。
これをエヴァ8号機を操るマリが迎え撃つ。仮想コントロールを握り、四方八方へ向けて銃撃。孤軍奮闘、獅子奮迅の戦いぶりを見せる。
あと残り作業時間360秒――群体エヴァは囮だった。新手のエヴァ、陽電子砲装備の陸専用4444Cと、電力供給特化型44Bがお付きで出現する。
赤城リツコのコメント「冬月指令に試されているわね、私たち」
44Bに高エネルギー反応増大! 間もなく4444Cが発射態勢に入る!
ワイヤーで吊っている駆逐艦を封印柱の前に集合させ、防御させる。
発射!
凄まじい陽電子ビームだ。駆逐艦が次々に吹っ飛ぶ。
間もなく陽電子ビームの威力は尽きるが、慣性の付いた駆逐艦の一機がカチコミ隊に向かって吹っ飛ぶ――マリが間に合った。駆逐艦を蹴り飛ばし、衝突を防ぐ。
だがあともう一発撃たれたら最後……。
早くも4444Cが次弾装填。第2射が迫る!
マリがエッフェル塔の先端を脇に抱えて突撃。だがワイヤーが触手のようにしなって絡みついてきた。マリは背面のジェットを噴射させてエッフェル塔を4444C砲塔先端へ突きつける。4444CのATフィールドが阻む。マリはエッフェル塔を捻りながら突っ込ませる。
ついにATフィールドを突き破った。電力を最大まで溜めていた4444Cが派手に爆散する。
だがカチコミ隊の作業はまだ終わってない。L結界の浸食は、潜水艇の足元まで絡みついてきている。これ以上は長居できない。
「最終でセキュリティロックを解除!」
「アルゴリズム解析C言語にシフト!」
「アンチLシステムステージ5を全てクリア!」
「副長先輩、発動します!」
封印柱を中心に、パリに色彩が戻る。コア化が中和されたのだ。
封印されていたユーロネルフも再稼働を始める。立ち上がってきた防衛システムの中に納められていたのは、エヴァの予備パーツだった。これで2号機の新造、および8号機の改修が可能になる。
マリはその様子を見ながら、「どこにいても必ず迎えに行くから。待ってなよワンコ君」とひとり呟くのだった。
14分23秒、タイトル『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
前作ラストでの戦いのあと、エヴァを喪ったシンジ、アスカ、レイ(仮称)は真っ赤に染まる街の中を彷徨い歩くのだった。
だがまだ普通の人間である碇シンジは、L結界の中を歩き進むことに耐えられなくなり、やがて昏倒してしまう。
そこに助けにやって来たのは――相田ケンスケだった。
次にシンジが目を醒ますと、そこは「第3村」と呼ばれる集落だった。崩壊後の世界に1000人ほどが集まって作られた小さな村だ。シンジの前に現れたのは、大人になり、一児の父となっていたかつてのクラスメート――鈴原トウジだった。
そこはヴィレの後方組織であるクレーディトが興した村で、ニアサードインパクト後、日本の各所に作られた村の一つだった。
シンジとレイ(仮称)はその村でしばし逗留するのだった。
シンジはトウジの自宅に招かれるのだが、生きる気力も失っているシンジには、村の中に居場所がない。間もなくやってきた同じくかつてのクラスメイト、相田ケンスケに引き取られて山奥のセルフビルドンハウスへ移ることとなる。
ケンスケの自宅に入り、そこにいたのは――全裸のアスカだった。
全裸のアスカを見てなんら気持ちを動かさないシンジだったが……その首に付けられたDSSチョーカーを見て吐いてしまう。数日前、DSSチョーカーで首が吹っ飛んだカヲルを思い出していた。
その後も生きる気力を失ったままのシンジは、ぼんやりと部屋の隅っこで小さくなって過ごしていた。
見かねたアスカはシンジの体を掴み、その口に無理やりレーションを捻り込む。
「こうしてメシ食わせてもらえるだけでありがたいと思え! まだあんたはリリンもどき。食べなきゃ生きていられない。だから食え! こちとらずっと水だけだ! 何も食わない体になる前にメシのまずさを味わっておけ! 馬鹿ガキ! そうやって何もしないのも、自分がまた傷つくのが嫌ってだけでしょ! どうせ暇ならせめて、あの時なんで私があんたを殴りたかったのかぐらい考えろ!」
シンジは家を出て行く。
村から離れてふらふらと彷徨い歩いているうちに、かつてのネルフ施設跡に行き着いてしまった。シンジはそこに座り込み、それからも何もしないで過ごすのだった。
一方のレイ(仮称)は村で様々な体験をするのだった。
村で過ごす人々と一緒に田植えをやり、仕事を終えたあとは風呂に入り、雨で休日になった日には図書館へ行く。ごく普通で、どこにでもいるような平凡な人の暮らしだった。
そうやって日々を過ごすうちに、レイ(仮称)は様々な感情を獲得していくのだった。
レイ(仮称)は時々シンジに会いに行く。レイ(仮称)が尋ねてきても、碇シンジは対話すら応じようとしなかった。レイ(仮称)はそれでもシンジの元へ通い、レーションを置いて行くのだった。
数日後――、
レイ(仮称)はその日もシンジの元を尋ねる。
「碇君はなぜ村に戻らないの? 碇君もここで何もしていない。あなたもこの村を守る人なの?」
「守ってなんかいない。なにもかも、僕が壊したんだ。もう何もしたくない。話もしたくないんだ。もう誰も来ないでよ! 僕なんか……放っておいてほしいのに! ……なんでみんなこんなに優しいんだよ」
「碇君が好きだから。ありがとう。話してくれて。これ、仲良くなるためのおまじない」
とレイ(仮称)は、シンジに手を差し出すのだった。そんなレイ(仮称)を見て、碇シンジは思わず涙をこぼすのだった。
シンジはケンスケの家に戻った。しばらくケンスケの仕事を手伝うことにした。
ケンスケは村の基幹産業である農業労働を免除されている代わりに、その周囲の様々な雑務を引き受けていた。そのケンスケと一緒に、シンジは村周辺の様子を観に行く。
村の外縁には相補性L結界浄化無効阻止装置(封印柱)と呼ばれる巨大な杭が打ち込まれていた。それが村のコア化を防いでいるようだった。ケンスケはその様子を日々観察していた。頭を失ったエヴァが徘徊している様子も観察する。
レイ(仮称)は一緒に仕事をしている人達に、「名前をつけたらどうだ」と提案されている。名称不明、いつまでも「そっくりさん(仮称)」と呼ぶわけにはいかない。
レイ(仮称)はシンジの元へ行き、「名前を付けて欲しい」とお願いする。
「どんな名前でもいい。碇君の付けた名前になりたい」
間もなくレイ(仮称)は、唐突に意識を失う。活動できる限界はもうそこまで来ている。
レイ(仮称)は自分の消滅が近いことに気付き、涙を流す。
レイ(仮称)は再びシンジの元へ訪ねる。レイ(仮称)は預かっていたウォークマンをシンジに返す。
「頼まれていた名前なんだけど……綾波は綾波だ。他に思いつかない」
「ありがとう。名前考えてくれて。それだけで嬉しい。ここじゃ生きられない。けどここが好き。好きってわかった。嬉しい」
それからレイは「さよなら」と言葉を残し、消滅するのだった。
前半のあらすじはここまで。ここまでのお話で54分。
全体が2時間半という、アニメとしてはかなりのボリューム感のある作品だが、そのうちの54分も費やしている……ということから、村でのシーンに大きな比重を置いていることがわかる。
それでは前半シーンに描かれた意味について、一つ一つひろって見ていくとしよう。
プロローグ14分のアクションシークエンスは、これから始まる壮大なストーリーの、最初の打ち上げ花火のようなもの。前回からの繋がりを埋めるシーンで、なんだったら『スターウォーズ』のように文字だけで解説しちゃってもかまわないところ。でも観客に向けたサービスだから、目一杯外連味を込めた楽しいシーンに仕上げている。
私もこのプロローグシーンが好きで、このシーンがあるから映画に入っていく気分ができあがる。
映画のオープニングとして、単に見た目的に格好いいシーンを描きました……というだけではなく、このプロローグの中で解説的に示されているものは結構ある。
まずエヴァがネルフによって兵器開発されていること。後半、エヴァ7号機が大量に出てくることの布石となっている。
次に「相補性L結界浄化無効阻止装置」略して「封印柱」。しばらくすればケンスケによる説明が入るのだが、その前段階としてその存在を示している。
ユーロネルフが解放されたことによって、前作で大破したエヴァが再建可能になる。このシーンがないと、「おいおい、前作で破壊されたんじゃ……」ってなる。エヴァという巨大兵器の再建をどうやっているのか、という説明になっている。
こうした各説明を押さえつつ、説明的なシーンであると感じさせない、見た目的に楽しいアクションパートに仕上げている。この作品の導入部として、相応しいシーン設計だ。
そこからオープニングシーンに入っていく。全体が真っ赤に染まった、荒廃した日本の風景。
おそらくは日本の風景を点々と撮影していき、その写真をベースに『エヴァ』らしい荒廃のイメージを作っていったのだろう。最終的なアウトプットは美術スタッフによる手作業だが、フォトショップ的な発想でイメージを組み立てていったと考えられる。
ニアサードインパクトによって都市の風景がどのように後退していったのか、を説明するシーンだが、その中を歩き彷徨ううちに、やがて碇シンジが力尽きてしまう……。
ここの設定的なものがよくわからない。冒頭のシーンでリツコ達は防護服を着ていたし、助けに来たケンスケも防護服を着ていた。L結界の中にいるとどんな影響が人体に起きるのか、いまいちわからないし、説明もされていない。着ているものの様子から、何となく放射能みたいなものかな……とは推測しているが……。
そんな中を、アスカとレイ(仮称)が平気で歩いている。これはやはり、二人がすでに「人間ならざるもの」になっているからだろう。しかし碇シンジは人間……人間だが、「リリンもどき」とアスカの台詞にあるから、完全なる人間ではなく、シンジも「エヴァの呪い」で別の何かに変容しかけているのだろう。
それでもまだ人間に近い碇シンジは、やがてL結界の中で昏倒してしまう。
オープニングが開けて16分。碇シンジが目を醒ます。目の前に現れたのは、鈴原トウジだった。かつてのクラスメイトで同じ年だった少年は、14年の時を経て大人になっていた。
ここから碇シンジ達の村生活が始まる。
なぜ碇シンジとレイ(仮称)は村での生活を体験する必要があったのだろうか。これまでの『エヴァンゲリオン』の作風から見て、このシークエンスはその他のイメージとかけ離れているのではないだろうか。もちろん庵野秀明がTOKIOに傾倒していたとか、意表を突きたかったとか、そういう単純な理由ではないだろう。その理由について考えていこう。
まず大人になった鈴原トウジと相原ケンスケの姿を見せること。この二人の姿を見せることで、「あれから本当に14年の時が過ぎたんだ……」ということが実感できる。『エヴァQ』では説明的な台詞だけだったので、もしかすると「壮大なドッキリ」だった可能性がちらとあったが、はっきり描写されることで、より碇シンジが立たされている状況を明確にすることができる。
(鈴原サクラが登場してきたが、本当に本人かどうか、『エヴァQ』の時点ではちょっと怪しかった)
もう一つの意図は、『エヴァンゲリオン』がずっと時間が止まったコンテンツだった……ということを見せるためだろう。『エヴァンゲリオン』はテレビシリーズから25年、延々リピートされ続け、様々なバージョンが作られ、その間、碇シンジもアスカもずっと14歳のままだった。14歳の碇シンジが成長することもなく、再生産され続けた。
しかし現実の時間は過ぎていく。最初の『エヴァ』を見た子供達も、みんな大人になった。主要な制作スタッフとなるともはや還暦前。現実の時間はどんどん経過し、ファンは大人になって、大人を通り過ぎて爺さんになりかけているのに、碇シンジはずっと14歳の少年のまま……。
かつての友人達が大人になった姿を見せることで、その周辺では確実に時間が動いていた……ということを見せるために、大人になった鈴原トウジが登場したのだろう。「現実の時間」を感じさせるための描写だ。
村の名前だが、「第3村」と呼ばれている。鈴原トウジのクリニックに「しんじょはら」と書かれているから、場所は静岡県湖西市だと思われる。
旧アニメ版では「第3新東京市」が舞台だった。場所は違うが、同じ「3」の数字が使われているということは、「第3村」と「第3新東京市」が強い関連を持っている場所であることが示唆されている。関連性を持っているから、そこに鈴原トウジも、相田ケンスケもいる。
碇シンジが鈴原トウジが務める診療所から出て、最初に目撃するのが「転車台」と呼ばれる装置だ。終点まで移動した電車の頭を、くるっと反転させるための装置である。この転車台を見せてから、その次に村の俯瞰風景が示されている。カットの順列的に、転車台の方に重要度を置いている。
まず最初に転車台を見せたのは、碇シンジやアスカ、レイ(仮称)が終着点までやって来た……ということを示唆している。
さらに転車台が稼働して、別のレールに移動する様子を見せているのは、ここから違う局面へ向かっていくことを表している。ここから碇シンジのこれまでの立場や精神性に転換がありますよ……という示唆だ。
さて、そろそろ「村」というモチーフについて掘り下げていこう。なぜ「村」がここに描かれる必要があったのか?
人が多く集まり、「町」と呼ばれるまで発展すると、人々の間に一つの深刻な心理問題をもたらすようになる。それは、自分が住んでいる町がどのように運営されているのかわからなくなり、わからなくなる以前に考えなくなる……ということだ。
どうして蛇口をひねると水が出るのか、食料はどこで生産され、運搬されて店に並ぶのか……。こうした自分の生活にまつわる基本的な仕組みについて、わからなくなり、わからなくなる以前に考えようとすら思わなくなる。ただ、「それはそうなっていて当たり前だ」という「常識」という感覚だけが残り、その「常識」があるからそこから先へ考えようとしなくなる。
私は前に書いた本『生き残るために遊べ!』では、「人間が認知可能なコミュニティの上限はおそらく2つか3つくらいまで」と書いた。この認知能力の限界について検証した研究者はまだないのだが、おそらく多めに見積もって上限は3といったところだろう。私も色んな人を観察してきたが、そんなに多くのコミュニティを一度に認知できる人など、見たことがない。
コミュニティが「町」と呼ばれるまで発展すると、人はその町がどのように運営されて成立しているか、考えなくなってしまうのだ。
認知能力の限界を超えると、人間はその対象について考えないか、大雑把にカリカチュアして認識しようとする。これが「なぜ下請けいじめが起きるのか」という説明にも繋がってくる。
認知可能な範囲であればその相手を「情」を持って接することができる。しかし認知の対象外になると「人間の情」は感じられなくなり、ただの情報、あるいはただの数字としか認識できなくなる。ただの情報や数字に人は情を傾けることができないから、どこまでも冷酷に接することができるようになってしまう。
(「合理的思考」と「感情移入」は相反する意識だから、下請けに対しては「合理的思想」で判断しがちになり、それで「下請けいじめ」に陥る。そういったわけで、大企業のトップになるともはやお客さんの気持ちがわからないし、軍の司令部は前線のリアリティがわからない。大きな組織になると、末端は「認知外」になるので、なんだかよくわからなくなる)
水や食料といった自分の生存に関わるものが、生活の場にどのように供給されてきているのか。それを考えるために、一度「村」という形までスケールダウンした方がよい。そこまでスケールダウンしなければ、考えようとしないのが人間の性質だ。
その村の生活の中で、レイ(仮称)は農業体験し、同じように働く人々と交流を始める。碇シンジは相田ケンスケとともに村の周辺へ行き、水量をチェックしたり、電気が無事に供給されているかチェックし、村が封印柱と呼ばれる装置で守られていることも確かめる。誰かに説明される「設定」ではなく、それぞれの様子を実感あるものとして確かめ、それに守られている人々とも交流していく。
こうした生活を体験するから、自分がどのような社会の中で成り立っているのかを知り、さらにはアイデンティティの基盤のようなものが確かめられるようになる。アイデンティティというのは自分がどういう社会の上に立っているのか、をまず実感を持って知る、というところから始まるわけだから。
映画の後半に入った2時間ほどのところで、「君はイマジナリーではなく、リアリティの中で既に立ち直ったんだね」というカヲルの台詞が出てくる。「リアリティの中で」というのは、現実的な暮らしの中で精神的に立ち直り、自分の立ち位置をその中で一度獲得し得た……ということを意味している。
それともう一つ、エヴァンゲリオンに乗って戦う世界……というのは所詮アニメでしかない……という自己言及をするためだろう。エヴァンゲリオンに乗って跳躍的な活劇をする、なんて描写にリアリティなんぞどこにもない。碇シンジやアスカは、そういったリアリティなき世界の中で生きていた。だから年も取らず、25年間も生きてしまった。
という、ある種の『エヴァ』シリーズを否定するような話だが、『エヴァンゲリオン』という作品を盛大に破壊し、再構築するために、あえて自己言及的な、ある種のパロディ的なツッコミを作品の中でやったのだろう。
碇シンジやアスカはずっとアニメの世界で生きていた。だからずっと姿が変わらなかった。その碇シンジやアスカ、レイ(仮称)たちに現実的な生活を体験させてしまう。そのことで、意識の変化を促す。
現実的な生活、というのは食料の生産をしたり、水の確保をしたり……という中でのみ起きる。今回の完結編の中で、ネルフに残った碇ゲンドウと冬月コウゾウの二人は、何を食べて、どうやってネルフを運営しているのか全くわからない。エヴァの兵器転用なんて、どうやって材料を集めて、誰が組み立てたのかわからない。終盤に出てきた大量のエヴァ7号機の群体にしても、ああいたものが空から湧いて出てきたはずはなく、どうにかして作らなければならないはずだが、それが全くわからない。碇ゲンドウと冬月コウゾウは完全に「アニメの世界」という端境の向こうの住人となっていた。
そうした描写の対比として、映画の前編に村の生活を置いたのだろう。
ただ、ツッコミどころもあって、配給しなければ村の住人に食べ物が平等に供給されず、それも充分ではないという状況下だ。そうした状況で、人々がよそ者を温かく歓迎するような寛容性を持つわけがない(鈴原家の描写でも、汁椀一杯のおじやしか出てこなかった)。
食糧事情に問題を抱えるコミュニティは、どうしてもピリピリとするものだ。気持ち穏やかでいようと思ったら、安定した食料状況がまず必要になってくる。そうした緊張感を抱える中で、流れ者を警戒せず受け入れよう……という気持ちはそうそう生まれないはずだ。こういうときこそ「村意識」特有の排他性を発揮し、攻撃的になってくるはずだ。
今回の映画で描かれる村の人々は、不自然なくらい優しすぎる。
村で生産されたものは、村の中だけで消費されているわけではなく、そのうちの何割かはヴィレに年貢のように納められているようである。村で生産できないものについては、ヴィレが運んできてくれるので、お互いが必要なものとして描かれている。
謎めいているネルフ本部に対して、ヴィレの人々がどうやって食料や物資を確保しているのか、こういったところで説明になっている。
ただ、この村で生産されたものだけで、ヴィレの運用が可能かどうか……とはとても思えない。おそらくは日本どころか世界中にクレーディトの支部のようなものがあって、そこで食糧・物資供給されているのだと想像されるが、しかしそれでもヴンダーのような巨大戦艦を運用できるほどの物資が供給可能とは思えない。
戦争はとてつもない食料と物資を消費する。それは70年前の戦時中、国民が生活できなくなるレベルまでモノを消費してしまった日本人ならよく知る話だ。巨大戦艦を運用し、大砲をドンパチ撃ちまくれるようにするために、どれだけの物資が必要だろうか……。
映画が始まって54分ほどのところで、村の外れにタンカーが降ろされ、タンカーから大量のコンテナが積み込まれたり降ろされたりする場面が描かれた。こんな小さな村でやり取りするにしては、物量が多すぎではないか。
でも、こんなツッコミを始めると、お話が進まない。こういうところは目をつむって、お話を進めよう。
村での生活を通して、やがてレイ(仮称)は様々な感情を獲得していく。初めて目撃する赤ちゃんに驚くと同時に、動揺する。初めての田植えで働くことの難しさと、仕事を通して一緒に働く人々との共同体意識を持ち始める。こうした体験を通して、レイ(仮称)はこれまでにないくらい、生き生きとした感情を持ち始める。
映画が始まって48分頃、レイ(仮称)は鉄道の下に住み着いていた野良猫の出産に気付いて、嬉しそうに微笑む。背景には、村パート始まって最初に出てきた妊婦が、出産を終えた話が出てくる。
テレビシリーズの「笑えばいいよ」以来に見た、綾波レイの“表情”だ。
生命の誕生を目の当たりにして、素直に嬉しい、めでたいと思う気持ちがレイ(仮称)の中に芽生える。感情のなかったはずのホムンクルスが、確実に自我を獲得している段階に入った。
レイ(仮称)は碇シンジの元に「名前を決めて欲しい」と頼みに行く。もともとは仕事仲間から「いつまでもそっくりさんじゃ不便だ」と言われたことが切っ掛けだが、名前とは、そのものが何者かを規定するためのものだ。名前を与えられて、その人間は初めてその名前で呼ばれる自分という自覚に至る。レイ(仮称)の場合、名前を持たずに生まれてきたから、自我を完成させるために名前を与えてもらうことがどうしても必要な要素だった。
一方の碇シンジにとって、人に名前を与えることは「名付けの親」という特別な存在になることを意味する。「名付けの親」になると、相手に対してそれなりの「情」を持つことになる。
名前を持たなかったレイ(仮称)は名前を得ることで、改めてその名前を持った人間として生まれ変わることを意味している。それは「新たな人生の始まり」を意味する。碇シンジは頼まれただけだが、名前を付けることで、ある意味でレイ(仮称)に対して親になることを意味している。
ところが、名前が与えられた直後、綾波レイは消滅してしまう。碇シンジは「名付けの親」としての情を持った瞬間、その対象を喪ってしまうのだ。
後に「無調整ゆえに個体を保てなかったようだ」という台詞が出てくるから、レイシリーズの中でも寿命が短く設定されていたのだろう。もしかすると、間もなく碇シンジが目覚めるから、その碇シンジに喪失を体験させるために、わざと寿命の短い綾波レイを当てたのかも知れない。
碇ゲンドウにとって、綾波レイは自分が愛した女をベースに作り上げたもの。「レイ」の名前はもしも娘が生まれたら……というときのために用意していた名前だ。碇シンジには、綾波レイは記憶の彼方にある母親とどこか似たものを見いだしてしまうから、惹かれてしまう。その相手に名前を与えるのだから、碇シンジにとってレイ(仮称)は母親であり娘のような存在になっていく。
が、そうした自覚が生まれた瞬間、その対象を喪ってしまう。これはもしかすると、碇ゲンドウが妻を喪った時の喪失感を追体験させるため、あるいはこれまでの実験で綾波レイを生成しようとして失敗し続けた記憶を追体験させるためのものかも知れない。それが何のためなのかわからないが。
綾波レイを喪い、結びつきかけた村との情ある関係性を喪った碇シンジは、村での生活を終える決心をする。
鈴原トウジに「これからはここで、わしらと一緒に生きたらええ」と誘われていたが、しかし戦わなくてはならない宿命と使命に向き合う決心をするのだった。
ここまでが前半54分。情緒たっぷりに描かれた村パートが終わりとなる。
冒険物語の定石として、物語の半ばに不思議な楽園的空間、セーフティゾーンが登場し、そこでしばしの憩いの時を過ごすというシーンがある。村パートはそういった楽園的空間パートだったが、それがようやく終わる。それは物語が、いよいよ終幕に向かっていくことを意味する。
次の30分の展開は、さらっと箇条書きにしよう。
ヴンダーに戻った碇シンジは再び拘束監禁されることになる。
大気圏外にて地球の様子を探っていたヴンダーは、ネルフ本部が黒き月を引きずって旧南極爆心地跡に向かっているのを確認する。
ネルフ本部の動向を察知し、エヴァ2号機、8号機の組み立てを完了させたヴンダーはネルフ本部を追って南極へ向かう。
ヴンダー、ネルフの攻撃を受けつつ、南極海底へ潜る。
かつてのセカンドインパクト跡の上に、ネルフ本部発見する。
アスカ、マリ両機射出。大量のエヴァ7号機が妨害する。
アスカ、エヴァ13号機前までやってくる。強制停止信号プラグを打ち込もうとするが、ATフィールドが出現する。そのATフィールドは13号機のものではなく、2号機のもの。
アスカは自身の中にあった使徒の力を解放させ、エヴァ13号機に強制停止信号プラグを打ち込もうとする。
だがあと一歩というところで13号機が起き上がり、使徒化したアスカを連れ去っていく。
ここまでで1時間28分くらい。
映画が始まって59分ほどのところで、ヴンダーの本来の役割について語られる。
ヴンダーはあらゆる生命の種子を保存し、半永久的に稼働が可能な無人式全自動型方舟……。これがヴンダーが作られた本来の目的。ヴンダーはもしも地球が壊滅的に破壊された後でも、再生を可能にするための保険。人類補完計画によって地球が荒廃した後でも、希望ある未来を予感させるためのものだった。
そもそも、そんなものをどうしてネルフが建造していたのか……という疑問にも繋がるが、それはさておくとしよう。
ミサトはスイカのラベルが貼られた箱の前にいるが、もちろんこれは加持リョウジが生前栽培していたもの。加持リョウジへの気持ちがまだ薄らいでいないことがわかる。
テレビシリーズの頃、スイカの栽培をやっている加持リョウジの描写はどこか唐突感があって、その意味についていまいちはかりかねないところがあった。でも完結編で前編に村の描写があって、やっとあの村のシーンのひな形だと理解することができる。村のエピソードが実はここにも繋がってきていることがわかる。
!ここからさらにネタバレ警報!
視聴前に読むと死ぬぞ!!
と、ここまでは『エヴァンゲリオン』の“設定”的な話。ここからは作品の設定外の話、創作的なニュアンスの話をしよう。
まず真希波・マリ・イラストリアスにまつわる話。
マリは普段から台詞の語尾に「にゃ」を付けて話している。映画が始まって1時間56分ほどのところで、マリは冬月と対話する。この時のマリは、細いパイプの上を歩いていて、猫を意識した描写になっている。マリが猫をモチーフにしたキャラクターだ、ということがわかるだろう。
それで、マリは普段から碇シンジのことを「ワンコ君」と呼んでいる。碇シンジを「犬」と見立てている。ということはマリと碇シンジで、猫ー犬という関連性……というかカップリングを作っていることがわかる。
映画のプロローグでマリは「どこにいても必ず迎えに行くから。待ってなよ、ワンコ君」と語っている。マリが「姫」と呼ぶアスカなら「迎えに行く」というならわかるが、どうして碇シンジを迎えに行く……と表現していたのだろう。
映画の最終段階で、マリと碇シンジのカップリングが唐突に生まれて、それまでそんな関係性が示されていなかった、というか、シリーズ全体を通して3回くらいしか会っていない間柄なのになぜ……と疑問に感じてしまう。
でもそうではなく、お話の構造として、最初から二人のカップリングを想定していた。ただそこに至る描写だけは省略されてしまっていたから、ラストシーンで唐突なものを感じてしまったわけだが。
一方、マリはアスカのことを「姫」と呼んでいた。どうして姫なんだろうか?
ちょっと別の所から読み解いていこう。
冬月コウゾウとの対話シーンで、マリは「イスカリオテのマリア」と呼ばれていた。
一般的な「聖書雑学」の一つだが、聖書の時代では女性はみんなマリアだった。「マリアとは女性を意味する言葉だった」としているものもある。聖書を見ているとやたらとマリアが出てくるな……と思ったら女性にはみんなマリアという名前が与えられていたからだった。
「イスカリオテの…」といえば「裏切りのユダ」のことで(本来は地名。出身地のことだった)、この文脈で言うと、「裏切りの女」ということになる。これはネルフ、あるいは碇ゲンドウ・冬月と袂を分かったために付いた通り名だろう。
でも「マリア」という名前を聞いたとき、少し引っ掛かるものを感じた。聖書におけるマリアといえば、一つにはキリストの母親。もう一つはキリストの妻である「マグダラのマリア」だ。
「マグダラのマリア」といえばよく「売春婦」と説明されるが、聖書にはそのように書かれていない。単に「罪を負っている」とだけ描かれていて、この「罪人」が後に「売春婦」と解釈された……ということだったらしい。
マグダラのマリアがイエスの妻……という話もまた聖書に出てこない。この話はむしろ近代に入って唱えられた説だ。ただマリアはイエスの側に常に寄り添い、処刑の時も埋葬の時も、復活の時も側で目撃していた。イエス・キリストに対し、どんな弟子より距離感の近かった女性ということになる。
マリがマリアのモチーフだった、そしてそのマリとカップリングを作る碇シンジは何者か。「碇シンジ=イエス・キリスト」ということになる。
(マリアといえばキリストの母親もそうじゃないか、と言われそうだが、碇シンジの母親は碇ユイであるので、既に別の人物が役割を与えられているので、違うと言える)
『エヴァンゲリオン』はシリーズが始まった初期から、聖書がモチーフにされていた。登場人物も聖書の人物が当てられていたとしても不思議ではない。マリがマリアで、シンジがイエス・キリスト。するとアスカは何の役が与えられているのだろう?
これはよくわからないので、「聖書 王女」で検索してみると、出てきたのは「ソロモンの女王シバ」だった。
シバ王女はいつか救い主が現れることを予見し、イエスの説教の中にも言及される人物だ。しかしシバ王女は『新約聖書』の登場人物じゃないので、違うような気がする。
アスカの名前を見ると、
式波……シバ。
ちと苦しいか。
アスカがシバ王女をモチーフだったとしても、その意味はよくわからない。
マリにはまだ謎があって、碇ゲンドウのことをずっと「ゲンドウ君」と呼んでいた。これは単に、マリが誰に対しても親しく接するから……というわけではないだろう。自分の親世代の男性を「ゲンドウ君」とは普通呼ばない。
映画の後半、碇ゲンドウの回想シーンに、マリそっくりの女性が登場してくる。
これはマリの母親だろうか。それとも本人だろうか……? しかしマリの母親に関する話は出てこず、結婚したという話も出てこない。アスカもあるときから年を取らなくなったが、マリも同じように年を取らなくなったのだろうか。
マリはどうやら飛び級で大学に来たらしい……という設定はあるが、その後、年を取らなくなった。マリの設定は16歳だが、これは16歳から以降年を取らなくなった……ということかも知れない。
とにかくも、「ゲンドウ君」と呼ぶところから、マリはゲンドウと同じ大学の同期生で、マリはその頃に何かしらの事件に遭遇して「罪」を背負い、「イスカリオテのマリア」という異名が付いた。そういうことだろうか。マリに関して、説明されていないことは多い。
次に碇ゲンドウ君とは何者だったのだろうか。
その前に、「人類補完計画」について考えてみよう。
本作の1時間半ほどのところで、「人類補完計画」について詳しい台詞による説明が入る。
「知恵の実を食した人類に神が与えていた運命は2つ。生命の実を与えられた使徒に滅ぼされるか、使徒を殲滅し、その地位を奪い、知恵を失い、永遠に存在し続ける神の子と化すか。我々はどちらかを選ぶしかない。ネルフの人類補完計画は、後者を選んだゼーレのアダムスを利用した神へのはかないレジスタンスだが、果たすだけの価値のあるものだ」
人類は歴史のどこからで「知恵の実」を食べて、それによって「知恵」を手にした。
一方、使徒と呼ばれる何者かは「生命の実」を食べていた。(『ワンピース』の話ではない。念のため)
神が計画していた宿命によると、人類はやがて使徒に滅ぼされることが確定していた。
しかしゼーレはこの神の計画に異議を申し立て、使徒を滅ぼし、使徒がいた地位を人間が奪ってしまおうと考えていた。
「使徒」とはご存じの通り、イエス・キリストの直弟子である12人を指す。「神の子」たるイエス・キリストの直接な弟子、という特別な地位に、「その他大勢」でしかない人間がその地位に収まろうとする。使徒を滅ぼすとその空位に自然と人間が収まるので、人類はより神に近しい存在になる……これがゼーレの計画であった。
しかし碇ゲンドウの計画は、使徒を生け贄として、人類がまさに神そのものになることこそが目的だった。
ゼーレの目的をもう一歩、踏み越えてしまおう、というのが碇ゲンドウの目論見だった。
「セカンドインパクトによる海の浄化。サードによる大地の浄化。そしてフォースによる魂の浄化。エヴァインフィニティを形作るコアとは魂の物質化。人類という種の器を捨て、その集合知を穢れなき楽園へと誘う最後の儀式だ」
セカンドインパクト、サードインパクトは人類補完計画に至るための準備段階として起こした現象だった。
「コア化」というのはよくわからない。映画の最後に、コア化した世界が浄化させ、人間や獣がバラバラになって降ってくるという描写があったから、コア化した世界の中には全ての人や獣の意思と魂が合体した状態になっていたのだと考えられる。でもまだフォースインパクトを起こせていないから、最終的に合体した状態に至っていなかった……ということだろう。
ところで「コア」といったら、使徒の心臓に当たるもの。コアを破壊したら、使徒は生命活動を停止させる。きっとあのコアの中には、様々な魂が詰まっていたのだろう。
それにしても、碇ゲンドウはどうしてそこまで人類補完計画に執着したのだろう。
劇中の2時間2分ほどのところでこう語られる。
「お前が選ばなかった、ATフィールドの存在しない全てが等しく単一な人類の心の世界。他人との差異がなく、貧富も差別も争いも虐待も苦痛も哀しみもない。浄化された魂だけの世界」
肉と骨という障壁がなく、全ての魂がひと連なりに合体している状態。
(ムカデ人間……じゃない。ムカデ人間よりもさらに連結している状態)
人類補完計画後は全ての魂が連結して一つになるから、その中で争いが起こることもない。貧富の差も差別も争いも虐待も苦痛も哀しみもない……。永遠の「凪」の世界となる。感情が沸き立つこともないから、恐れることも動揺することもなく、それで苦しんだりすることもない。悲しみも感動もない世界。これは世界中どこにでもある、天界の神や仏の世界のイメージだ。人類が神になる、とはそういうことなのだ。
現状、人類は肉体も魂もあるから、やがて尽きてしまう命の中で生きなければならず、自身の生存のために攻撃しあって生存に必要な場所を奪い合わなくてはならない。
しかし肉体も魂もない夢幻の存在になってしまえば、争う必要がなくなり、永遠の「凪」の世界で静かに時を過ごすことができる。幸せすら感じることのできない「凪」の世界だ。
それは「天国」や「極楽浄土」のイメージであって、人類補完計画によって人類がその世界に到達するのではなく、まさに「この世」が天国や極楽浄土になり、人類は神や仏になることを意味している。そういった天国や極楽浄土的なものをSF的に表現した言葉が「人類補完計画」というわけだ。
しかし碇ゲンドウがそこまで人類補完計画にこだわった理由は……、
「そして、ユイと私が再び会える安らぎの世界だ」
説明台詞の最後に、本音が出てきている。
碇ゲンドウは別に天界や極楽浄土にそこまで興味や関心があるわけではなかった。ただただ、“消失”してしまったユイに会いたい……。その思いだけでここまで来てしまった。人類補完計画さえ実現すれば、亡き妻に会えるんじゃないか……その思いだけで来てしまった。
そのために全人類を犠牲にしても厭わない……これが碇ゲンドウの狂気だった。
碇ゲンドウの計画について、もちろん冬月コウゾウも承知している。なぜなら冬月もユイに対して、「特別な好意」を抱いていたからだ(この辺りは旧劇場版で描かれている)。
マリは冬月に対して、
「ゲンドウ君は自らが補完の中心になることで、願いを叶えようとしている。それを助けたい。いえ、願いを重ねる冬月先生の気持ちもわかりますが、人類全てを巻き添えにするのは御免被りたいニャ」
と、少し揶揄を込めて語る。
冬月も狂っていたのだ。
(ゲンドウと冬月にここまでさせてしまう……と考えると、ユイはとんでもない「魔性の女」だった可能性があるが)
人類補完計画とはなんだったのか……が語られた後、碇ゲンドウの内面世界へと物語は進んで行く。
碇ゲンドウがどんな幼少期を過ごしてどんな青春時代を通ってきたのか、ここで初めて掘り下げられるわけだが……その中身が碇シンジとそっくりだった、ということが明らかにされる。
この作品は色んなものが対応関係をもって描かれている。
マリーシンジも対応関係を持たせて設計されていたが、他にもシンジーミサトで子と母親の関係、シンジとゲンドウも同じように対応関係を持って描かれている。それは父ー子という関係ではなく、碇シンジと碇ゲンドウは、時代を変えて同じような人生を繰り返す存在だった。
碇ゲンドウは息子のシンジと自分がよく似ている……ということに気付いていた。「見た目が」というだけではなく、内面的に。だからこそ、碇シンジは動揺を誘う存在だったのだろう。まるでかつての自分を見ているようだ、と。
碇シンジが綾波レイと出会ったように、碇ゲンドウはユイと出会うことになる。しかしユイを喪ったことで、碇ゲンドウは狂っていく……。碇ゲンドウは碇シンジを自分と同じステージに突き落とすために、レイ(仮称)の消失を演出する。
だが、碇シンジはすでにそれを乗り越えるだけの強さを獲得していた。碇シンジは碇ゲンドウの人生をループしているわけではなかったのだ。
しかし、ユイとの再会を期待して、全人類を犠牲にして人類補完計画を遂行した碇ゲンドウだったが、ユイと出会うことはできなかった……。
どういうことなのか、ユイはどこにいたのか……というとエヴァンゲリオン初号機の中。これは『エヴァンゲリオン』のテレビシリーズが始まった最初の段階ですでに提示されていたこと。最初からユイはエヴァンゲリオン初号機の中にいた。というか「溶け込んでいた」。
だから人類補完計画の最終段階に来たときも、碇ゲンドウやユイに会うことはできなかった。エヴァ初号機は人類補完計画の外側にいたわけだから、地上のあらゆる魂が融合した後でも、その中でユイの魂に巡り会うことはなかった。
作品が始まった最初の段階で、碇ゲンドウの計画の失敗は予告されていたのだった。しかし碇ゲンドウはそのことに気付かず、狂気の計画を遂行してしまった……これが本作における最大の悲劇だった。
狂気と悲劇の男、「碇ゲンドウ」という人物について、もっと掘り下げていこう。
『エヴァンゲリオン』はご存じの通り、「聖書の世界」がモチーフになっている。作中のあらゆる用語は聖書から引用・題材にされている。こうやって引用しているのは、単に「格好いいから」だろうか。それとも何かしら意図・意味があったのか……それを考えていこう。
まず聖書の世界がどうやって構築されているのか、基本的なところを見ていこう。
聖書の世界は、基本的には「父と子」のお話である。聖書が示す「父」には直接の「父親」という意味があるが、同時に「大いなる父」一族の先祖について示唆されている。その「父」というものが自分を創造した大いなるものである、という「創造主と自分」という関係性が聖書の主題だ。だから聖書が示す「父」には自分の父親という意味と、「大いなる創造主」の両方の意味が含まれる。直接の「父」と、種そのものを生み出した「父」という意味が被さっている。
聖書の難しさは、自分を産んだ父親は間違いなく存在するが、種そのものを生み出した「大いなる父」は存在するのかどうかわからない、ということ。その「大いなる父」は人智を超えた偉大なる存在だから、肉体も魂も持たず、普遍的に存在していて、私たちが良き行いをするかどうか見ている……という。その存在を感じ取れるかどうか、がキリスト教徒たちの主題だった。
『エヴァンゲリオン』との関連を見てみると、碇シンジと碇ゲンドウと「父と子」という葛藤はまさにそうだし、「人類補完計画」は「大いなる父」に対する叛逆と挑戦ということになる。碇シンジにとって碇ゲンドウは直接の父であり、碇シンジにとってそのさらに上の父、というといきなり上位存在的な“神”か何か……ということになる。
聖書の物語を見ていこう。
聖書の物語は、アダムとエバが「知恵の実」を食べてしまったことから始まる。アダムとエバは「知恵」を手に入れたが、しかしそれは楽園の掟を破ることだったので、永久に追放されてしまう。
伝説や神話というものは、何もないところから生まれてくるものではない。ただの空想物語ではない。伝説の多くは掘り下げていくと、それが生まれた切っ掛けとなる事件がある。伝説や神話が何やらファンタジックなイメージで語られるのは、「言葉の意味」が変質してしまうことによって起きる(これを遡って考えるのが学者の仕事)。
こういった伝説が語られ、語られるだけではなく「特に重要なもの」として大切にされ、受け継がれてきたのには大きな意味があるはずだ。どうしてもその事件を忘れまいとするために、受け継いできたのだ。ただ、その内実のほとんどが、現代人の私たちにはわからなくなってしまっている。なにしろ聖書というのは、世界中に散らばっている伝説の中でも際だって古い文字記録なので、書かれていることが何を意味しているのかよくわからなくなってしまっている。
とにかくも、遙か昔、アダムとエバの一族は何かしらの失敗をした(私はアダムとエバは特定の個人ではなく、一族だったと考えている)。何かしらの掟を破ってしまったことによって、古里を追放されてしまった。その事件がアダムとエバ一族にとって拭い去れないほどの「トラウマ」だったから、語り継ぐものになっていった。これが「原罪」である。アダムとエバが犯した失敗を、世代を経ても永久に負わねばならないから「原罪」と呼んでいる。
キリスト教徒達は、その後も父がしでかした失敗を永遠に背負い、その罪の贖罪で一生を費やす宿命を背負わされてしまっている。
キリスト教徒が「父」と言うとき、アダムとエバの創造主たる「偉大なる父」を想定する一方で、罪深き歴史を作り上げてしまった「父」を同時に想定する。その父達の赦しを請い続けるのがキリスト教徒だ。
創造主である「父」と、その父から創造された不出来なアンドロイドでしかない「子」である自分たち。この父と子という葛藤の物語が、西洋人が潜在的に抱いている深層である。
どうして欧米の人がロボットやAIといった技術を前にすると、いきなり「反乱される」と思い込むのかというと、この「父と子」というコンプレクスを潜在的に持っているからである(日本人がロボットとAIについて考えると『鉄腕アトム』や『ドラえもん』や『ヨコハマ買い出し紀行』になる。西洋的なコンプレクスを持っていないからだ)。
この父と子、というテーマが『エヴァンゲリオン』にとって普遍的テーマなので、例えば葛城ミサトも父親がしでかした罪をずっと抱え続けている。セカンドインパクトを引き起こしたのはまさに葛城ミサトの父親だからだ。それで葛城ミサトも、父親がしでかした大いなる罪をずっと「原罪」として背負って生きていかなければならなかった。(だから十字の首飾りを身につけている)
そのついでに、葛城ミサトはニアサードインパクトを起こした罪も抱えている。『エヴァンゲリオンQ』で碇シンジに「行きなさい!」と促したのは、他でもない葛城ミサトだったからだ。葛城ミサトは父の罪と自分自身の罪の二つを背負って、それでも邁進しなければならないという宿命を背負っていた。
それで、『エヴァンゲリオン』の設定を見ると、碇ゲンドウの妻、ユイは「エヴァ」の中にいた。ユイこそは「エヴァ」だった。ということは、碇ゲンドウはアダムということになる。碇ゲンドウのモチーフがアダムだとすれば、碇シンジは単に直接の父の罪ではなく、「大いなる父達」の罪を背負った、「罪人の子」というイメージが出てくる。
いやいや、『エヴァンゲリオン』の設定を見ると「アダム」は別にいる。設定を見ると、碇ゲンドウはアダムではない……。設定ではその通りだが、『エヴァンゲリオン』は設定だけを見ると読み切れない部分が多分にある。それぞれのモチーフがなんであるか、という視点から読み解いていかないと、意味が通らないところが一杯ある。そして『エヴァンゲリオン』はそういうモチーフからも物語を読ませるような示唆が一杯ある。だからこそ、『聖書』のイメージが引用されているのだ。
続きを語ろう。
碇ゲンドウはアダムがモチーフなのだろう。碇ゲンドウは現世での禁忌を犯し、冥府へと旅立った妻に会いに行こうとした。これはイザナギ、イザナミ伝説のようなお話であって、それをSF的に捉えたお話が『エヴァンゲリオン』だ。
日本神話やギリシア神話は「地下」へ潜っていくと冥界へ行けてしまったのだが、SFである『エヴァンゲリオン』はそういうわけにはいかない。碇ゲンドウは様々な計画を練り、大量の犠牲者(生け贄)を捧げて、楽園も現世も冥府もない世界を作り出そうとした。そういう知恵を巡らせたこと自体が、碇ゲンドウが背負った罪だった。
碇シンジは、生まれながらにして父親のしでかした「大いなる罪」である「原罪」を背負わなくてはならなかった。父の罪を背負っているから、単に内気な性格、というだけではなく、自己内罰的な思考意識を持たねばならなかった。碇シンジは自分だけではなく、ずっと父親の赦しを求めていたのだ。
碇シンジにとって、父が犯した「原罪」あら脱却することが自体が一つの試練であった。映画の中で、村での生活を経てようやく、碇シンジは「父に背負わされた原罪」から脱却し、一つの個人として自立し、戦うことを決意していく。
その後、碇シンジは父親ゲンドウと向き合い、戦うのではなく父が背負った罪を引き受け、浄化してしまう。
こういった碇シンジに相当する人物を聖書から探し出そうとしたら、一人しか出てこない。イエス・キリストだ。
イエス・キリストが何者だったのか、というとアダムとエバの一族がずっと背負い続けた罪を自らまとめて引き受けて、自身が依り代になって犠牲になり、「大いなる罪」を浄化した人物だ。それを達成したから、キリスト教において、重要な人物であるのだ。
『エヴァンゲリオン』を見ると、碇シンジはずっと父による命令でしでかしたことの罪で塞ぎ込んでいたし、その父からの赦しと関心をいつも求めようとした。イエス・キリストにも、「父よ、どうして私を見放したのか」と訴える場面がある。父を疑い、荒野を彷徨い歩き、その末で自分の使命を自覚し受け入れていく……イエス・キリストと碇シンジの役割が重なっていく。
マリがマリアのモチーフだったとして、その伴侶となる男性は何者か……というとやはりイエス・キリストということになる。やはり碇シンジに背負わされたモチーフは、イエス・キリストだったのだろう。
ところで、碇ゲンドウには、もう一つ秘密がある。
碇ゲンドウの内面世界へ入っていったとき、実はピアノが好きだった……と話す場面が出てくる。
『エヴァンゲリオン』シリーズの中でピアノといえば『~破』に登場したカヲルだ。
カヲルがどうしてシンジと一緒にピアノを弾くのか……というとカヲルの正体が実は碇ゲンドウだったからだ。碇ゲンドウが、「本当はこうしたかった」という深層を形にしたのが、渚カヲルだったのだ。
『シン・エヴァンゲリオン』の終盤、碇シンジと碇ゲンドウが戦うシーンに入り、ゲンドウが乗るエヴァ初号機は最初、ビルの上に座った姿で現れる。あの姿勢を見て、誰もがピンと来るが、渚カヲルが初めて登場したシーンのあの座り方とピタリと一致する。しかも、カメラの位置があのシーンとは逆になっている。ということは、碇ゲンドウと渚カヲルが裏と表の関係であることがわかる。
続く戦闘シーンを見ると、その最中、渚カヲルを示すイメージがこれみよがしに挿入されるのも、そのためだろう。
その後、渚カヲルは加持リョウジに「渚司令」と呼ばれる。この時の渚カヲルは、碇司令と同じ服を着ている。なぜカヲルがゲンドウと同じ格好をするのかというと、裏と表の関係だったからだ。
碇ゲンドウー渚カヲル……いやいや、そんな「設定」はない……と言われそうだが、そう、これは「設定」ではない。設定の話をすると、渚カヲルは使徒だから、碇ゲンドウと同一の存在であるわけがない。あくまでも「モチーフ」の話だ。『エヴァンゲリオン』は「設定」だけを呼んでも、読み切ることはできない。「設定」とは別のところで、様々な対応関係や元イメージがなんだったのか、それを考えて読んでいかないといけないだろう。
渚カヲルといえば、後半の登場シーンで少し不思議な台詞が出てくる。
「だからこそ、あなたが彼を選び、生命の書に名を書き連ねた」
渚カヲルではなく加持リョウジの台詞だが、こんな台詞が出てくる。
「生命の書」がなんなのかよくわからない。ただどうやら、『エヴァンゲリオン』の世界は何度もループしていたようだ。地球上では何度も崩壊し刷新を繰り返してきたが、月ではずっと記録が残り続けた。それを示すのが、渚カヲルの棺の跡だろう。
いわゆるループものだった。テレビシリーズも旧劇場版も漫画版も、そういう意味では全て別世界線で実際にあった『エヴァンゲリオン』で、それらの『エヴァンゲリオン』は全てその後、終局を迎えてしまったのだろう。“なかったこと”にはされてないのだ。
何度もループしてきたが、しかし碇シンジの名前が「生命の書」に記されていたから、碇シンジとその周辺の人々が毎回生まれてきていたのだろう。
使徒にはそんな力があるのか、それとも使徒の上位存在である神だから、そのような力があったのか……それはわからない。
碇ゲンドウと碇シンジの関係でもう一つ思うのは、庵野秀明という人物について。
NHKドキュメンタリー『さよならすべてのエヴァンゲリオン~庵野秀明の1214日~』の中で、庵野秀明は自身の父親について語っている。
庵野秀明の父親は、仕事中の事故で片足を失い、そのことで世の中を恨んでいたし、色んなことに納得できず苛々していて、その怒りはしばしば息子に向けられることもあったという。
子供時代の庵野秀明にとって、父親は不可解だったし、理不尽に怒りと暴力を向けてくる恐ろしい存在だった。庵野秀明は父親を恐れていたが、しかしその裏で父親を理解したいとも思っていた。そのわだかまりは最後まで解消されないままだったという。
そんな話を聞くと、碇ゲンドウと碇シンジの関係は、庵野秀明とその父親の関係だったのではないか、という気がする。
庵野秀明は碇シンジだったし、碇ゲンドウでもあった。あの時不可解に思えた父親を引き受け、理解したい……。しかしそれは現実で達成することはなかった。だから『エヴァンゲリオン』というフィクションの中で実現したい……。もしかすると、そういう思いが『エヴァンゲリオン』という作品の原型にあったものかも知れない。
碇ゲンドウの回想シーンの中に一瞬、父親らしき姿が映る。庵野秀明の父親と容貌は違うけど、イメージの中にあったのは、庵野秀明自身の父親だったかも知れない。
さて、「人類補完計画」の描写について、もう少し掘り下げてみていくとしよう。
ゲンドウはシンジを連れて、あるものを見せる。それは「黒いリリス」だった。だが、ゲンドウは「お前の記憶ではそう映るのか」と言う。
「葛城博士が予測した現世には存在しない、想像上の架空のエヴァだ。虚構と現実を等しく信じる生き物。人類だけが認知できる」
想像上であり、架空の存在であり、それは人類でしか認知できないという。なぜ人類でしか認知できないか、というとその存在が「虚構」に過ぎないから。「虚構」を認識できるのは人間だけだから、人間にしか認識できない。
私はこの辺りの話は、「創作論」だと理解した。要するに「アニメは人類以外に認識できない」と……。ここから先のお話は、「モチーフ」とかそういう話を越えて、「創作論」の話をしているのだと私は理解した。
ついでにいうと、ホモ・サピエンスでしかアニメは認識できない。これは正しいかどうか今となっては不明だが、同時代を生きていたネアンデルタール人は虚構を理解し得なかったそうだ。もしもネアンデルタール人が現代まで生きていたとしても、ネアンデルタール人の中からアニメは生まれなかったし、アニメと接してもそれを理解できなかっただろう。こうした虚構を理解できるのは私たちホモ・サピエンスの特権的な知覚能力の産物で、そうした知覚能力の歴史的な積み上げの結果が、「エヴァンゲリオン・イマジナリー」のようなものを生み出した……そういう話だと私は考えた。
アニメのようなものを認識できるから、エヴァンゲリオンなるものが生まれて、リリンのようなイマジナリー的なものも認識できる。思念や思想などを持ち得るから、人類が人類補完計画のようなものの核となり得る。ラストの人類補完計画から人々から解放されたとき、解放された魂のほとんどが人間で、動物が少し混じっていたが野生動物の姿はなく、だいたいが人間と一緒に過ごす愛玩動物ばかりだった。
人類補完計画によってすべての生命と魂が一つに連なったのだが、その主要となるものは人類のみが持つ「想像力」だった。想像力を持ち得るから、人類補完計画なる発想も持ち得たのだ。
人類補完計画とは、虚構として生み出されたもの(エヴァンゲリオンの世界)と現実が溶けあって、同一の情報となること――と説明される。虚構世界の人々がその「虚構」という壁を通り抜けて、現実との情報の差異がなくなっていく。
というこの辺りは、物語的な「設定」と、「創作論」の話が混じり合って一つのストーリーを紡ぎ出している。
その後、巨大な綾波レイの顔面が生成される。この巨大綾波レイのイメージは、旧劇場版で見たものと同じだ。
ただし、その頭部が非常にリアルに作られたCGになっている。それを見て、北上は「これ変! 絶対に変!」と声を上げる。
なぜ変なのか? どうして変だと思ったのか?
それは北上が「二次元のアニメ世界」の住人だからだ。アニメの住人がリアルなCGで作られた頭部を見ると、変だと感じるのは当たり前。抽象度の違う者同士が同居する違和感がここに描かれている。
(もしも私たちが、2次元程度の情報量しかない何かと向き合ったら、「変!」と思うだろう。……ただし、私たちは2次元のメディアに触れすぎているから、そういう情報量の変化にもはや違和感は感じないかも知れないが)
どうしてここでリアルな頭部を持った顔面が出てくるのかというと、2次元とは違う情報量を持っていることを示すため。『エヴァンゲリオン』は所詮は2次元のアニメでしかなく、それよりもさらに上位の存在を表現したい。そこでリアルな顔面が出てくる。それに奇怪さを感じるように表現されている。もしも実写作品だと、生身の俳優以上に情報量のある何かを表現することはできないから、まさしく「アニメでしかできない表現」である。
リアルな頭部に続いて、巨大な綾波レイの体が巨神兵のごとく行進するシーンが描かれる。しかしそこに頭部がない。頭部がないのは、意思や意識といったものが、全て巨大な密度を持った「一つの頭」の中に吸い取られているからだ。この「一つの情報密度の高い頭部」の中に吸い取られちゃっている状態が、人類補完計画の映像的なイメージだ、というわけだ。
このシーンの一つ前に、エヴァ13号機と初号機の戦いが描かれる。
だが、この戦闘シーンがかなりおかしい。すでに滅んだはずの第3新東京市、というのも変だし、建物がやたらと簡単に吹っ飛んでいくし、背景には奥行き感が全くなく、ビルの向こうにいきなり空が描かれている。
なにか描写がおかしい……と思ったら、間もなくセットの一部が横倒しになり、その横倒しになった側面に「東宝」の刻印が見えてくる。
それだけではなく、脚立も見えてくるし、セットの端っこまで行くと、空が布に描かれたものに過ぎないことも示される。
(エンドクレジットを見ると、「島倉二千六」の名前がクレジットされている。特撮界隈で「雲の神」と称されるレジェンド級の絵描きである)
要するに、このバトルシーンはずっとミニチュア特撮をアニメに書き起こされたシーンだったのだ。
それ以降のバトルシーンもずっとミニチュアセットの上で、着ぐるみエヴァンゲリオンで戦うシーンが続いてしまう。
どうしてこんな描写になるかというと、『エヴァンゲリオン』の世界観が「虚構」でしかないからだ。碇シンジとゲンドウはイメージの中で戦っているわけだけど、そのイメージの戦いは「リアル」な戦場ではない。所詮は虚構でしかない。その虚構でしかない形を見せようとしたら、そういう表現になっていく。
このシーンでの「虚構に過ぎない」というのはある種の「設定」だが、一方でこの作品全体の「創作論」の部分にもなっている。『エヴァンゲリオン』なんてアニメは所詮はアニメでしかない。アニメの住人で2次元だから、3Dで作られたリアルな顔面を見ると「変!」という印象が出てしまう。
この辺りのシーンを見て、私は「ああ……」と参ってしまった。「エヴァンゲリオンの世界観なんて、本当はこんなものですよ」と手の内を明かすところを見せられたような気がしたからだ。
普通の創作物は、ああいったセットの裏や、セットの裏にある照明や脚立なんかを見せないようにするものだ。ああいった「裏側」や「楽屋」が見えないように設定を作り、ディテールを作り込む……それが作り手の命題だと私なんかは思っていた。
『エヴァンゲリオン』も徹底的に世界観や設定を作り込んだ作品だ。しかしその終幕において、「虚構でございますよ」と見せてしまった。しかもそれ自体を、物語的な表現や設定の中に、きちんと接地されている。単に「面白い表現」ではない。物語的な必然として描かれている。
これが映画の結末に実写風景が出てくることに繋がっていくのだけど、その前段階で「所詮は2次元ですよ」という告白的な描写に、私は驚いてしまった。
最後のバトルシーンを経て、碇シンジはエヴァンゲリオンの中に溶け込んでいた、かつてのエヴァパイロット達を「送り出し」ていく。要するに「成仏」させるシーンだ。
この「成仏・昇天」のシーンが、どこか「卒業式」のように感じられる。これは気のせいではなく、作品が巨大な「卒業式」だから、そのように感じられるのだ。
『シン・エヴァンゲリオン完結編』は途中から延々なにかしらの「儀式」が描かれる。作中の「設定」としては「人類補完計画」であると説明されるが、それは表面的な話ではなく、作り手が中心に起きたかったのは「エヴァンゲリオン卒業式」。その最後のシーンだから、それぞれのキャラクター達を「卒業生」として送り出しが描かれていく。
この辺りの情緒的な空気がたまらない。25年間、エヴァの呪いで14歳の端境を彷徨っていたキャラクター達が、その役目を解かれて解放されていく。もう「再生産」されることもない。
かつて『エヴァンゲリオン』は「終わらない物語」「終われない物語」と語られてきた。どうやって終わらせるのか、その方法がわからない。だから延々同じストーリーが再生産されていく。
それは『エヴァンゲリオン』という作品単体の話ではなく、その周辺の、「ポスト・エヴァ」として作られた現代の多くの作品についても同様に語られる。エヴァ以後の物語がきちんとした結末・終焉が描けなくなったのは、『エヴァンゲリオン』という終わらない物語が存在してしまっているからだ。
だが『シン・エヴァンゲリオン完結編』によって、まさしくその終焉が描かれていく。単に「物語」として終わるのではなく、ある種の「表現」としても終わらせようとしている。「物語」として「表現」としても終わらせる方法に行き着いたことが、『シン・エヴァンゲリオン完結編』の素晴らしいところだった。
最後に送り出されるのは綾波レイだ。
背景を見ると、完全にどこかのセットだ。場所はドキュメンタリーで見覚えがある。東宝の撮影スタジオだ。見ていると、映画中の小道具が点々で出てくる。
『エヴァンゲリオンQ』を見たとき、私はずっと「駆逐艦を糸で吊っている」という表現に引っ掛かっていた。「設定」的にはヴンダーが糸で吊っている……ということなのだが、そうではなく、そもそもどういう発想で「駆逐艦を糸で吊る」なんて発想が出てきたのだろう……と疑問だった。
なんのことはない。元ネタは特撮だった。ウルトラマンを糸で吊っているのと同じ発想だった。駆逐艦を糸で吊るという映像は、あの段階から既に『エヴァンゲリオン』の世界が虚構ですよ、と見せるための予告的なものだったのだ。
そのセットでしかない場所に立っている綾波レイは、ものすごい髪が伸びてしまっている。
作中で、マリがアスカの髪を切るシーンがある。エヴァの呪いを受けて、成長しなくなるし食べなくても生存できるようになるけど、髪だけはずっと伸び続ける……と語られる。
とうことは、髪の長い綾波レイは、ずっとその場所に居続けたからだとわかる。赤ちゃんのツバメ(に見立てた人形)を抱いていることから、死んでいったレイシリーズの全記憶を引き継いでいるオリジナル綾波レイであることもわかる。
ここに留まりたい……そう言う綾波レイに、碇シンジはこう言う。
レイ「私はここで良い」
シンジ「もうひとりの君は、ここじゃない居場所を見付けた。アスカも戻ったら新しい居場所に気付くと思う」
レイ「エヴァに乗らない幸せ。碇君にそうしてほしかった」
シンジ「うん。だからここじゃない君の生き方もあるよ」
アスカはすでに送り出されていった。それは「死んだ」とか「消滅した」といった話ではなく、「別の世界へ旅立った」……という意味だった。それがどういうことを示しているかというと、エンディングの駅にいたアスカ、ということになる。
綾波レイは、「この場所に留まりたい」と言う。つまり、まだ虚構の世界にいたい、と。それに対して、碇シンジは別の生き方を見付けるから、自分もそうしろと語る。
シンジ「そうだ。僕もエヴァに乗らない生き方を選ぶよ。時間も世界も戻さない。ただ、「エヴァがなくてもいい世界」に書き換えるだけだ。新しい人が生きていける世界に」
レイ「世界の新たな創世。ネオンジェネシス」
碇シンジは「エヴァに乗らない生き方」を選ぶと良い、「時間も世界も戻さない」と語る。要するに、「時間を戻してまたエヴァに乗るようなアニメはもう作りません」という宣言だ。そうじゃない世界を作り上げて、虚構ではなく、現実の世界を生きる……と。もう現実の世界で生きる準備はできているから……。
このやり取りを見て、みんなピンと来るはずだが、これは最初のテレビシリーズのラストシーンだ。突如パンをくわえた綾波レイが「遅刻遅刻ー!」と飛び出してくる……あの世界観を示唆している。実は同じことをやっているわけだが、時を経て、そこに描かれているニュアンスが大きく変わっている。
なぜニュアンスが変わったのかというと、25年の時を経たから。あの時、きちんと終わらせられなかったものを、終わらせる方法を見付けた。それは実は25年前に描こうとしていたものと決定的に違っていたわけではなかった。違っていたわけはなかったが、当時は(作り手自身が)意識や思想も追いついていなかった。25年の時を経て、やっとこさ見付けたラストがこれだったのだ。
綾波レイを送り出して、碇シンジはヴィレの槍で自殺を図ろうとする。
碇シンジは「主人公」という作品の特異点だし、イエス・キリストであるから作中の全てを背負って、作品を終幕に導くために自ら死ななくてはならない。
だが、そこに救いの手が差し伸べられてくる。――母親であるユイだ。
碇シンジは死ぬ必要はない。死ななければならないのは、エヴァンゲリオンという存在のほう。エヴァンゲリオンという虚構を終わらせるために、第一に消えるべきはエヴァンゲリオンという空想だ……という発想だ。
このシーンを経て、碇シンジは、
「やっとわかった。父さんは母さんを見送りたかったんだね」
と悟る。
父親が果たせなかった「送り出し」を背負って、引き受けたのがイエス・キリストである碇シンジの役割で、それを達成できたことを確かめて、物語は終わる。
かつてのネルフ跡湖に、ヴンダーから射出された脱出ポッドが突き刺さっている。しかし乗組員の姿はない。足跡を残すだけだ。なぜなら、みんな虚構世界から送り出された後だからだ。みんな『エヴァンゲリオン』という虚構世界の外へ旅立ったのだ。
しかし碇シンジだけが『エヴァンゲリオン』の中に残ってしまった。砂浜で座って待っている碇シンジ。次第に背景がラフになり、キャラクターから色がなくなり、中割動画も消えていく。
これは「エヴァンゲリオン」というアニメ虚構の核となる存在が消えてしまったから、その虚構を維持できなくなったから。『エヴァンゲリオン』は所詮はアニメでしかない。碇シンジがたった一人で残ってしまい、その虚構を維持できなくなり、間もなく消滅しようとしていた……。
このまま真っ白な絵になって消滅か……というところでマリが飛んでくる。
「よっしゃー間に合った! ギリギリセーフね!」
と、マリが飛び出してきて、作品に色が戻ってくる。
何が「間に合った」なのか、でなにが「ギリギリセーフ」で、どうして色彩が戻ってきたのかというと、アニメという虚構が消滅する寸前のところで碇シンジを迎えることができたから。マリという美少女との関係が生まれて、そこに世界(物語)が生まれて、色彩が戻ってきた……という表現だ。
シンジとマリが出会って、新たな物語が始まる。それはもはや「エヴァンゲリオン』ではない。まったくの別作品だ。『エヴァンゲリオン』がすでに終了した後のお話だ。
シーンは駅だ。そこで何かを待っている碇シンジが描かれる。
なぜ駅なのか、というと第3村にやって来たとき、最初に出てきたのが転車台だったからだ。あそこが碇シンジの終着点で、折り返して、いま駅にいますよ……というのがこのシーンだ。
駅で待っていると、白い鳥がパタパタと飛んでいく光景が描かれる。覚えているだろうか? 『エヴァンゲリオン』テレビシリーズ第1話、冒頭で白い鳥が描かれて、続いて綾波レイの残像が現れて、次に使徒が出現するという流れだった。映画の最後で白い鳥が描かれたのは、「これから物語が始まりますよ」という予告で、そこに現れたのがマリだった。ということは、これからマリを取り巻くお話が始まる、という意味だ。
綾波レイでもなく、使徒でもなく、ミサトでもない。大人になったシンジは、マリと遭遇する。14歳の少年ではない。現実の時間経過を反映した姿として描かれている。
『エヴァンゲリオン』の世界観が完全に終了し、その世界観に留まっていた人々が送り出され、まったく新しい物語がそこに始まる。あの旧世界のキャラクター達が送り出された後だから、「遅刻遅刻ー!」ではない。もし「遅刻遅刻ー!」だったらそこでアニメの再生産的な物語が始まってしまい、またしても「終わらない世界」、つまり「ループ世界」に閉じてしまう。
碇シンジも大人になった。リアリティの中で生きていく用意ができるようになった。だから大人になり、実写背景を走って行くラストシーンが描かれていく。こうして『エヴァンゲリオン』の物語……物語というか、『エヴァンゲリオン』の世界そのものが終焉に向かっていく。
こうやって『シン・エヴァンゲリオン完結編』の描写を一つ一つ見ていくと気付くのだが、実はやっていることはあの破綻したテレビシリーズと、旧劇場と同じものだった。おそらくは、25年前の頃から、庵野秀明監督の脳内に「こうやって終わらせよう」という結末イメージは見えていたのだろう。
だが、当時はそこへお話を持っていく方法が見つからなかった。旧劇場版の時もやっぱり見つからなかった。25年間悩み続けて、あがき続けて、ようやく見えてきた、もっとも『エヴァンゲリオン』にとって相応しい決着方法が、今回の作品だったのだ。
しかし、そう考えると、今回の映画で描かれたようなイメージは、あのテレビシリーズ後半の話数の中に収めるのは絶対に無理だったし、旧劇場版のスケールや体制を持ってきても不可能だった。私たちの理解も追いついていなかったし、おそらくどのスタッフも理解できなかっただろうし、もしかすると庵野秀明自身もわかってなかったかも知れない。25年の時を経て、庵野監督のイメージがアップデートされ、社会の意識そのものもアップデートされて、それでようやく発見した終わり方がこれだったのだ。
そう考えると『エヴァンゲリオン』のストーリーを本当に完結させるのに、25年という時間は「必然」だったんじゃないか……とすら感じられる。破綻したテレビシリーズも、完結したと言いながら完結していなかった旧劇場版も、本当の完結編に導くための途中経過として必要だったように感じられる。すべて最後のエヴァンゲリオンを描くために、必要なピースだったのだ。そう感じられるのは『シン・エヴァンゲリオン』がすべての「エヴァンゲリオン」を引き受けて、送り出したからだろう。
「さよなら、すべてのエヴァンゲリオン」
この台詞は、どこか『シン・エヴァンゲリオン完結編』を象徴する台詞のように感じられた。
25年間、「終わらない物語」と言われ続けた物語が終わった。これを見終えて、私はなんともいえないスッキリした気持ちになっている。それはやはり「卒業式」を無事に終えられた感慨のような気がする。
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