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ドラマ感想 真夜中のミサ

 Netflixドラマ『真夜中のミサ』を視聴した。正直なところ、最初は「これ面白くないなぁ」と思って3話くらいで終わるつもりだった。「ホラー」という前情報だけで見始めたのだけど、ぜんぜんホラーが始まらない。死体も出てこなければオバケも出てこない。なんだこりゃ?
 でも4話以降、だんだん作品の正体が見えてきて、最終的には面白かった。
 どうしてこのような意識の変化が起きたのかというと、途中で見方がわかったから。私は見方を間違えていたんだよね。というわけで、どうして最初は面白く感じられなかったのか、どう見たら面白く感じられるのか……そういうところから今回の感想文を書いていこう。

 まずお話は、ライリー・フリンという若者が飲酒運転で交通事故を起こすシーンから始まる。ライリー・フリンは敬遠なクリスチャンで、事故を起こし、相手を死なせてしまった時、「天にますます我らの父よ……」と祈りを唱え続けていた。
 やがて4年の刑期が確定し、刑務所暮らしが始まる。以来、寝ようとするライリーの前に、あの時死なせてしまった女の子の姿が見えるようになる。
 ライリーはこの時の“罪悪感”からずっと逃れられなくなる。
 4年後、ライリーは刑期を終えて、故郷である島に帰ってくる。その頃にはライリーは棄教していて、無神論者になっていた。
 このエピソードが冒頭に入ってきている……というところがお話のポイント。このエピソードがライリーにとっての“原罪”として描かれる。

 ライリーの古里である「島」はごく小さな島で、住民全員集めても100名ちょっと。これといった産業も娯楽もない。周囲の環境から隔絶された、寂れた漁村であった。
 島の中心になっているのが小さな「教会」で、島の全住民がキリスト教。そうはいっても、そこまでみんな宗教に熱心というわけでもない。
 ライリーと同じ船でやって来たのが、ポール・ヒル神父。もともとは巡礼の旅に出ていたプルーイット司祭が戻ってくるはずだったが、プルーイット司祭は病気で島に来られなくなったために、ポール・ヒル神父が代わりに島へ来ることになったのだった。

 島の住人たちはみんな何かしらを抱えていた。人間関係が冷え込んでいたり、後ろめたい過去を抱えていたり……。でもお互いにそういう後ろめたさや過去については触れないで、薄らぼんやりした“後ろ向きの平和”を築いていた。
 一見静かで平和的に見える島だが、お互い過度に干渉し合わないことで、なんとなく成立している平和に過ぎなかった。
 象徴的に描かれるのが、車椅子のリーザとジョー。ジョーは猟銃の点検中に暴発させてしまい、意図せずリーザを撃ってしまった。以来リーザは下半身不随で車椅子生活だった。
 ジョーはリーザという少女を不具にさせてしまったことにずっと後ろめたさを感じている。謝りたいけれど、近付くことすらできない。
 一方の車椅子のリーザはジョーを恨んでいるけれど、しかしその怒りを直接爆発させることはない。お互いに、なんとなくの距離を置きながら、干渉し合わない関係を作っていた。
 ジョーはそのリーザへの後ろめたさをずっと引きずって、アル中に陥っていた。これがジョーにとっての“原罪”として描かれる。
 と、こういう感じに色んな人物が同時に掘り下げられる群像劇的な描かれ方をしている。それがかなり時間をかけてじわじわと掘り下げられていく。ホラー作品というより、とある寂れた漁村で展開される人情話……といった感じの作品だ。

 私は「ホラー」という前情報だけで見始めたから、「ぜんぜんホラーがはじまらない……」ということが不満だった。3話まで見てても幽霊もモンスターも出てこない。目立った事件すら起きない。
 でも、そもそもそいう作品じゃなかった。わかりやすいエンタメ的ホラーじゃない。ホラーを期待して見てしまったから「面白くない」という印象だった。でも4話に入ったところで、ようやく「あ、これホラーじゃないぞ」と気付いて、見方を変えるようになっていった。
 では『真夜中のミサ』はどういう作品なのか……何がホラーだったのか……という話を掘り下げていこう。

 まず作品タイトルが『真夜中のミサ』で、全7話構成。エピソードタイトルを見ると、第1話が「創世記」で、最終話が「黙示録」。この構成を見てピンと来ると思うが、聖書の「神は7日で世界を作り上げた」というお話からこの構成が決められている。ということは、宗教的なお話だ……ということがここで推測できる。
 作り手的には、この構成で気付いてね……という感じだったんだろう。

 お話のポイントとして、島民は全員キリスト教徒なのだが、1人だけイスラム教徒がいる。ハッサンという本土からやってきた保安官だ。
 あるシーンで、キリスト教とイスラム教で議論になる場面がある。キリスト教はローマを拠点にするようになって様々に分裂した。いろんな宗派が生まれ、同じキリスト教同士で対立するようになった。しかしイスラムは、ずっと原典のまま変わらず読まれ続けている。イスラムの経典のほうが実は正しい。コーランのほうが神の正しい言葉を伝えているのだ……と、大雑把に省略するとこういう議論を、結構な尺を使って議論される。
 これは大事な話で、「キリスト教の転向しやすさ」を語っている。キリスト教の経典やその解釈はコロコロと変わるので、自分たちでも気付かないうちに邪悪な思想に転落してしまうことがある。これが実は後々の大きな伏線にもなっている。
 そう語るイスラム教徒が島唯一の「保安官」ということがポイントで、キリスト教徒は次第に邪教に転落していくのだけど、保安官だけがブレることなく周囲の社会を律する立場にいる。そういう人間が保安官と設定されているところが大きなポイントだ。
(意地悪なツッコミをすると、イスラム教にも様々で、例えばイスラム過激派みたいなのはコーランの内容を曲解し、「暴力やってもいいんだ」と正当化している人々。ここでそんな話をしても意味がないけど)

 もう一人、紹介すべきキャラクターがベヴァリー・キーン。熱心なキリスト教信者で、ゆえに自分が思い描いた正義を疑えない……という人物。
 ベヴァリーについて2つのエピソードがあるのだけど、その一つ目が教会近くに作られた「集会所」。島が台風になった時に避難する場所だけど、この集会所、ベヴァリーが勝手に作ったものだった。教会修理でみんなからお金を集め、そのお金で勝手に集会所も作ってしまった。なぜなら、みんなが必要だから、必要なものだからもちろん喜んでくれるよね? そうでしょ……という感じで。
 もう一つのエピソードは、ジョーが飼っている犬を毒殺するシーン。ジョーが飼っている犬を、大きくて危ない、吠える、こんな犬は危険だわ……と毒殺してしまう。みんなにとって危ないから、これは正義なのよ……と。
 と、こんなふうに危ないおばちゃんなのがベヴァリー。「自分が正義だと思ったら横領してもいいし、他人の家のペットを毒殺してもいい」と考えてしまう。「正義」に対して盲目的になってしまう……最初から危ない素因を持っているタイプ。正義を振りかざせば何を言ってもいい、何をやってもいい……という考えはどこの世界にいても危ないやつだ。
 このベヴァリーというおばちゃんを中心に、島の住民は危険思想に流されていく。
(全編を通して、このおばちゃんの名演技っぷりが際立っている。名脇役である)

 こういう対比があるのだけど、安易に「キリスト教を下げて、イスラム教を上げる」という話ではない。その逆で、邪悪な思想への誘惑がそこにあっても、キリスト教としての思想を貫き通せるか……ということが大きなテーマになっている。
 そのキリスト教的な思想や理念、というのは「原罪」と「救済」。
 例えば、主人降格であるライリーは飲酒運転による事故で人を死なせてしまった。そのトラウマをずっと抱えている。ジョーは猟銃を暴発させてリーザを半身不随にしてしまった。その他のキャラクター達もみんな過去に後ろめたいことを抱えている。その自身の罪に対して、向き合えるか……という話。
 そこに「悪魔」が登場してくる。悪魔の登場で島の様相は一変してしまうのだけど、しかしそれは……。

ここからネタバレ!

 ここからネタバレだ。一気に作品の結末までのお話をしてしまおう。

 お話はプルーイット司祭だ。
 プルーイット司祭は80歳を過ぎて、念願だったエルサレムへ巡礼の旅を始めるのだった。
 しかしプルーイット司祭は認知症を患っていて、旅の最中に同行していた仲間達とはぐれてしまい、エルサレムを彷徨い、気付けば砂漠に出てしまい、しかも砂嵐に巻き込まれてしまった。
 ようやく砂嵐を避けられる洞穴を見付けて中に入ったのだけど……どうやら古い遺跡に迷い込んでしまったらしい。砂漠の中にずっと埋まっていたけれど、砂嵐でたまたま地表に現れ、そこに入ってしまったのだ。マッチで火を点けると……何かがいる。化け物だ!
 プルーイット司祭は怪物に襲われ、瀕死の重傷を負う。しかし怪物は何を思ったか、自分の血をプルーイットに飲ませた。プルーイットは朦朧とする意識の中で、怪物の背後から後光が射すのを見る。プルーイット司祭はその怪物を「天使」と誤認するのだった。
 次に目を醒ますと、プルーイット司祭は若返っていた。これは天使による奇跡だ……!
 そう確信したプルーイット司祭は、「ポール神父」と名乗り、「天使」を連れて島へ帰ることにした。島の人達に、天使の教えを伝えるために……。

 その天使が悪魔だと気付かずに……。

 ポール神父は島に戻って、聖体拝領の時に「キリストの血だ」と言いながらワインに自分の血を混ぜて、教会に来た信徒たちに飲ませていた。
 やがて信徒たちに飲ませた血の効果が現れてくる。半身不随のリーザが、自分の脚で歩き始めたのだ。
 奇跡だ! これまで島の人達は教会に来なかったのだけど、リーザの奇跡を聞いて来るようになった。教会は連日満員になり、ポール神父は集まってきた人達に、「キリストの血だ」と悪魔の血を分け与えていくのだった。
(「キリストの血」が知らない間に悪魔の血にすり替わっている……ということも、「キリストの教えがいつの間にか邪教の教えにすり替わっている」という作品の文脈に関わっている)

 すると島の人達の健康は回復していき、活力に漲り……というここまでのお話なら、昔の映画『コクーン』みたいなお話。「良いお話」で終わりそうな流れだ。でもこのお話は「宗教的説話」。「原罪」と「救済」がお話の通底に流れている。

 車椅子のリーザは悪魔の血を飲んだことによって自分の脚で歩けるようになり、その後、自分をそういう体にしたジョーのところへ行き、「あなたを赦すわ」と言う。
 でもこれは「歩けるようになったからもう許すわ」という話でしかない。これはキリスト教的な思想から外れてしまう。キリスト教的な思想では、理不尽や不条理を受け入れて、飲み込んだうえで赦せるか……という話。「病気がなくなったから、もういいわ」という意識では、それは「原罪」と「救済」ではない。「原罪」の苦しみから逃れた「救済」であって、まがい物でしかない。

 とあるシーンで、ライリーが言う。
 世の中には色んな理不尽や不条理がある。もしも神がいるとしたら、神はどうしてなにもしないんだ? 神がいたらこんな理不尽や不条理は起きないはずだ。神による奇跡や救済というやつはいつになったらくるんだ?
 と、だいたいこんな感じに神に対する怒りをぶちまける。それに対して、ポール神父はしどろもどろで何も答えられない。
 でもそれもそのはずで、そういう理不尽や不条理こそが神に対する試練である……というのがキリスト教的な思想。その理不尽や不条理を受け入れた上で、自身を赦せるか、相手を赦せるか……。それが到達できた時、救済が訪れる。
 ライリーは交通事故を起こして人を死なせてしまい、以来ずっとトラウマを抱える。そのトラウマから逃れられない。それはつまり、自分の罪と向き合えていないことを意味する。
 リーザの場合だと、半身不随という不条理を受け入れながら、ジョーを許さなければならない。「原罪」の苦痛を引き受けた上での許しが「救済」だ。
 しかしライリーにはそこまでわからず、神から救済がもたらされないことに失望し、棄教してしまった。
 こういったテーマはマーティン・スコセッシ監督の『沈黙』にも通じるところ。キリスト教的なテーマは、案外同じことを繰り返し語っている。

 そこに島に悪魔がやってきて、「偽りの癒やし」を島の人々に与える。島の人々の体は回復し、解放されていく。みんな活力旺盛になって、人間関係がよくなっていく。一見いいことのように思えるけれど……。
 でもそれは、本来あるべき苦しみから逃れているだけに過ぎない。
 ミルドレッド・ガニングという老婆がいて、重度の認知症を患っていたのだけど、悪魔の血を何度も飲まされているうちに、次第に認知症が回復し、物語の後半に向けて若返ってしまう。これもやがてやってくる「老い」や「死の恐怖」から逃げただけに過ぎない。若返ってハッピーという話ではない。老いと死の恐怖から逃れたところで、救済は何もない。

 島の人達は、悪魔がもたらす「偽りの癒やし」を「救済」だと思い込んでしまう。そこで島民たちの転落が始まる。唯一イスラム教徒の保安官ハッサンだけがそのみんなを律する立場になる。気持ちが移ろいやすいキリスト教徒たちのなかにイスラム教徒がいるのはこういうこと。
 もう一人、キリスト教の幻滅し、無神論者になっていたライリーも、最終的に事態に気付き、自分の肉体が悪魔に変わってしまったことに気付いた時、自ら死ぬ決意をする。ライリーはこの時に、「自ら死ぬ」という決断を受け入れて実行したから、その死に際に「女の子を交通事故で死なせてしまった」というトラウマから解放される。

 ここまでのお話でわかるように、『真夜中のミサ』はホラーというより宗教的説話。キリスト教的な原罪を受け入れられるか、人に赦しを与えられるか……そういうお話。
 それじゃ、どこにホラー要素があるのか、というと「悪魔」が例え話ではなく、本物が登場して来ちゃうこと。キリスト教徒はよく悪魔のお話を「例え話」として出してくるのだけど、『真夜中のミサ』では本物の悪魔が登場して来ちゃう。その悪魔が人々に「偽りの癒やし」を与えて、人々は気がつかないうちに邪教へ転落してしまう。癒やしが与えられ、葛藤がなくなったから「じゃあアンタを許すわ」みたいな軽い許しをお互いに与え合うようになる。でもそんなものは本当の救済ではないぞ……というお話。
 ポール神父は、「みんなを救いたい」という思いから、悪魔を天使だと思い込んで、その血を飲ませ続けてしまう。ポール神父は邪教の教えに飲まれてこうした狂気に走ったのではなく、「神父」という立場でみんなの精神を救済したいと願い、血を飲ませれば救えると思っていた……その結果、村全体を転落させてしまう。お話の切っ掛けが「悪意」ではなく「善意」というのも大きなポイントとなっている。「善意」のつもりで、キリスト教が転落する……というのが作品の大きなテーマだ。
 もう一つは、実はこれ「ヴァンパイアもの」。悪魔の血を飲まされた人々は、やがて悪魔そのものとなって血を渇望し始める。そして日光を浴びると死んでしまう。完全にヴァンパイアの属性。ヴァンパイアのルールを借りながら、いわゆる通俗的なホラーではなく、宗教的説話を展開している……というのがこの作品。
 悪魔が出てきて、ヴァンパイアの文脈が採用されている……というところでホラーはホラー。でもそこに作品の本質を置いていない。

 悪魔の登場と人々が邪教に転落していく様子がホラー的といえばホラーだけど、そこもぜんぜんホラー的な見せ方をしていない。
 悪魔が出てくるシーンにしても、ぜんぜんホラー的な見せ方をしていない。かなり無防備に悪魔を見せる。モンスターというより、動物かなにかみたいに。怖がらせようという感じが全然ない。
 でもそれは、つまり「そういうホラーじゃないですよ」という意味。エンタメ的な怖~い作品じゃなくて、飽くまでも「原罪」と「救済」を問うお話なので、悪魔の描写はむしろポンと見せる。悪魔の姿が恐ろしいかどうかも、この作品の本質ではない。だから悪魔の姿で怖がらせようとしていない。
 人々が次第に邪教に転落していくのだけど、そこでもハリウッド映画的なわかりやすい展開を取っていない。ハリウッド映画では短い時間での転落を描くため、もっとわかりやすく転落を描く。でも『真夜中のミサ』はその過程が非常にゆっくりで自然に描かれている。ポール神父が島にやって来て、人々に「キリストの血だ」と偽って血を飲ませて、次第に病人が元気になっていき、それを奇跡だと思い込んでついていったら、いつの間にか邪教に転落していた……というのがこの作品の物語的な経緯。みんな「キリストの教えだ」と思い込んで、悪魔の教えに導かれてしまう……という悲劇。
 なによりポール神父を悪として描いていない。ポールは自身をずっと正義だと思い込んでいる。ただ間違いを抱えていた人……みんなを救いたいと思った末、間違えてしまった人だ。

 というわけで『真夜中のミサ』はぜんぜんホラーじゃないんだ。そうじゃなくて、そうした悪魔による「偽りの癒やし」がそこにあっても、人々はキリスト教的な「原罪」と「救済」に向き合えるか。それを中心軸にしたドラマ作品。部分的にホラーの文脈が使われているけれど、ホラー的な怖さは全くない、かなり地味な内容。
 ライリーは毎日自分が死なせた女の子の幻覚を見るのだけど、これも実は幽霊ではなく、ライリーが感じている「後ろめたさ」が見せた幻覚でしかない。映像はちょっと幽霊っぽく、ホラーっぽく見せているけれど、これもホラー的な仕掛けではなく、宗教的説話を描くためのもの。
 だからホラーだ……と思ってみるとぜんぜん面白くない。宗教的説話を中心にしたドラマ作品だ……と気付いた瞬間、面白くなる。そういうドラマ作品だ……とあらかじめ言っててくれよ……というくらい。むしろ「ホラー」と言われるからそこを期待して肩透かしを食らっちゃう。これを「ホラー」として紹介するのは間違っている。
 ゴリゴリのホラーじゃなくて、ホラー的な文脈がちょこっと使われている宗教ドラマ。これに気付くと面白くなる作品。それどころか、なかなかに注目ポイントのある良作。

 ところで、この作品の舞台は、うらぶれた漁村。この漁村の風景だけど、どうやら全部映画のセットだったみたい。
 というのも、後半に入って全部燃やしてしまうから。燃やしてしまう……ということは実際の建築じゃないってことで……。セットにしても「燃やす」というのは結構勇気のいること。失敗は許されないからね。台詞一つ間違ったら……という失敗も許されない。もう一回セットありの状態で撮影したい……というのもできないし。
 一見地味だけど、結構な予算がかかっている。とことん地味に徹することで完成度を高めている良作。テーマの選び方にしても、なかなか誰もやらないことをやっている。でも「ホラー」といって紹介するのはどうかな?


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