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8月24日 私達の社会はもう後戻りできない。

 この数日、『昨日までの世界』をネタにした雑談をし続けてきたが、今回で最後。最後はこんなお話。

 とあるニューギニア人女性は、アメリカに移住してきてもっとも気に入った点は「匿名性」だと語る。狩猟採取民の生活と比較すると、高度工業化社会の文明には驚くべき点は非常に多い。四方壁に囲まれた丈夫な家、水洗トイレ、水道水、照明、ガスレンジ……外に出ればいくらでも食べ物が売っているスーパーマーケットに、移動に便利な車や鉄道。いまだに石器時代の暮らしをしている人から見れば、ほんの些細なものでも衝撃だった。その中でももっともよかったものが「匿名性」だった。

 ニューギニアのような小規模血縁社会では、社会的結合が非常に強い。
 こんな話がある。
 鳥好きおじさんこと社会人類学のジャレド・ダイアモンドはニューギニアにやってきて現地のポーターを雇おうとしたとき、10歳の少年が手伝いたいとやってきた。ダイアモンドは10歳の少年を雇い入れることにしたのだが、少年は両親に「行ってくる」とすら言わずに村を出てしまった。
 それで問題はなにもなかった。というのも村人全員が少年の知り合いで、村人の誰かが少年の様子を見ていたわけだから、少年が両親に伝える必要もなく、両親に伝わっていた。
 その少年はジャレド・ダイアモンドのフィールドワークにまるまる1ヶ月ついて、けっこう遠いところまでやってきたのだが、その道の途中でも「少年がどこまで行った」「少年の様子は今どうなのか」ということが両親に伝わっていた。ニューギニアの人はやたらとお喋りだから、ほんの些細なことでも情報はばっちり伝わるのだ。携帯電話のない世界でも、人同士の結束が強いとこれくらい伝わるのだ。
 1ヶ月の仕事を終えると、少年は1人で家まで帰ったのだが、無事に家に帰り着いたようだった。

 村人同士の結束が強く、村の外でも人同士の結束が強い。それはある種の理想社会のように思えるが、実際にはこの結束を「煩わしい」と感じていた。小規模血縁社会の住人であっても、知られたくないことはある。1人でいたいときはある。
 だからニューギニア女性がアメリカにやってきて、感激したのは「匿名性」だった。
 アメリカだったら誰も自分に干渉しない。ほうっといてくれる。アメリカでは1人でいる自由がある。1人で出歩き、自分の考えを持ち、自分だけの秘密を持つ。場の空気を考えず自分の意見も言えるし、協調性をそこまで気にする必要はない。どれもニューギニアの小規模血縁社会の中では得られなかったものだ。このニューギニア女性は、アメリカにやってきて「解放された」という気分になれたのだった。

 映画『三丁目の夕日』という作品が公開されてから以降、戦後間もない昭和30年代頃の東京を「理想郷」のように考える人が増えた。
 だが、あんなものはファンタジーに過ぎない。その時代と環境を体験していない人が描いたものだ――と本当の体験を持っている人は語る。北野武はまさに『三丁目の夕日』の舞台として描かれた地域に住んでいた人で、とある映画の中でほんの少し、その時代の様子をリアリティたっぷりに描いている。ただひたすらに貧しくて、他人に干渉し、コミュニティの中の誰かが得することを許さない。全員で足の引っ張り合いをする陰湿な社会だった。
 押井守監督も『三丁目の夕日』の時代を体験している人で、あの時代はあんなものわかりのいい、優しい人なんていなかった。あの時代の人はもっと理不尽で暴力的な人が一杯いた。子供の話なんてまともに聞いてくれるような人なんていなかった……と語る。
 映画『三丁目の夕日』は所詮は後の人が考えた妄想話でしかない。あんな理想郷は日本の過去にはなかった。
 社会的結束の強い社会なんてものは、どうやってもそういう陰湿な側面を持つことになる。他人の秘密を暴き、それを笑い話にして、ちょっとでも違う考えを持つ人を弾圧し、全員で得することではなく「損しない」ことだけを全体目標とする。私もこれまでニューギニア社会を理想郷のように表現してきたが、理想のフィルターを一枚剥ぎ取れば、そこは「鬱陶しい」し「煩わしい」社会でしかない。

 一方で私たちが抱えるのは「孤独」の問題だ。
 日本でもアメリカでもどこの文明国でも同じだが、都市社会になると全員が「他人」の世界だ。たくさん人がいるのに、その中で知人も友人もいない。全員が関わり合うことのない他人で、関わり合うこと自体を拒否している。誰もが自分は自分で勝手に生きていきたい……それが都市社会の人間の心理だ。
 すると都市生活者の精神は次第に病んでくる。誰かと関わりたい。関わって社会を構築したい。「社会を構築したい」というのは何かしらの社会の一員になりたい、というだけではなく、内的な意味での社会を構築したいという欲求だ。人は誰しも「自分は社会の中で役に立っている人間だ」という実感が欲しいし、そうした社会があるから翻って自分は何者かという自意識が生まれる。都市生活になると、そういう心理の構築が難しくなる。
 とりわけ欠落しがちなのがセックスパートナーの問題だ。小規模血縁社会の人々はお喋りだが、彼らはセックスの話をしない。なぜならセックスができないような状況になったことがないからだ。セックスしたいと思ったらいつでもできるという社会だ。一方、都市生活者はセックスの機会がなかなか得られないから、セックスの話ばかりをする。人が情報交換したがるもの、とは常に「不足しがちなもの」だからだ。
 なぜセックスが大事なのか。セックスは「食」のように摂取しなければ死ぬというものではないから軽視されがちだ。しかしセックスが日常から欠けると、人間として欠けた人間であるかのような感覚に陥る。そういう感覚に陥るのだから、翻ってセックスは人間精神にとって必要なものだといえる。これは「性欲処理」というだけの話ではない。仕事をして自分が社会において何者かであるか知る……というように、セックスをして人は自分がどういう肉体を持っているかを知るのだ。
 特に日本ではポルノが異常発達した社会だ。日本ほどポルノが発達している……ということは、翻って日本人にはセックスが著しく欠けていることを意味する。これは実際にその通りらしく、セックスの経験のない若者は非常に増えているし、夫婦間でもセックスをしない人は増えている(テレビメディアでこの問題を取り扱うと、なぜかデータが逆転して、若者みんなが過剰にセックスしている……ということになってしまう。あれは嘘だ。テレビは嘘ばかりなので情報収集メディアとして役に立たない)。
 しかしそれ以前に、私たちはセックスをあまりにも特別視しすぎてしまっている。おそらく西洋化の影響だと思うが、セックスに「穢れ」のイメージを持つようになり、セックスする人間を軽蔑するような目で見るようになった。セックスするとその人間から純粋性――「無垢」が喪われると考える人があまりにも多い。
 タレントなどの有名人になると、セックスが禁忌の扱いにもなる。人間の営みの1つを拒絶するような感じだ。あそこまで行くともはや私達の社会は精神の病を負ってと言うしかない。

 私たち文明はいくつもの「誤算」を抱えて今に至っている。
 人類が「農耕革命」に到達したとき、人々は歓喜したはずだ。これでもう食べ物に悩み、子供を殺さなくて済む。狩猟採取の生活では、森で得られる食料の限界値は決まっているから、それ以上に子供が生まれたら殺さねばならなかった。でも農耕を始めるようになって、食べ物がいつでもそこから手に入る。もう今までのような苦労をしなくてもいいぞ!
 すると人類はこれまでにない新しい悩みを背負うことになる。まず健康の問題だ。どの本を読んでも同じように書かれているのは、人類が狩猟採取の生活から農耕の生活に変わって、栄養が偏るようになったことだ。森で食料を得ていたときは色んなものを食べていたし、季節ごとに違うものを食べていた。だから栄養のバランスは意外とよかった。しかし農耕が始まると「同じもの」を食べ続けるわけだから、栄養は偏ってしまう。
 それに「農作業」という無理な姿勢を続けねばならず、椎間板ヘルニアなどの持病を抱えるようになり、家畜を飼うようになると今度は未知のウィルスにも悩まなければならなかった。病原菌というのは基本的に家畜経由で入ってくる。家畜を飼うようになって、人類は今までになかった未知のウィルスに日々格闘を続けなければならなくなった。
 さらに「もう子供を殺さなくてもいい」と思ったら今度は「人が増えすぎる問題」にも直面しなければならなくなった。すると食料はそのぶん必要になるから、森を切り開いて畑に変えなければならない。それでも面積が足りないから、どんどん新しい土地へ……ということになっていく。これでどんどん自然を破壊していくことになる。
 それでいよいよ開拓できる面積も限界だ……となったら、土地を巡って戦争だ。狩猟採取の時代にも戦争はあったが、農耕時代に入って人はより頻繁に戦争するようになった。
 それれでも私たちの御先祖は、狩猟採取の生活と農耕の生活のどっちがいいか、と言われれば迷わず農耕生活だった。それくらいに「得」が多かった。

 時代は経て、今度は「産業革命」の時代に入る。産業革命になると、国民全員が平等に仕事を得られて、平等に賃金が得られて、平等に豊かになれるぞ……と人々は歓喜したはずだ。それ以前の「手工産業時代」というのは、訓練された一部の人しか仕事が得られない社会だった。格差はどうしても抱えなければならない問題だった。工場労働が始まれば、全員が豊かな社会になれる。平等な社会が築けるぞ!
 ところが人類はこれまでにない新しい悩みを背負うことになる。長時間単純労働だ。人間はあのような長時間単純労働に対応するようにできていないから、人々はどうしようもないストレスを抱えることになった。(この社会に対応するために、「義務教育制度」が生まれた)
 それに長時間労働だ。それ以前の手工産業時代なんて、人々の労働は1日4~5時間だったし、「今日は調子が悪いから」で働かないこともあった。狩猟採取民の暮らしの頃は、1日の労働時間は2~3時間程度だったそうだ。工場労働が始まってから、全員が1日8時間以上働くのが当たり前の社会になった。働き過ぎである。
 日本では「働かざる者食うべからず」といって、労働に参加しない人に対して冷淡に扱うようになった。江戸時代頃の話を見ると、働いてない人なんて一杯いた。長屋にそういう人はだいたい1人2人いて、近所の人が面倒を見て、時々仕事を手伝わせる……みたいな感じだった。それくらいにおおらかだった。しかし工業化社会に入ると、1人でも働かない人間を許さない社会になっていった。なぜなら日本人は自分が不公平な目に遭うことを許さないからだ。
 さらに毎日毎日同じ行動をし続けるのだから、次第に人間としての能力を下がってくる。人間は監禁状態になると、次第に脳が萎縮すると言われている。工場労働は監禁はされていないが、毎日ひたすら同じ作業をし続ける……能力の減退が起きないわけがない。
 私たちは時々アフリカの若者を動画なんかで見て、その身体能力に驚いたりする。でも本来、私たち人類はあれくらいの身体能力を持っていたはずなんだ(どうやら戦前までの日本人は力も非常に強かったらしい)。ところが工場労働が始まってから、私たちは身体能力を喪ったし、思考力もだいぶ落ちたはずだ。私たちは本来人間が持っていた能力を失ったばかりではなく、毎日バカになっていっている。
 それでも私たちの御先祖は、農耕の生活と工場の生活どっちがいいかと聞かれると、迷わず工場生活だった。それくらいに「得」が多かった。なぜなら工業化社会になって、私たちの生活は格段に豊かになったのだから。
 今の時代の人々に尋ねても、かつての生活より今の暮らしのほうが良い……と絶対に答えるはずだ。私たちは前に進む以外にないのだ。

 実は言うと、ニューギニアの人々もそうだけど、かつての狩猟採取の生活をしていた人々はもうすでにいない。狩猟採取の時代は季節ごとに住む場所を変えていたけれども、今はどの部族も一カ所に定住する暮らしをしていて、キャラクターやメーカーブランドの入ったTシャツを着て、石槍や石弓ではなく銃で狩りをしている。なぜならそのほうが楽だからだ。なんだったらもう食べ物は森で狩りをせず、買いに行くようになっている。
 たまに観光客向けに、狩猟採取の生活をパフォーマンスとして見せることはある。狩猟採取の生活が「外の人々」にとって物珍しく、それを見せることが観光資源になることを彼らは知っている。もうすでに『昨日までの世界』で描かれていたような石槍で狩猟採取の生活をしている人々は、おそらく地球上にいない。「かつての世界」はもう終わったのだ。
 人間は楽で便利な暮らしのほうに傾いていく。私たちの御先祖は、より良い世界を目指して新たな社会観を受け入れてきた。現代の部族社会の人だってやっぱり楽な暮らしをしたい。新しい世界がそこにあるのだったら、迷わずそれを選択する。それが人間だからだ。

 ニューギニアやフィリピンでアメリカ人ビジネスマンと宣教師の子供として育ち、10代になってからアメリカに引っ越してきたある人は次のように語る。

「アメリカ人の男の子はマッチョで、マッチョな話をして、他の子達を殴ります。気立てのいい子供はアメリカではうまくやっていけません」
「フィリピンの子供たちは、どの大人でも「おばさん」「おじさん」と呼び、村のどの家でも出入りします。夕飯時になると、たまたまその時間にいた家で、他の子供たちと一緒にご飯を食べていました」
「アメリカ人の子供たちはニューギニア人の子供たちより社交性がありません。ニューギニアにいた頃、私はニコニコして通りすがる人たちに挨拶をして、会話をしていました。でもアメリカ人の子供は通りすがりの知り合いにも他人にも挨拶しないし、もちろん会話もしません」
「アメリカ人はもてなしを受け身で楽しみますが、自分から楽しむ方法を知りません」
「アフリカでは何か必要なものがあったら自分で作ります。そうすれば構造もわかります。アメリカでは必要なものは全部買ってしまいます。だから構造がわからないのです」
「アフリカではなんでも共有します。例えば私が学校に通っていたとき、赤いタイヤチューブを手にしたことがありました。ゴムはパチンコ(スリングショット)を作るために貴重です。でもアメリカでは何か貴重なものを手に入れたら独り占めをします。それにアメリカでは誰もタイヤチューブで遊ぶ方法を知りません」
「アメリカでのフラストレーションは、働かなければいけないというプレッシャーがいつもあることです。午後、ゆったり座ってコーヒーを楽しもうものなら、お金を稼ぐ時間を無駄にしている罪悪感を憶えずにいられません」
「アメリカの子供たちや、おそらく一般的なアメリカ人も物に囚われすぎです。私たちがカルフォルニアに戻ったとき、最新の流行やら「マストアイテム」やらに注意が惹かれました。その時はプラズマテレビでしたが、あれから半年経った今では何が流行っているんでしょうね」

映画『ドラえもん のび太の月面探査記』の一場面。『ドラえもん』で工場仕事がユートピア的に描かれるのは、こういった風景が未来的だと牧歌的に信じられた時代の作品だからだ。

 私たちはいま、高度工業化社会の中にいる。私たちは相当、「おかしな人間」になっている。でもおかしくなっていることに気付かない。なぜなら社会全体がおかしくなっているからだ。
 高度工業化社会の住人は、とくに意味のない道具(おもちゃ)や情報に振り回され、それを得ていないといけないような気になっている。もしも最新の道具や情報を得ていない人を見ると、優越感に似た感情を持つこともある。
 この理由はすでにお話ししたとおり、そもそも最新の情報を得ることは生存に必要だったから、私たちは常に情報を欲している。しかし現代における「情報」の大半は無意味なものだ。そんな無意味な情報を手にしているかどうかで、多くの人はそこに「格差」が生まれているかのような錯覚を抱くようになった。これが錯覚だと気付かないくらい、私たちはおかしくなっている。
 それはもしかすると、格差が小さい世界の中にいるからかも知れない。そんな中で格差を作ろうとしたら、今日の午後、芸能人がどんな発言をしたか知っているかどうかの世界になっていく。

 おまけに私たちはかつての人々よりも考える力が格段に劣ってしまっている。自分で考え、結論を出すことができない。考える力がなくなってしまったから、多くの人は「それはルールだ」として考えるようになった。「なぜそのルールがあるのか」は誰も考えない社会になっている。
 例えばここ数年、私たちは新型ウィルスに直面している。だがそろそろ新型ウィルスの特性もわかってきて、そこまで常日頃絶対的にマスクをしていなければならない……というわけではないことはわかっている。しかし「マスクをすることがルール」と考える人が現れてしまった。それもものすごい数で。「なぜマスクをしなければならないのか」ということを考えられない人だ。
 読解力がない、理解力のない人には、「それはルールです」という言い方をしないと理解しない。「なぜならば」……を理解できないからだ。「なぜそのルールがあるのか」は理解できない。ルールを変えるべき局面に来たとき、思考力も理解力も読解力もないからルールを変えることができず、一度決めたルールに囚われてしまう。そういう人があまりにも増えてしまった。これも工業化社会で考える力を喪ったためだ。

 私たち社会の欠陥は人同士の結束がないことである。情報がない人を見ると、情報を与えて共有しよう……なんて絶対にしない。常に誰かよりも上にいたい。平等なんて絶対に嫌。友人であっても見せかけ。気に入らないところがあったらすぐに切り捨て。すぐに別の友人を見付けるからそれでいいや……人間もモノ感覚になった。
 そうやって自分だけは勝ち組になって生き残りたい。それが現代人の隠された本音だ。
 なぜそう考えるのかというと、人類は歴史を通じて生存が困難な社会にいたからだ。ふとすると死ぬかも知れない。社会から放逐されたらすぐに死んでしまう。感覚だけは、その時の意識がある。かつての小規模血縁社会や部族社会の時代は、せめて「部族全員が生き残ること」を考えて生きていた。しかし高度工業化社会は全員が孤独の世界にいて、誰とも結束を感じていない社会だ。だから「自分だけが生き残りたい」という意識になっていく。そのためなら周りにいる他人をすべて蹴落としても構わない。そういう考え方になってしまった。自分1人が生き残るためならなんだってする……それが私たち現代人だ。
 もっとも、現代人が毎日毎時間追いかけている情報の大半は無意味……私たちの大半はそのことにも気付けなくなってしまった。

 それでも私たち行動工業化社会の住人は孤独を最も愛する。私だってそうだ。孤独でいたい。周りにいる全員が他人……という夢のような生活を手放したくない。アメリカに移住したニューギニア人女性が「匿名性」が素晴らしいものと感じたように。
 私だって毎日FANZAでどんなエロビデオを見ているか……なんて知られたくない。それはプライバシーだ。この秘密が守られる今の社会のほうが良い。
 だが都市生活者は一方で、自分を包括してくれる社会を求めている。孤独でいたい、でも社会もほしい。放っといて欲しいけど、自分を受け入れて欲しい。このどうにもならない矛盾を、高度工業化社会の住人は抱え続けることになる。もうすでに私たちは、高度工業化社会の暮らしを捨てられないし、それどころかより新しい「次の社会」も欲している。それが「AI革命の世界」というのは見えている。その次の社会はきっと今よりも孤独な社会になっていくだろう。それどころか、個人の能力がより軽視されていく世界だ、というのはわかっている。……でもどっちがいいかと言われると、より孤独を深めていく新しい社会だ、と誰もが答えるはずだ。なぜなら得られる恩恵がより多くなるはずだからだ。

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