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4月17日 日本語で「性交」を意味する動詞ってあるかな? そこから考える日本語の特質

 英語だったら性交を意味する言葉には「SEX」やらスラングで「Fuck」なんて言い方があるけど、日本語だと動詞形で「性交」を意味する言葉はないそうな。せいぜい「やる」とか「寝る」とか、そういう言葉になる。

 どうしてそうなっているのかというと、日本では平安時代から「逢う」といったらそれはもうセックスしていることを意味していたからだそう。夜更けに男女が同じ部屋に入ったらもうそれはセックスしているってことで、女が男を部屋に招き入れたらそれはもう「セックスOK」という意味だった。
 これはセックスそのものを描写するのは品がない……とかそういう話ではなく、そういう表現の形だった。男と女が目が逢ったら……同じ部屋に入ったら……もうわかるでしょ、ということだった。
 これが日本語的な表現だったから、動詞形としての「性交」を意味する言葉はなくて、「やる」とか「寝る」とかいう言葉しか生まれなかった。直接的表現が生まれなかった。

高畑勲監督『かぐや姫の物語』のワンシーン。かぐや姫が捨丸と一緒に空を飛んでいる……という場面。注釈の必要はないかと思われるが、「性交」を象徴したシーンとなっている。なぜ「飛翔」と「性交」が結びつくのか……というとユングの夢と無意識の解説を元ネタにしている。夢解釈で「飛翔」の場面は「性的恍惚」を意味すると書かれている。

 ところで平安時代には「貞操観念」という概念はほとんどなかった。この時代はまだ「通い婚」の時代で、夜になったら男はせっせと女の元に通い、家に上げてもらったらこの時点でもうセックスOKのサインだった。
 もしもその気がない場合は、家の前で門前払い。この時代の「誠意」の見せ方は何日も通うことだったから、実際に深草の少将という人は小野小町の家に100晩通った……という。ところが深草の少将は99晩まで通ったけれどそこで死んでしまった……という伝説がある。深草の少将は残念ながら小野小町とセックスできず……。

 どうして当時の男は女の元に通ったのか……というと「家」を相続するのが当時は女性だったから。後の時代では長男が相続することになっていたけど、平安時代は女。家を持っているのは女で、その女に元に通うのが習わしだった。女性の権威が強く、女がいろいろ相続できる時代だった。
 で、家に上げてもらったら「セックスOK」ということだったから、この時代の女はわりと毎晩ちがう男を家に上げていたそうな。男の方も一晩行って、セックスできちゃったら満足しちゃって、その後は別の女性に熱を上げて……ということもあったそうな。評判のいい女の元にはそれこそ毎日違う男が通ってきて、毎晩セックスしていたとか。それくらい貞操観念が緩い時代だった。「まずセックスして、それから」だった。
 それで男に数日(3日以上)通ってもらって、お互いに相性が良い……と感じたらそれで結婚。現代は「セックスは結婚してから」という考え方だが、平安時代は逆で、まずセックスして相性が良いと感じれば結婚だった。
 といっても、本当はこれで終わりではない。女は「迎えるだけ」でいいのだけど、男はその後もいろいろ贈り物(手紙など)なんかをやらなくちゃならず、その贈り物内容でも女に気に入ってもらえば結婚……。そういう面倒さもあったので、男は女の元に通うけれども、結婚せずそのうち別の女へ……ということもよくあったそうな。
 結婚するしないの主導権は基本的に女が握っていた。父親があらかじめ結婚相手を決めている……という場合は別だけど、それ以外の事例だとだいたい主導権は女。フェミニストは「昔は女は結婚の自由がなく、モノ扱いだった」……というがあれは嘘。女も権利を持っていて、その権利は強かった。
 だからといって、モラルがなくそのへんでセックスしてた……というわけではなく、夜になって女の家に行ってから……というのが決まりだった。その辺はきっちりしていた。ルールはしっかりあったのだ。
 貞操観念は確かにゆるゆるだったけど、ルールはきっちりしていた。そういうところで相変わらず「日本人」だったのだ。

 男は毎日違う女のところに通っていたし、女は毎日違う男を家に上げては股を開いていた……そんなエロ漫画みたいな貞操観が平安時代の男女だったわけだが、では「羞恥心」がなかったのか……というとそんなわけでもなく。どうもこの時代の女は「顔」を見られることが恥ずかしかったらしい。毎晩男を家に招いていたけれども、この時代の照明はロウソク1本で部屋の中は薄暗く、その薄闇の中でお互い顔がよく見えない状態でセックスしていた。結婚後も貴族の女は基本的には「簾」の向こう側にいて、たとえ夫であっても軽々に顔を見せないのだとか。それで結婚したけれども妻の顔をよく知らない……この時代にはよくあった話だそうで。
 初対面の男とセックスすることには抵抗感はなかったが、顔を見られることには抵抗感があった。羞恥心のポイントは国や時代によって変わるというが、「そこ?」と不思議に感じるところもある。
 でも、「顔を見られるのが恥ずかしい」という感覚自体はよくわかる。よく「人と話すときは相手の目を見ろ」……というけど、私はこれにかなりの抵抗感がある。あまり顔を合わせたくない。実はこういう「顔を合わせるのが苦手」という人は世の中的にすごく多い。あまり表の世界で語られてない話だけど、「顔を合わせるのが苦手」という人は5割や6割くらいいくんじゃないか……と私は推測している。それくらいに、顔を合わせることに抵抗感がある。だったら日本人は無理して顔を合わせなくてもいいじゃん……と私は考えているのだけど。

 以前も狩猟採取民族のお話をしたけど、狩猟採取民族ではセックスの相手に困ることはなかった。したくなったときに、いつでもできるからだ。セックスのパートナーを求めてウロウロと彷徨う……みたいな現代人のようなことはしなかった。「セックスを隠す」ということもあまりせず、子供たちは親のセックスを日常的に見ているし、10代はじめ頃になるとセックスに興味を持って、遊びで子供同士始めることもある。それは大人達も見ているけど、やめさせようとはしない。ごく当たり前のことだからだ。
(これくらい貞操観念ゆるゆるでセックスしていないと、やがて人口の減少で大変なことになる……という事情もあった)
 それで狩猟採取民がする「噂話」のなかには性や性交に関する話がほとんどなかったという。ほとんどが「食べ物」についてだった。「下ネタ」ジョークもなかった。なぜ狩猟採取民が食べ物に関する話ばかりするのか……というと「飢餓の危機」に常に直面していたからだった。
 一方、現代人の我々はことあるごとに性や性交に関する話ばかりしている。なぜかというと、私たちの時代には「飢餓の危機」にほとんど直面しておらず、セックスの機会が極端に少ない時代に生きているからだ。
 人々が話しがちなことに、人々が内的に関心を持っていることが現れてくる。

 ピーデル・ブリューゲル(子)が17世紀前半に描いた『農民の婚礼の踊り』。
 これまでにも何度も取り上げた作品なので、このブログではお馴染みだと思うが、改めて説明すると、ブラバント公国(現在のベルギー)の田舎の結婚式を描いた作品だ。絵画の主人公は画面中央の奥……新郎と新婦がテーブルに座っていて、神父に祝福されている様子が小さーく描かれているのが見えるだろう。
 作品の主題はどう見ても、その新郎新婦をほったらかしにして大騒ぎしている村人達の方にある。まず画面手前側を見ると、男女が股間を突き出して踊っている。男は股間にコッドピースを入れてモッコリさせている。モッコリさせた股間を突き出して踊っているのだ。
 次に画面左側、カップルが成立した男女がキスをしている。続いて画面右側森の奥を見ると、男女が手を繋いで森の中へ入っていっている。森で何をしているかはもうおわかりだと思うが、この後、ここでカップル成立した男女はしばらく同居生活を送り、子が宿ったら正式に結婚、子が宿らなかったらカップル解散で別のパートナーを探しに行く……という感じだった。やっぱり「まずセックスして、それから」だった。
 と、こういう絵なのだけど、これが17世紀のベルギーの貞操観をよく現している絵なのだそうで。やっぱりヨーロッパでもこの時代は貞操観念ゆるゆるだったんだよね。日本とそう変わらず、「目と目が逢って」「二人きりになったら」それはもうセックスしている……ということだった。
(ただし、ヨーロッパでは同時期にキリスト教が広まり、さらに「魔女裁判」も広まろうとしていた。ヨーロッパ社会も簡単にひとくくりにはできないのだ)

 平安時代の日本が特別変わっていたのではなく、この時代はどこの国にいってもそういうものだった。むしろ変なのは現代。人類の歴史から見ても、現代がもっとも変。
 現代はセックスのハードルって高いよね……まず男はイケメンじゃないと極端に機会が少なくなるし、女も美女じゃないと難しいし、美女とイケメンであってもいろいろ条件が難しいし、うっかり「有名人」か「公人」になると不用意にセックスすると文春砲でやられちゃうしで(セックススキャンダルってなんだよ。歴史的に見ると意味がわからん)……その一方でセックスの機会に恵まれすぎている人もいるし、なんだか訳がわからん。
 マスメディアの世界では「性の低年齢化」「若者の性の乱れ」がセンセーショナルに語られるが、一方できちんとデータを取ると、セックスしていない男女は若者の中でも4割にもなる。自分の周りを見てみた印象で言うけど、マスメディアが大袈裟に言うものよりも、「4割はセックスしていない」のほうが本当にように感じられる。

 こんなお話しからふと連想として思うのだけど、日本語には「ゲームで遊ぶ」という時のふさわしい動詞がない。昔から「ファミコンをやる」という言葉の使い方をしていた。例えば「ドラクエをやる」みたいな。
 でも「ゲームをやる」ってなんなんだよ。言葉として何を意味しているのかよくわからない。それに品もない。「やる」というのは「性交」を意味する場合にも使う言葉なので、それを「ゲームを……」と続けて使うのはいかがなものか。
 そうすると「ゲームをやる」に代わる相応しい言葉がない。
 「ゲームをプレイする」ならまだ納得するかも知れないが、「外来語+する」というのも日本語としていかがなものか。それに「遊ぶ+する」は日本語として正しくない。しかし他に代わる言葉がない。
 言葉として「それ」を示せないから、「絵」で表現することが同時に発達した。言葉でセックスの内実を表現できないから、内実は絵で表現する。そこに出てくるのが春画だった。

 いや、待てよ。「サッカーをやる」「野球をやる」も一緒か。よくよく考えたら、日本語で「何かをする」に当てはまる言葉、「Playing」にズバリ当てはまる言葉がないのか。
 これが日本語の特質なのか。日本語では「その場所に行く」「男女が二人きりになる」といったら、もうそれを表現しきった……ということになっていた。そこから来ているから、「Playing」をズバリ表現する言葉はないのか。
 「夕べはお楽しみでしたね」で内実を伝える言語というだけある(『ドラクエ1』での台詞)。
 「読書をする」「プールで泳ぐ」……このあたりならまだ納得がいくけど、「ゲームで遊ぶ」「ゲームをプレイする」は何か納得がいかない。もう少しバチッとハマる言葉はないのだろうか。そういう言葉がないのは、まだゲームが若すぎる文化だからなのだろうか……。


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