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映画感想 スクリーム(2022)

 映画は映画を自己分析し始める。

 今回の映画は『スクリーム』。タイトルにナンバリングがなく、『スクリーム(2022)』としかないから、まず探すのが大変。自分が見ようと思っている作品が本当にこれなのかがわかりづらい。
 整理すると、シリーズ第1作目が『スクリーム(1996)』。その後のシリーズが『スクリーム2』『スクリーム3』。第3作目でシリーズは一旦終了となって、その10年後に制作されたのが2011年の『スクリーム4:ネクスト・ジェネレーション』。本作はさらに10年後に制作された『スクリーム(2022)』。シリーズ5作目にあたる。
 どうして今作にはナンバリングがないのか……というのは後回しにして、まず『スクリーム』シリーズの話から。
 『スクリーム』シリーズの特徴は、まず登場人物達がみんなスラッシャー映画をよく知っていること。必ず「ホラー映画オタク」が登場してくるのも特徴。スラッシャー映画なので殺人鬼が出てくるのだけど、登場人物達が「あ、これはジャンル映画でよくあるパターンだ」と察して回避行動を取ろうとするが、殺人鬼もまたホラー映画オタクでそれをわかっているから裏をかいてくる……という内容になっている。
 つまり、「メタ・スラッシャー映画」が『スクリーム』の本質。映画のキャラクターたちが「ホラー映画にありがちなパターン」を挙げて、どうやったら殺人鬼を回避できるのか、生き残れるのか、必ず討論する場面がある。そこに「真犯人が誰なのかわからない」というミステリーの要素も入ってくる。ただ、ミステリーの要素は「意外性」のみを重視しているので、注意深く見ていてもミステリーを解き明かすような面白さはない。

 どうして『スクリーム』のようなホラーが制作されたのか……話を遡ると、スラッシャー映画の出発点となった『ハロウィン』が1978年に大ヒットし、それに続けといわんばかりに大量のスラッシャー映画が作られた。その中から『13日の金曜日』『エルム街の悪夢』といったシリーズも生まれたが、大半は注目されずに消えていくことになる。
 というかどれを見てもストーリーが一緒。人里離れた山小屋にバカな若者が集まり、セックスに興じているところを殺人鬼に次々に殺されていく……。そのなか、「ファイナルガール」と呼ばれるセックスを忌避した女性だけが生き残れる。どの作品もだいたいこのあらすじとなっている。
 最盛期である1970年代後半から1980年代までに100本近いスラッシャー映画が制作されたけど、結局のところ、どれもほぼ一緒のストーリーだった。みんな殺人鬼のキャラクターに創意工夫をしようとしていたが、現代まで語り継がれているのは『ハロウィン』のブギーマン、『13日の金曜日』のジェイソン、『エルム街の悪夢』のフレディ、『チャイルド・プレイ』のチャッキーくらいしかなかった。あとの作品はこれといった個性を発揮できず、映画史の“肥やし”となってひっそり消えていった。
 つまり『スクリーム』が制作された1996年頃というのはスラッシャー映画というジャンルが廃れた後。そういう時代だから、「スラッシャー映画にありがちなパターン」が総括するような作品が生まれた。登場キャラクターたちがあたかも自分たちがスラッシャー映画の登場人物であることを知っているかのような発言をさせ、メタ的な討論シーンを導入し、さらにその裏をかくような展開を作る。それがスラッシャー映画を総括し、ジャンルを一歩進める施策だった。

 1996年の『スクリーム』第1作目は大ヒットとなり、「ポスト・スラッシャー映画」のスタート地点となり、スラッシャー映画のブームをもう一度作ることになる。
 しかし実は『スクリーム』シリーズで評価が高かったのは第1作目だけ。2作目までは評価と興行収入を維持できていたが、3作目でガタガタと崩れて、シリーズ復活を宣言した第4作目はかなり悲惨な興行成績&批評となって立ち消えとなった。
 どうしてこうなったのか? この業界にありがちな話だが、シリーズの創始者であるケヴィン・ウィリアムが忙しくなりすぎたことが原因だった。最初の1作目は暇で勢いのある時期に書いていたから、脚本に新鮮味があって生き生きとしていたが、その1作目がヒットした後はいろんな映画脚本、テレビドラマ脚本の依頼が舞い込んできて、捌ききれなくなっていく。
 実は『スクリーム』2作目以降は映画会社が「早く次を作れ」とせっついたために脚本未完成状態で撮影がスタートしていた。撮影とシナリオが同時進行……だからクオリティの担保ができなかった。映画会社主導で映画制作を強引に進めすぎた結果、クオリティがガタガタと崩壊していくことになる。……これも映画の世界ではありがちな話だ。
 この反省があって、監督のウェス・クレイヴンは「次の作品を作ることがあったら絶対に脚本が仕上がった後じゃないと撮影しない」と宣言していた。
 ところがウェス・クレイヴンは第4作目が発表された後、2015年にこの世を去ってしまう。享年76歳。『スクリーム4』が遺作となる。
 トラブルは続く。2017年、プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる数多くのセクハラ行為が発覚。シリーズの製作を請け負っていたワインスタイン・カンパニーが閉鎖。この時点で『スクリーム』の企画が宙づりになる。
 2019年スパイグラス・メディア・グループが『スクリーム』制作の権利を獲得し、ケヴィン・ウィリアムが製作総指揮として参加することが発表。これでようやく「第5作目」の企画が進展することになる。
 マット・ベティネッリ=オルビン、タイラー・ジレットの2人を監督に雇用、ジェームズ・ヴァンダービルト、ガイ・ビューシックが脚本を担当。監督2人はどちらも俳優、監督、脚本など多彩なキャリアを持っているが、映画監督としては新人。脚本家ジェームズ・ヴァンダービルトは『アメイジング・スパイダーマン』や『ニュースの真相』『ホワイトダウン』といったヒット作を手がけている。脚本家はともかくとして、新人監督がどこまでこの映画を構築できるか……が見所である。

 前置きがかなり長くなったが、本編ストーリーを見ていこう。


 その夜、タラ・カーペンターは家で一人きりだった。友人のアンバーとLINEでやり取りして時間を潰していた。
 そんな時、電話が鳴る。電話に出ると、相手はどうやら母親の新しい恋人らしい。でも話を進めていると……様子がおかしい。知らない人だ。変質者だ!
 タラは慌てて電話を切って鍵を施錠する。アンバーと連絡を取ろうとするが……しかしアンバーじゃない。アンバーを装った別人だ。
 再び電話が鳴る。謎の男は語る。
「ゲームをしよう。『スタブ』クイズだ。3回勝負で答えが間違っていたらアンバーが死ぬ」
 携帯電話にはアンバーの盗撮と思われる画像が……。タラは友人のためにクイズに答えるが、最後の問題を間違えてしまう。
「残念だ。誰か死んでもらう」
 突如、家に何者かが飛び込んできた。ゴーストマスクを付けた誰かだ。タラは殺人鬼の襲来になすすべもなくナイフでめった刺しにされてしまう。

 妹のタラが殺人鬼に襲われた! この話はしばらく疎遠になっていたサム・カーペンターのところにもすぐに伝えられた。あの街へ戻らないと……。
 サムは恋人のリッチーとともに因縁の街、ウッズボローへと帰っていく。
 病院へ駆け込むと、妹は重傷だったが、一命を取り留めていた。タラの高校の友人達が集まってきている。しかし犯人は逃亡していて、正体が何者なのかわからない状態だった。
 サムとタラがこうして会うのは数年ぶりの話だった。タラが8歳、サムが13歳の頃、父親が家を出て行ってしまい、サムは次第に荒れた生活を送るようになり、18歳になった年、家を出て行ってしまった。
 それ以来、サムは麻薬漬けの日々を過ごし、現在は立ち直っているが今でも幻覚を見ることがあった。
 そんな時、サムに電話がかかってくる。殺人鬼からだ。
「やあサマンサ。君の家族の秘密を知る者だ」
 サムは犯人に向かって「私はここにいる。かかってきたら」と挑発すると、部屋に殺人鬼が飛び込んできた。どうにか殺人鬼をやり過ごして部屋から出て、警察の助けを呼ぶ。警察はすぐに部屋の中へ飛び込んだが、部屋の中は争った痕跡だけで犯人の姿はなかった。


 ここまでで25分。

 登場人物が多いので、まとめましょう。

 最初の犠牲者タラ・カーペンター。電話のシーンから始まるのがシリーズ最初から続く定番。
 かなり可愛い女優さん。演じるのはジェナ・オルテガ。Netflixドラマ『ウェンズデー』で主演を演じた子だ。ヒット作の出演が続いて嬉しい限り。

 こちらが本作の主人公。サム・カーペンター。タラのお姉さん。太い眉毛で存在感がある。メキシコ人女優だ。
 数年前、家庭内であることが発覚し、それ以来グレて18歳の頃家出していた。妹が殺人鬼に襲われた、という話を聞いてウッズボローに戻ってくる。

 リッチー・キルシュ。サムが家出した先で出会った恋人。タラが襲われたという話を聞いて、一緒にウッズボローにやってくる。“あの事件”を元にした『スタブ』シリーズは見たことがない。

 ウェス・ヒックス。タラの高校の友人。サムとは昔、いい仲だったようだ。

 アンバー・フリーマン。タラの高校の友人。タラとは仲が良く、家庭の事情もすこし知っている。
 本編とは関係ない話だが……なんとなく『全裸監督』で黒木香を演じる森田望智に似ているような気がして……。写真を確認するとそうでもなかったんだけど。映画を観ている間ずっと黒木香がチラついてしまって……。

 チャド・ミークス・マーティン。タラの高校の友人。リヴとは恋仲で、やや軽薄なところがある。どうやら叔父が『スタブ』の出演俳優だったらしい。

 ミンディ・ミークス・マーティン。タラの高校の友人。チャドとは双子。ホラー映画マニアでもある。

 リヴ・マッケンジー。チャドと恋仲になっている女性。

 旧作メンバーも登場します。

 シドニー・プレスコット。シリーズの主人公で、殺人鬼に4度狙われるが幸運にも生存し続けた女性。現在は3児の母。なかなかいい感じのおばちゃんになっている。

 ゲイル・ウェザーズ。こちらもシリーズ第1作目から登場しているワイドショーの司会者。シリーズ第1作目の後、ノンフィクションを書き、それを映像化されたものが劇中映画『スタブ』。映画の中で起きたことが、劇中映画『スタブ』になっている……ということになっているので、本編と劇中劇が密接に関係している。出演者が過去の事件の話をする時、時々映画『スタブ』の話になっている……という不思議現象が起きている。

 デューイ・ライリー。第1作目から出演し続けているウッズボロー保安官。第1作目の時は真犯人を射殺した。ゲイルとは結婚したが、その後離婚。保安官も引退している。

 ジュディ・ヒックス。ウェス・ヒックスの母。初登場は第4作目で、その時はデューイの部下だった。シドニーとは高校生のころ、同じクラブに所属していたらしい。

 ゴーストフェイスの「中の人」を演じたのはロジャー・L・ジャクソン。実は映画のシリーズを通して中の人は同じ人が演じている。

 『スクリーム』シリーズの本質は「メタ構造」。映画の中で「ホラー映画とは?」を語るし、作品の内容が劇中映画『スタブ』ともリンクする構造を取っている。そういう作品だから、毎回作品のテーマが語る場面がある。
 本作はだいた40分ほどのところでその場面が描かれる。

ミンディ「リメイクを作る気だ。それかレガシークエルね!」

 犯人の目的はなんなのか、なぜ10年の時を経て事件が再び起こったのか。そこで出てきたのが「リメイク映画」。犯人は本作で起きたできごとがやがて劇中映画『スタブ』になることを見越して、事件を引き起こしたのだ。あの映画の「正しい続編」を作ること……が今回の大テーマとなっている。

ミンディ「犯人は自分流の『スタブ8』を作っているのよ。リメイクよ。シリーズものでまったく新しいプロットはファンが許さない。『ブラック・クリスマス』『チャイルドプレイ』『フラットライナーズ』……どれもうまくいかなかった。だけど普通の続編もつまらないし、新しい角度が必要なの。新しすぎるとネットで大炎上してしまう。継続するストーリーがなくちゃね。本当はもう完結しているストーリーであっても。新キャラはグッド。でも脇を固めてもらいたいんだよね、レガシーキャラに。リブートでも続編でもなくて、新たなる『ハロウィン』や『ターミネーター』『ジュラシックパーク』『ゴーストバスターズ』……『スターウォーズ』だってそう! 必ずオリジナルに回帰するの!」

※ ブラック・クリスマス 2019年のホラー映画。オリジナル版は1974年の『暗闇にベルが鳴る』。低評価で興行成績的にも失敗した。
※ チャイルドプレイ 2019年のホラー映画。オリジナル版は1988年。低評価で興行的にも失敗。
※ フラットライナーズ 2017年の映画。1990年の同名映画のリメイク。低評価で興行的に失敗。

 オリジナル回帰のリメイク、あるいは「レガシークエル」映画。『ハロウィン』『ターミネーター』『スターウォーズ』をお手本にしているので、事件のシルエットは第1作目をあえてなぞる。新世代の若いキャラクター達が登場するが、旧シリーズの登場人物も時を経て再登場する。そうすることで旧作のファン、新規のファン両方が満足する。
 こうした映画の定石は、旧作の登場人物の誰かが必ず死ぬ……ということだけど。それはさておき。
 『スクリーム』はこれまで「スラッシャー映画の定石」「続編映画の定石」を作品の中で提示しつつ、実例を示し、そこからさらに意表を突く展開、つまり「一歩はみ出す」ことで評価されてきた作品だった。今作は最近ハリウッドで何本も作られているリメイク映画の取り上げ、「失敗パターン」「成功パターン」を提唱し、その成功パターンの「手法」を開示しつつ、作品の中に採り入れている。
 冒頭から第1作目を彷彿とさせる電話のシーンに始まり、旧シリーズの主人公達が集まり、新たな事件に対処しようと共闘を始める。第1作目の名シーン「後ろよ! 後ろよ!」もある場面の中で再現されている。事件の内容はやっぱり25年前のあの事件によく似ている……しかしそれはなぜなのか? が本作のテーマとなっている。
 第1作目を意識し、第1作目をなぞるような展開が作られて、ここから始まる新シリーズ……という意識で制作されているので、今作のタイトルも『スクリーム』となっている。作品を探す方としてはナンバリングがないから「これで合ってるか?」って混乱するけど。

 私が最近、ぼんやりと考え始めたことだが、「一つの国・文化が持っている“物語の数”には限りがある」のではないか、ということ。
 ロシアの昔話研究者であるウラジーミル・プロップは1928年『昔話の形態学』という本を出版し、ロシアの昔話は31種類の要素からの結合であることを示した。もちろん、ロシアの昔話は数百種類もある。しかし機能分類すると31種類であるという。
 例えば……
①家族の1人が家を留守にしている(不在)
②主人公があることを禁じられる。(禁止)
③禁が破られる。(侵犯)
④敵が探りを入れる。(探り出し)
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 ウラジーミル・プロップは物語を31の構造に分解し、細かなところはモチーフの入れ替えであって、構造そのものはすべて一緒……と解き明かした。「テンプレート」が存在していることを解き明かした。
 これは驚くべき発見……というわけではないだろう。日本でも『小説家になろう』に投稿されている作品の大半は、共通のテンプレートを使用し、モチーフを入れ替えているだけに過ぎない。あえていえば『RPGツクール』でグラフィックだけ入れ替えているのとそう変わらない。
 おそらくどの国の、どの民族も、持っている物語のパターン数には限界があるのではないか?
 物語というのは何もないところからフワフワと生まれてくるものではない。必ずその時代の文化観や流行といったものが関係してくる。もしもその国における文化観や流行といったものとまったく関連のない“斬新”なストーリーを書いたところで、その作品が受け入れられるわけがない。人間は基本的に「知識にないものは考えることはできない」……それは物語創作においても同じで、その文化観に土壌となるものがなければその物語を思いつくこともできない。
 どの国でも民族でも、長く語り継いできた物語というものがある。それが物語創作の基礎となる。その上に最近の流行や社会情勢といったものが加わって、その時代の物語が作り上げられる。
 その国や民族が持っている物語×新しい文化=物語の限界
 最近私は初めてインド映画を観たのだが、インドの物語は私から見ると非常にユニークなものだった。しかしああいった物語も、インドという文化の中で長く引き継ぎ、洗練してきたもので、インド人にとっては「お馴染みのストーリーの最新版」といった感じだったのだろう。
 物語のバリエーションは、その国が持っているそもそもの文化観が基礎となっている。最近の物語でもこのバリエーション的なものは実は変わっておらず、相変わらずテンプレート的な文脈を組み替えただけのものに過ぎない。神話や民話をよく勉強した上で、近代の漫画やアニメなんかを見ても、どれも民俗学で提唱されているパターンの最新版でしかないことに気付く。
 芳醇な物語文化を持つためには、まずその国や民族が芳醇な物語文化という基礎を作らねばならない。日本の場合、その基礎部分が非常に豊かであるから、現代のような漫画文化が花開いたのではないか。
 ……というのが私の仮説。

 さて、映画の話をしよう。
 アメリカには100年の映画文化があるのだが、そのアメリカがこの100年の間に大量消費したもの……というのは「アメリカのストーリー」だった、ともいえる。物語も消費すれば当然“枯渇”する。アメリカ映画がなぜ「ネタ不足」に悩むのかというと、そもそもアメリカという国の歴史や文化が浅く、持っている物語のバリエーションが少なかったから……ではないか。それこそ100年の間に「もうすることがない」……という状態に陥るまでに。
 そこでアメリカ映画は文化を延命するためにどうしているかというと、数十年前に作られた映画のやり直し。具体的なある作品の同名リメイク、ということもあれば、細かな設定やシチュエーションを変更して新作映画として発表することもある。しかしやはり同じ映画だ。見ていると「どこかで見たな」……となんとなく既視感を持ちながら、「いや、あれは“王道”だから」と見ている自分を納得させている。しかし実際には同じ映画だ。舞台とキャラクターが違うだけ。これがアメリカ映画という文化の限界。
 最近の大ヒット映画はどれも過去作品のリメイクだ。もちろんただのリメイクではなく、旧作との繋がりを示すために過去作の登場人物も登場させる。ストーリーもどこか第1作目を連想させるような構造にする。時にまったく同じ構図でシーン展開をすることもある。そうすることで旧作のファンも新規のファンも納得の内容になる。
 アメリカ映画はいま何周目なのかわからないが、数十年前に作られたものの繰り返しのフェーズに入っている。
(今は30年前~40年前の作品がリバイバルされているから、アメリカ映画は3~4回くらいループしているのかもしれない。検証してないけれど)
 アメリカには所詮、物語のパターンなんかないんだから……ある意味、開き直りみたいなところがある。

 『スクリーム』最新作は最近のハリウッドで行われている「リメイク」を提唱し、作中のキャラクターに言及させ、さらにメタ的に作品の中に採り入れている。ある意味『スクリーム』ならではの作り方だ。
 どうしてそのような作りにするのか――というと停滞化したジャンルをどうやって一歩進めるのか。総括することでジャンル全体を俯瞰して見て、そこから一歩踏み出すための足がかりを探す。総括とはそのためのものだ。そこからジャンル映画の再興が始まる。
 そうした映画はいつもそのジャンルが終了する間際にやってくる。『スクリーム』第1作目がまさにそういう作品だった。第1作目は「スラッシャー映画」が廃れきった後に出てきて、ジャンルを総括するとともに新規性を導入し、ささやかながらジャンル映画を復活させた。
 『スクリーム』はいつも「時代の最後尾」にやってくる。時代の最後尾のシンボル的な作品だった。
 その『スクリーム』がまだ時代の半ばという段階でやってきたということは……。この作品もいよいよ数ある「その時代の作品」の1つになっていった……ということだろうか。

 映画のとある場面で、制作者とファンの間に生まれている溝について言及されている。
「制作者はファンの意見を聞かない。俺たちを笑いものにする。コアなファンは有害なのか? 作品を愛し、大切に思っているだけなのに!」
 ……ファンが思っていることを代弁してくれた。
 映画の著作権は制作者にはなく、映画会社にある。“作り手”ではない。作り手ではないから、どこか“勘所”がおかしい(もしかすると“映画ファン”ですらない)。だから大ヒットが出たら、制作者の感情とは無関係に続編が制作される。
「なに? 監督がすべて出し切ったから続編なんか作りたくない? 別にいいよ。他の誰かに監督させるから。たいていの観客はスタッフクレジットなんか見ないから、監督が変わったなんて気がつかないよ」……という感じ。
 実際に有名映画の続編で第1作目の監督を抜きに映画を作ったり、主演俳優に続編が制作されることを知らせず作り始めたり……という事例が何度もあった。昔の話ではなく、今でもしょっちゅうある。そうやって雑に作られた続編がダメ映画になる。「何でもいいから続編さえ作れば会社は儲かる」……映画会社はその程度の感覚しかない。“作り手の勘”がない人達が作品の権利を取り扱っている。映画は制作にお金がかかるものだから、宿命的にそのジレンマを抱える。
(ゲームも一緒。大ヒットゲームが出たらすぐに続編……ということになるが、だいたいのゲームの続編は第1作目の制作者が関わることはあまりない。ゲームは映画以上にスタッフクレジットが注目されないから、誰もそのことに気付かない)
 今回の『スクリーム』でこんな台詞が出てきたのは、3作目4作目でオリジナルの精神性が喪われていったから。そのことをメタ的に言及し、そのうえでいかにしてあの第1作目をやり直すか……という根拠にしている。

 そういう意味で「気骨のある精神性」は感じられるのだけど……。
 しかし映画として「難あり」な部分がある。というのも、映像が単調。特に対話シーンは俳優の顔しか映していない。映像で語らず、台詞だけで解説しようとするから「画」がもたないし情報が俳優の顔と台詞だけだから、こちらから考えないと「え? どういうこと?」ってなる。見せ方になんの工夫もない。
 新人監督はまだ映画制作の勘所が見えていないようだった。
 もう一つは残念ながら今回の『スクリーム』は定番映画のメソッドは示したものの、そこから一歩出ていない。「想定の範囲内の映画」だ。
 『スクリーム』の第1作はスラッシャー映画の「総括」が大テーマとなっていた。スラッシャー映画の定番を示しつつ、少しずつ「違うこと」をする。例えば登場人物全員が定番ネタを知っていて、惨劇を回避しようとするが、犯人も定番ネタのパターンを知っているので裏をかいてくる……という意外性があった。スラッシャー映画の定番ネタを知っていれば知っているほど楽しめる映画だった。さらにこれまでのスラッシャー映画にはない「犯人が誰かわからない」というミステリの要素もあった。
 今回はすべて想定の範囲内。提唱はしたけど、そこから出ていない。「ファンはどう思うのか?」という視点を導入したのは良かった。そこで第1作が踏襲している理由にもなっている。
 でも『スクリーム』第1作目の精神はそうじゃないんじゃないか? そこからさらにもう一歩、意外性を導入するのが『スクリーム』じゃないのか? 今回の『スクリーム』は「総括した」とはいえない内容になっている。

 2022年版『スクリーム』は原点回帰そのものがテーマとなって、そこそこの評価を獲得し、ここからシリーズも再スタートしたものの……この先に意外性ってあるのだろうか。もしかすると続編が凄いことになっているかも……という期待はしておこう。


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