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映画感想文 ビルマの竪琴(1956総集編)

!ネタバレあり!

 今回視聴映画は市川崑監督作品『ビルマの竪琴(総集編)』。原作は1947年から翌年まで『赤とんぼ』に掲載されていた同名作品。映画はエディンバラ国際映画祭グランプリ受賞、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞受賞、リスボン国際映画祭審査員特別賞受賞と数々の栄誉に輝き、現在も映画ファンから文句なしの名作と推される作品である。
 ちょっと『ビルマの竪琴』に至るまでの市川崑についての話を……。

 市川崑はアニメーターとして映像作家のキャリアをスタートするが、その第1回作品が制作中に会社倒産、東宝に吸収されるという事態になり、市川崑もそのまま東宝所属となった。ところがその東宝は戦後、「労働争議」が起き、「組合派」「反組合派」に分裂してしまっていた。市川崑は反組合派側に立ち、仲間達とともに「新東宝」という会社を立ち上げる。これが分裂し、映画制作力を失っていた東宝の支柱となり、「新東宝製作、東宝配給」という形で映画が生産されていった。
 それも争議が収まる頃になると新東宝の存在感も薄れていき、市川崑はどうやら一度東宝に戻ったようだが、間もなく日活にヘッドハンティングされてそちらに移る。以降、東宝とは疎遠の関係となる。

 日活という新天地で映画制作を再開するが、『ビルマの竪琴』を切っ掛けにトラブルが起きる。『ビルマの竪琴』は当初はビルマロケを予定していたが、そのビルマの情勢不安があって急遽国内撮影ぶんの60分ほどを制作し、劇場公開し、その後、改めてビルマへ行き後編の撮影をする予定になっていた(結局ビルマの情勢不安は回復しなかっためにタイで撮影された)。
 やがて制作が完了して、前編後編を合体した1本の映画として公開する予定だったが、映画会社側から「すでに第1部のポジを何十本も焼いてもったいない」というお達しがあったため、同時期に「総集編」「第1部+第2部」の二つの形式が混在してでの上映となってしまった。
 これが禍根となり、市川崑は日活をわずか2年で離れて、次は大映へと移る。当時の大映は文芸路線映画を多く制作しており、当時の市川崑の方向性とも合致しており、大映時代が長くなっていくことになる。
 ここまで見てわかるように、『ビルマの竪琴』は日活時代に制作された作品である。

 では映画のあらすじを見ていくとしよう。

ビルマの竪琴 1956 (11)a

 1945年7月。ビルマでの日本軍の戦局は芳しくなく、井上小隊は撤退し、中立国であるタイを目指していた。
 隊長の井上は音楽学校出身の音楽家で、兵士達に合唱を教えていた。そうしたおかげで井上小隊は苦しいときも哀しいときも、みんなで合唱して元気を取り戻し、どうにかやっていくことができた。
 井上小隊の中でも、特に水島上等兵は竪琴の名人だった。水島上等兵は隊に入ってから初めて音楽を知ったのだけど、どうやら天分があったらしくみるみる上達したし、ビルマの伝統楽器サウン・ガウを真似た楽器はあっという間に名人級になっていた。
 水島はビルマ現地人と風貌がそっくりで、現地人の服を着て竪琴を持つと、誰も疑わないほどにビルマ人に見えた。その風貌を活かして、よく現地人の格好を着て、偵察や斥候を任されていた。

ビルマの竪琴 1956 (29)a

 井上小隊は間もなくある村を訪ねる。村人達に屋敷に招かれ、食事を振る舞ってもらい、歌で歓迎してもらう。
 しかしそれは罠だった。宴も賑わっていた頃、村人達がさっと屋敷を出て行く。井上小隊はすぐに状況を察して、屋敷の中にとどまり、周りの様子を窺う。屋敷周辺の草むらには、イギリス・インド両軍が迫っていて、井上小隊は囲まれていた。
 井上小隊は敵を油断させるために、『埴生の宿』を唄う。すると敵軍も『埴生の宿』を歌い始めて、やがて合唱となり、そのまま日本軍もイギリス軍も戦意をなくしてしまう。
 投降した井上小隊は、日本国が既に降伏したことを知らされる。
 捕虜になる井上小隊だったが、間もなく水島は隊長に呼び出しを受ける。3日前から三角山に立てこもってイギリス軍と交戦中の日本軍がいるという。彼らがどうしても降伏しないから、小隊の中から一人行かせて説得することになったのだ。
 水島は「一人でも無駄にするな」という井上隊長の言葉を胸に、三角山へと出発する。

ビルマの竪琴 1956 (47)a

 三角山では追い詰められた日本軍立ちが決死の抵抗戦を繰り広げていた。水島はその中へと入り、説得を試みる。
 しかし日本軍達は国が降伏したことを受け入れず、「最後の一人まで戦う!」と強情に水島を撥ね付け、戦い続けてしまう。
 その戦いの最中、水島は斜面を転げ落ちて昏倒する。次に目を醒ますと、三角山の日本人は全員死亡していた。
 愕然とした水島は、崖から転げ落ちて再び昏倒する。

 映画のあらすじはここまで。

ビルマの竪琴 1956 (35)a

 井上小隊はイギリス軍に囲まれるが、「相手を油断させよう」と思って『埴生の宿』を合唱し続ける。するとイギリス軍も『埴生の宿』を英語で歌い始める。『埴生の宿』はそもそもイングランド生まれの曲で、戦争末期の頃、「敵性曲」としてレコードから除外されかけた曲だった。イギリス軍達もよく知る曲だったのだ。
 イギリス軍達はこの『埴生の宿』を歌っているうちに「望郷の念」に捕らわれ、戦意を喪ってしまう。この流れが非常にうまい。
 最初は井上小隊の合唱で、その合唱の途中から水島が竪琴で演奏をはじめる。その演奏を聞いてイギリス軍達が英語で歌い始める……。この流れも非常に良い。結局、井上小隊は作中一度も戦闘をしないのだが、それで「戦争映画なのに?」という印象にならない。観ている人の気持ちもうまく納めてくれる。

ビルマの竪琴 1956 (83)a

 「ビルマが舞台の映画」……と最初に聞かされていたので私もすっかり騙されて観ていたが、実はほとんど日本で撮影。井上小隊が山の中を進むシーンも、日本の森。映画の中盤から、行商売りのおばあさんが出てくるが、片言の日本語がかなり堂に入っていて、てっきりビルマの役者をお呼びしたのかと思ったが、クレジットを見ると日本人。竪琴を弾いている、現地語を話す子供が出てくるのだが、こちらも日本人。役名のあるキャラクターは実は全員日本人だった。
 当然ながら井上小隊と水島がすれ違ういくつかのシーンも、みんな日本。涅槃像が置かれている広場も日本。あの涅槃像がよくできているから、観ている間はやはりビルマだと思い込んでいた。
 ……こういうの、映画のマジックだよね。解説を見るまでぜんぜん気付かなかった。

ビルマの竪琴 1956 (59)a

 結局、ビルマロケへ行ったのは水島一人だけだった。ということは映画後半の、水島がビルマの自然の中を一人で彷徨っているシーンだけが本当のビルマであって、後のシーンはみんな日本だったわけだ。
 井上小隊がビルマの寺院を見学しているとき、そこで水島らしき僧侶を見かけることになる。そのシーンは、背景にビルマの映像をスクリーンで映しての撮影だった(「スクリーン・プロセス」という技法)。そこはさすがに質感に差ができるから気付いたけれど、観ている間は「なんであそこだけスクリーン撮影?」と疑問だった。もう一度確かめてみると、実際のロケシーンで日本軍人達が出てくるシーンは、やたらロングサイズか、背中向きのどちらかだった。あそこに出てくる井上小隊は、すべて代役だったわけだ。
 言われるまで、こういう映画撮影の秘密って気付かないで見てしまうものだな……。いわれてから再視聴すると、カメラワークの不自然さに気付いて、国内撮影と海外撮影を組み合わせたもの……ということに気付くのだけど。

 さて、映画の続きを観ていこう。

ビルマの竪琴 1956 (56)a

 三角山を転げ落ちていった水島は、生きていた。たまたま側を通りかかった僧侶に救われ、治療を受けていた。
 水島は僧侶が来ていた衣を盗み、髪を剃ってビルマの僧侶のフリをして、旅をはじめた。仲間がいるはずのムドンを目指して歩く。
 その途中、水島は道に迷ってしまい、地平線まで何もない荒野の只中で、空腹のために倒れてしまう。そこを通りがかった現地人が、水島が本当の僧侶だと思って食事を振る舞ってくれた。

ビルマの竪琴 1956 (62)a

 それで力を取り戻した水島は、旅を再開する。すると行く先々に、戦争で敗走した日本人達の骸が、戦場跡に取り残されている様子を見る。水島はそのうちの何人かは埋葬するが、あまりにも数がおびただしいので、仕方なく旅を急ぐことにする。

ビルマの竪琴 1956 (72)a

 間もなく仲間達がいるムドンだ……。
 そう思って宿でしばし休むが、そこに聞こえてくる竪琴の音。現地人の少年が竪琴を弾いていた。水島は少年に竪琴を教えてやろうとして、ここだと音が周りの迷惑だから場所を変えよう……と少し町から外れたところへ行く。
 やがて墓地へとやってくるが、そこで、修道士たちが賛美歌を歌っているのに気付く。覗き込んで見ると、修道士達が日本の戦没者の墓を建てて、慰霊の歌を歌っている様子が見えた。
 水島はその様子に衝撃を受ける。途中で放置してしまった仲間達の死体を思い出す。あのまま放っておく訳にはいかない。水島は元来た道を引き返しはじめた。
 その途上の橋で、井上小隊のみんなとすれ違うことになる。しかし水島は現地人のフリをしてやり過ごす。「みんなと一緒に日本へ帰るわけにはいかない」と水島は足早にその場を通り過ぎて行くのだった。

 映画のあらすじはここまで。

ビルマの竪琴 1956 (76)a

 水島は三角山へ行くとき、井上隊長から「一人でも無駄にするな」と命令を受けて赴くことになる。しかし、結果は全員死亡という結末だった。これが水島の心理に大きな“しこり”となって残ることになる。
 一度はその場を離れて、仲間の元へ向かうが、その道々に見るのは仲間達の死体……。間もなく仲間達に会える……という直前に、イギリス人修道士達が死んだ日本人のために賛美歌を歌っている姿を見て衝撃を受ける。このあと間もなく、「仲間達を埋葬しなければ……」という思いに囚われて、来た道を引き返してしまう。
 その途中で仲間達とすれ違っても「自分だ」と言えなかったのは、仲間達と一緒になってしまうと捕虜の身になって仲間達を埋葬できないし、それにそのまま日本に帰ってしまうことになるからだ。
 それきり、水島と井上小隊は一度も言葉のやり取りはしないままになる。最後の最後で再会するわけだが、そこで水島はなにも言わず『仰げば尊し』を一曲演奏して去って行く。ここからの展開があまりにも素晴らしい。語るべき素晴らしいテーマを持った作品だ。

ビルマの竪琴 1956 (97)a

 ところが、この作品は少し不思議な結末が付いている。
 水島からの手紙が語られ、感動のエンディング……かと思いきや、隊員の一人が「私が考えていたのは、水島の家の人があの水島の手紙を読んでどうするだろう……ということでした」というナレーションが入って終わる。
 これはその直前の感動に対し、明らかに「水を差す」付け足しだ。それは別に良いじゃないか……という気がするが、実はこれがこの作品の肝。「感動の映画」「泣かせる映画」であえて終わらせようとしていない。水を差して、議論を呼びかけようとしている。「水島の行動は本当に正しかったのか?」と。実は映画自体、「感動の映画」として作っていないんだ。
 いや、間違いなく泣ける映画なのだが、作り手の気持ちはそこから一歩引いている。ストーリーが素晴らしいので感動的な作品になっているが、作り手の思いや演出はそこから一歩身を引いて、冷淡に作品を作っている。
 市川崑監督はこのように語る。
「私が『ビルマの竪琴』を映画化するとき、もし私が水島の親であるとしたらどうであろうかと考えた。
 ある日、突然安彦(水島の名前)の隊の隊長であったと云う人が家をたずねてきて、安彦の長い手紙――どうして自分が日本へ帰らないか、なぜ異国にとどまるかという理由を書いた手紙――渡して呉れる。私はそれを読む。そして茫然となる。『なんて馬鹿なことをするのだろう。あの子は一人で世界中の苦労を背負ったような気になっているのだろうか。親のことなど考えてもみないで、一人で生まれて一人で大きくなった気でいる!』と。最初は無性に腹が立ち、そして泣き泣き『まだ若いんだから、そのうち淋しくなって気が変わって帰ってくる、きっと』と云うかも知れない」(『市川崑と犬神家の一族』『成城町』より引用)

 あえて感情移入の余地を切り捨てて作品を描く。登場人物に同情しない。冷淡に描く……こういうスタイルは脚本家の和田夏十の感性によるものらしい。
 『仰げば尊し』を演奏する感動的なシーンの後、少年が隊員達にお金をもらいに走る行動も、感動に水を差す行為だ。それ以外のシーンでも、みんなが一つに向かって気持ちを合わせている最中でも、軍曹がいつも反対して水を差す。実はこの作品は、色んなところで「感動!」「泣ける!」という情緒や視点から一歩身を引こうとして描いている。
 映画というのは基本的には一つの視点でのみ描かれていく。こういった「感動の映画」では、演出も役者も、みんな「泣かせよう、泣かせよう」と一致団結していく。『ビルマの竪琴』も一見するとそういう映画に見えるのだけど、よくよく確かめると、一歩身を引いて、「冷めた視点」を入れ込んでいる。
 といっても、『ビルマの竪琴』の場合、主旋律があまりにも強すぎて、みんなこの「冷めた視点」に気付かず泣いちゃうわけだけど。

ビルマの竪琴 1956 (68)a

 こうした視点を作品の中に入れて書くのは、たぶん作品に多様性を生むためではないかと思う。こういった作品で全員が「観客を泣かせよう」と作ったら、その視点だけの作品となる。しかし冷めた目線を入れ込むことで、「みんながみんなそうではない」という多層的な視点が生まれる。
 映画は多くの人に語られることによって、多面的になっていく。面白い・面白くないという話もそうだし、一つのシーンの解釈にしても、色んな人が考えて語ることによって、様々な面が生まれてくる。そういう多面性を生み出したくて、多くの映画作家はわざと「どうにでも捉えられる」ようにシーンを作ったりする。こういうのも映画を単一的な視点だけの、薄っぺらい作品にしないための仕掛けの一つだ。
 『ビルマの竪琴』の場合は、みんなが思うことの間反対の意見を最後に付け足している。「水島のやったことは、ある人を悲しませることになるけど、どう思う?」と。わざと議論を起きそうな投げかけをして作品を終わらせている。「泣ける映画」で終わらせていない……ということが、この作品のツボなのだ。

 『ビルマの竪琴』は戦争終結後、11年が過ぎてから制作された映画だ。戦争に負けたとわかった時点で、戦争に対する厭世的な気持ちが日本に蔓延していた。戦時中していたことや、あの時代の気持ちや精神を全否定してしまった。あのトラウマは、70年経った今でもコンプレクスとして私たちの心理に残っている。
 そこで『ビルマの竪琴』は戦争映画だが、戦闘はほとんど描いていない。戦地に残っているおびただしい数の日本兵の死体を葬ることをテーマとしている。戦後から11年という時期だから、きっと実際にアジア中に日本人の死体が残されていた頃だろう。おそらくはこの作品が、敗戦国日本の精神を慰め、戦地に残されている同胞達を思い起こす効果があったのではないだろうか……。それが『ビルマの竪琴』を名作たらしめているのではないだろうか。と、2020年代の今はそんなふうに感じる。


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