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読書感想 照葉樹林文化とは何か/佐々木 高明

 「照葉樹林」とは葉が分厚く、ツヤツヤと輝かせるところからそう呼ばれている。主に温帯地域を中心に群生し、日本の本州から中国南部、ブータンやネパールといった同緯度の広範囲のエリアを含む。ただ、日本は南北に長いという特徴を持っているので、東北部は「ブナ林帯」と呼ばれる地域に入っていく。ブナ林帯は東北の他にヨーロッパ圏の広域を含むエリアと同一である。
 我が国には全国に10万箇所という数の神社があるが、その多くが「鎮守の森」を有していて、その大半が照葉樹林である。天然記念物に指定されている社叢40数カ所のうち、1箇所を除いてすべてが照葉樹林帯に属している。
 また古来から神事として用いられる樹木――サカキ・オガタマノキ・シキミ・ユズリハ・ヒイラギ……といった樹木もすべて照葉樹林である。こうしたところから我々日本人は照葉樹林と紐付いた文化を形成してきたことがわかる。
 「照葉樹林文化論」とは樹木の植生によって文化をより分けよう……という考え方の学問である。照葉樹林とは日本の本州大半を含むが、同緯度の東アジアの広域を同エリアとしている。その同じエリアの文化をよくよく確かめてみると――雑穀・根栽型の焼畑農耕、モチ種作物、納豆や麹酒、飲茶の慣行、吊り壁と高床の家屋、桑を食べない蚕の養殖、漆と竹細工の文化、歌垣の習俗や山の神信仰……文化の発達レベルに違いはあるけれども、共通するものは非常に多い。
 こうしたところから、日本人のアイデンティティがどこから始まったのか……それを考え出す足がかりになるのではないか――という大いなる仮説のことを「照葉樹林文化論」という。

ポルトガルのマデイラ諸島の照葉樹林。
宮崎県綾町の照葉樹林。我が国最大級の照葉樹林。水源の森百選にも選ばれている。 地域が違っても同じ照葉樹林であると、区別がつかないくらい風景が似ている。文化観もどこかしら似たような特徴を持つ。

 照葉樹林帯では古くから森の幸を利用する生活が営まれていた。例えば秋に真っ赤な花を咲かせるヒガンバナであるが、我が国でも飢饉の時は球根からデンプンを取って食用にした。しかしその球根には猛毒成分が含まれているので、食用とするときには球根を叩き砕き、磨り潰して、よく水にさらして有毒成分を流していた。それでも時には毒が残っていて、口に入れた途端血を吐く……ということもあったとか。
 照葉樹林帯のイモ類の中には、ヒガンバナの他、山芋、テンナンショウのように有毒成分を有する食品があった。こうした食品を口にするためにも、「水さらし」は必要な技術であった。
 さらに常緑のカシ類やクリカシなどの木の実を食用とするときにも水さらしは行われていたし、クズやフジのツルをよく炊き、それを川の水にさらして繊維を取り、葛布や藤布をつくる技術も広く見られた。
 同じものを食する文化は日本だけではなくネパール地方にも見られる。こちらでは毒抜きのために何度も水を取り替えながら煮詰める……という手法を取られていた。

 次に焼畑農業について見てみよう。
 照葉樹林帯では焼畑農耕が古い時代から営まれていた。我が国でも1960年代頃までは九州山地や四国山地、北陸山地、奥羽山地、北上山地など広い範囲で営まれていた。遡ると縄文時代中・後期頃から始まったとされている。
 手法としては伐木(ばつぼく)を乾燥させた後、火を入れて焼き払い、その後に陸稲やアワなどの雑穀類や豆類、里芋などのイモ類を栽培する。2~3年すると高地の周囲から雑草や幼樹が侵入してきて、作物の栽培が困難になり、耕作地を放棄する。その後、十数年から数十年を経ると森林が再生するので、その時にまた焼き畑が行われる。
 最近になると開発や都市化で森林面積が少なくなり、休耕時間が短縮され、その結果、林相が悪くなり、焼き畑の生産性が低下する……という事態が起きてしまった。そこで焼畑農業は現代ではあまりやらなくなってしまった。
 焼畑農耕民は森林を伐採・火入れするときには、必ず山や森を支配する神や精霊に祈りを捧げ、一時的に立ち退いてもらうよう願ったものである。農耕が終わった後は再び山の神や精霊にお返しするもの……とされていた。これは日本のみの習慣ではなく、東南アジアの焼畑でも、インドの焼畑でも似たような習慣が見られた。

 山地斜面や丘陵では焼畑農業が中心だったが、平野ではもっぱら水田稲作であった。稲作の起源は、最近の研究によれば中国の長江中・下流域とされている。長江中流域である湖南省・彭頭山(ほうとうざん)遺跡では紀元前7000~6000年頃と推定される土器が発見され、その中から稲の籾殻や藁が発見されている。同じく湖南省の八十だん(土偏に當)遺跡、河南省の賈湖(かこ)遺跡からも同じくらいの年代の稲が発見されている。

 稲の種類には粒の円いジャポニカ、細長のインディカ、その中間型のジャバニカの3種類がある。
 DNAの塩基配列から調査した結果、ジャポニカ米とインディカ米は起源が別である……という説が今では有力である。ジャパニカは東アジアの長江流域が起源。さらに熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカに分類される。長江流域の稲が熱帯ジャポニカで、温帯ジャポニカは長江より北の地域で少し遅れて形成されたと考えられる。

 その後の稲作の発展は次のように考えられる。
 紀元前4600~3800年頃。河姆渡(かぼと)文化期から馬家浜(ばかほう)文化期。この頃は狩猟採取経済が中心で、稲作の役割は小さかったと考えられる。
 紀元前3300~2200年頃。崧澤(すうたく)文化期から良渚(りょうしょ)文化期。遺跡が平野に進出し、大型の石犂(いしすき)や破土器(はどき)、石鎌、臼、杵、ほかに米専用の調理道具などが現れ、稲作経済が成立しはじめたと考えられる。
 その後、長江中・下流域から成熟した稲作文化が四方に拡散していった。
 紀元前2500年頃。南へ向かった人々が広東省石峡(せっきょう)遺跡を作る。
 紀元前2000年頃。東南へ向かった人々が福建省閩江(びんこう)流域にやってくる。同じ頃、山東省の楊家圏遺跡を作った。
 ここから東アジアに稲作文化が拡散していったと考えられる。
 ただ初期の頃は「混作」といってアワなどの雑穀類と一緒に栽培されていたと考えられる。また低湿地では大型の雑草を刈り倒し、そのあと耕地に水を入れて踏耕(ふみこう)などで整地する粗野な方法で稲が栽培されていたようである。原初的な「水田」が登場するのは、紀元前4000年頃の草鞋山(そうあいざん)遺跡。紀元前4300年頃の湖南省の城頭山(じょうとうざん)遺跡で畦畔(けいはん)で区切られた小規模な水田址が発見されている。

 稲は他の雑穀類とくらべて優れた性質をいくつも持っていた。無肥料で連作ができて、安定的に生産ができる。やがて稲作を切っ掛けに人口が増え、文化が形成されていき、その文化が周囲へと拡散していく。
 紀元前1000年中頃には雲南を中心とする地域で稲作の基礎が作られ、青銅器による農具が作られていく。これくらいの時期に稲作は東アジアの照葉樹林文化圏内で爆発的に拡散するようになった。稲作が日本に入ってきて弥生文化が形成されてくるのもこの頃だと考えられている。

 食文化を見ていこう。
 イネ科の穀物の澱粉はアミロース20%、アミロペクチン80%の組成で、粘りはあまりないウルチ澱粉である。ところが時々アミロペクチン100%の粘りのつよいモチ澱粉の個体が出現することがある。
 インドやチベット、華北の黄河流域の人々はこのネバネバするモチ性食品を嫌っていた。ところが照葉樹林帯の人々はこのモチ澱粉で作った食品を好んだ。
 そこで普通の作物の中からモチ澱粉を持つ個体を選び出し、「モチ種」という特有の品種を作り出してきた。こうしてモチ種から作り出されたオコワ、チマキ、モチ、ウイロウといった食品が多く作り出されていった。

 雲南省南部の西双版納(シーサンバンナ)の中心地、景洪(けいこう)の市場を覗いてみると、ウイロウのような切糕(チェガオ)、チマキにそっくりな粽子(そんず)、それにオコワや赤飯も売っている。この地域でも赤飯といったら、祝い事の時に食べるものであった。
 西双版納のタイ族、ラオスに住むタイ族、ミャオ族やヤオ族といった少数民族でも、客をもてなすさいにはオコワが用いられていた。
 餅米を蒸して臼に入れ、杵でつく「搗き餅」も定番である。西双版納のタイ族、ミャオ族、タイの北部で搗き餅は作られていて、その伝統は朝鮮半島から日本にいたる地域へと線で結べるようになっている。

ミャオ族でも旧正月になると伝統として餅つきが行われている。ただ臼が横に長い「横臼」と呼ばれるもので、2に人で交互に餅をつくようにする。

 寿司の原型とされている「なれ寿司」もやはり照葉樹林帯に分布している。
 日本では琵琶湖のフナ寿司にその原型が残っている。魚を開いて腹を綺麗に掃除して塩をふり、その魚の切り身と炊いたり蒸したりした飯とを交互に重ねて、瓶や桶の中につけ込む。半年ほど置くと乳酸発酵してドロドロになり、乳酸発酵のために雑菌の繁殖が抑えられ、魚や肉の保存食となる。
 このようななれ寿司はアッサムのカーシー族、タイ中北部のラオス、中国華南や江南地方、貴州省東南部のミャオ族、ヤオ族、トン族といった地域で作られている。他にもカンボジアや北ボルネオ、フィリピンのルソン島……。いずれも照葉樹林帯の中に広まっている。

 なれ寿司の起源は魚醤(ぎょしょう 魚に塩を加えて発酵させた食品)に米飯が加わったものと考えられ、ラオスと東北タイ一帯の水田稲作地帯であると考えられている。これには諸説あり、長江中・上流域の照葉樹林帯のアワを主食とする焼畑地帯が起源となり、照葉樹林帯に広がり、そこから南へ広がっていった……という説もある。

 ネパール東部からブータン、シッキムにかけて「キネマー」という発酵食品がある。これは大豆をよく煮て、そのあとバナナの葉で敷いた竹籠に入れて、その上をバナナの葉で覆って密閉し、4~5日間発行させ、それを臼でついたものである。これは肉料理の調味料に使ったり、スープに用いたりする。
 こういった料理はブータンのリビ・イッパ、アッサムのナガ族アクニ、雲南の豆司(とうす)、北部タイのトゥア・ナオ、インドネシアのテンペ……呼び名は違うが様々な地域で似たような食品が作られている。もちろん我が国日本でも作られていて、これを「納豆」と呼ぶ。

 ブータンのキネマーの西端とし、インドネシアのテンペを南端、そして日本を結んだ地域を「納豆の大三角形」と呼び、この地域の中で納豆が作られている。このエリアの中では、コンニャク、なれ寿司、麹酒といった食品も分布している。

納豆の大三角形 ミツカンより

 酒は世界中にあり、ブランデー、葡萄酒、ウィスキー、ビールといったものは自然の酵素によって発酵させる酒である。その中でも「麹」というカビを用いて発酵させる酒のことを「麹酒」と呼び、この食品も照葉樹林帯特有のものである。
 東アジアではどこの露店を見ても麹が売られているし、ネパールやブータンといった地域ではシコクビエが、台湾の山地民、アッサムやビルマなどではアワなどの雑穀類が今でも酒の原料となっている。中国では華北で米とともにキビやアワが、長江流域では江南地方から南東アジアにかけた地域で餅米が酒の原料となっている。
 日本では糖化した澱粉を軽くアルコール発酵させたものが甘酒となっている。

「東亜半月弧」…東アジアの照葉樹林帯の起源を持つとされる地域。東はブータンのアッサムから雲南省山地をこえて湖南山地にあたるまでのエリアを指す。

 照葉樹林帯特有の飲料といえばお茶だ。
 茶樹の起源地でもある東亜半月弧とその周辺の照葉樹林帯において、古くから茶以外の多くの種類の灌木や喬木の樹葉を利用して、食用や飲用に使ってきた。
 これらの樹葉の原初的な利用方法は2つ。1つめは採取してきた樹葉を直接火で炙ったり、日光にさらして乾かした後、それに湯を注いで飲む方法。
 もう一つの方法は採集してきた茶葉を湿らせたり、煮たあと、竹筒の中に詰め込み、土中にかなりの期間を埋めて発酵させる。すると茶葉の漬物のようなものができあがる。これは「食べる茶」である。食べる茶は北西ラオスのラメット族や雲南のプーラン族、オーストロアジア系焼畑民の間で最近まで作られていた。
 この食べる茶を発酵させた後、臼の中で挽きつぶし、木型に入れて乾燥させ、固形茶にする。この固形茶を小さく砕いて煮出して飲む。こういった固形茶が「食べる茶」から「飲む茶」へ変わっていった端境期のものだと考えられる。日本人が好む「抹茶」はこの飲む茶から発展したものである。

 このように照葉樹林帯の内部を見てみると、日本で伝統的に食べられているものの原型的な食品をたくさん見いだすことができる。食べ物だけを見ても、伝統の起源が照葉樹林帯というエリアの中で作られていったことがわかるだろう。
 他にも文化的な側面……例えば建築は高床式の吊り壁様式で作られる。西洋の建築は石やレンガを積み上げて壁面で屋根を支えているが、照葉樹林帯の中では柱や梁で建物の重量を支える建築様式が基本だ。壁も「吊り壁」といって柱と柱の間で支えられている。日本の伝統家屋では柱と柱の間を竹を編んだもので下地を作り、その上を土壁で塗る……という方法が採られるが、これは吊り壁の典型的な形である。
 次に養蚕。養蚕の起源は新石器時代に遡るとされて、そんな時代から人類は蚕から糸を採取していた。
 紀元前2000年頃の殷代の文字に「蚕・桑・糸・帛(きぬ)」といったものがあり、この時点で蚕が産業となっていたことは間違いない。紀元前200~紀元後8年頃の秦漢帝国時代になるとシルクロードが成立し、絹は輸出産業として大きな収入源となっていた。
 絹と同じく照葉樹林文化の特色を持った文化といえば、漆を使った「漆器」である。ウルシノキやビルマウルシ、ハゼノキの樹液から採取された塗料で作られた漆器類は、日本では縄文時代前期ごろ(紀元前7000~5500年頃)にはすでに作られていて、縄文晩期(紀元前3200~2400年頃)になると芸術性のある工芸品にまでなっていた。
 中国でも紀元前5000年頃の河姆渡(かぼと)遺跡、湖北省江陵の楚の王墓(紀元前500~400年頃)や湖南省長沙(ちょうさ)付近の馬王堆(まおうたい)の漢墓(紀元前200年頃)などにも優れた漆器が大量に発見されている。
 気候が穏やかで湿気の多い照葉樹林帯は漆器を作るにも使うにもよい条件を備えていた。そこで古代から現代にかけて漆器類は様々な地域で広まり、使用され続けている。

 「歌垣」も照葉樹林帯に見られる特有の文化だ。ネパール・ヒマラヤのリンブー族、シェルパ族、タマン族やグルン族のあいだに歌垣の習俗はある。この辺りを西端として、歌垣の習俗は照葉樹林帯に広まっている。
 日本でもかつては歌垣文化の世界で、平安時代まで遡ると日常の些細なことを歌にして書き残し、歌で対話する文化があった。戦国時代でも武将達にとって歌は必須の教養だった。現代に入り、歌文化は西洋文化の流入によって変質してしまったが、今でも日本人は歌が好きである。

 習慣の次は信仰だ。照葉樹林文化の人々は山や森の神々に畏れ敬っていた。日本に「山上他界」の観念や習俗があることを最初に解き明かしたのは柳田国男であった。柳田国男によると死者の魂は故郷の近くの山に登り、そこに鎮まる。その祖霊は正月や盆や彼岸になると、遺族の家へと帰ってくる。
 同様の信仰観は中国南西部でも見られ、ヤオ族やミャオ族といった焼畑農業を主とする人々の間に根付いている。こうした信仰観は東アジアの中でも、焼畑農耕民の特有の文化だった。こういったところから、日本もかつては焼畑農耕が広く営まれていたであろう……と推測されている。
 信仰観に類似性ができると、次に類似するのは「昔話」である。花咲か爺、猿蟹合戦、炭火焼き小五郎、竹取物語……こういった物語と似た構造を持つお話しが照葉樹林帯に広まっている。その中でも興味深い伝説が「天の羽衣」伝承だ。
 華中・華南から西日本に広く分布している形に「難題型」と呼ばれるものがある。下界に下りて水浴びをしていた天女がいて、それを目撃した男が羽衣を隠してしまう。男は羽衣を返して欲しければ俺の妻になれ……と言う。そうやって天女は男の妻となる。その後、天女は羽衣を見付けて天へと帰っていくが、「難題型」では男がその後をついていき、天女の父から様々な難題を突き付けられるが、それを解決し、最後には天女と本当の夫婦になる……というあらすじである。
 解決できず、ある一日だけしか会えなくなってしまった……というパターンも存在する。それが7月7日の七夕である。
 この難題型に興味深い特徴があり、ミャオ族といった焼畑民には「7つの山の木を1日で伐り払い、それを焼け。そこに1日で種子を蒔け。それを1日で収獲せよ」という難題が提示されるが、焼畑農耕の生活に密着した内容となっている。同様の形は焼畑農耕民の間に広まっていて、我が国でも沖縄や奄美大島、徳之島にも伝わっている。

ミャオ族は中国の少数民族の1つ。写真はラオスのモン族。

 今回のお話しで何度も登場してくるミャオ族。おそらくは長江文明の直系だと考えられる。ミャオ族の文化や伝統の中には、古代日本と関連があると思われるものがいくつか見つかっている。しかし遺伝子的な共通点――日本人に多いY染色体ハプログループDは少ない。数千年前のどこかに文化的交流はあったかもしれないが、あまり交雑しなかったようだ。

本の感想

 民族植物学者であり探検家でもある中尾佐助が「照葉樹林文化論」を唱えたのは1966年のことだった。照葉樹林文化論とは、ざっくりいうと樹木の植生によって文化観が区分けできる……という考え方である。我が国のおいては本州の大部分が照葉樹林帯で、東北へ行くと「ブナ林帯」に入っていく。ブナ林帯に入ってくと照葉樹林帯とは違う文化観が営まれるようになる。同じ国内だから似通った文化観が築かれているが、東北へ行くとやや文化の性質は変わってくる。その性質は実は同じくブナ林帯であるヨーロッパに近いところがあるとされている。
 ヨーロッパから南へ行くとやや空気の熱い硬葉樹林文化に入っていく。ギリシアやローマといった国がこの硬葉樹林文化だ。
 本書では照葉樹林文化帯の中でいかに似通った文化が形成されているか。食・住・習慣・信仰といった要素を見ながら解き明かしていく。日本はその中でも際だって文化の発達レベルが高く、あたかも東アジアの文化観と違った様式を持っているかのように見えるが、遡っていくと似たところをたくさん見いだすことができる。私たちにとって懐かしいと思える食べ物や文化といったものが東アジアにおいて現在進行形のものとして営まれている……ということがわかってくる。

 日本人は今に始まった話ではなく、「自分たちは何者か?」ということに強い興味を持っている。他に国では自国の歴史や文化論について、一般人でさえ詳しく語れる……ということがあまりない。日本人のそもそもの気質としてそういう「探究心」の強さを持っており、その背景には「自分たちが何者であるのか」その根拠に不安を感じているといえる。
 そういう民族性であるから、日本人は自身がどういった存在か考えるためにも「照葉樹林文化論」といった考え方を発明した。そこから副産物として東アジアという広い文化観を解き明かす切っ掛けを作っていく。日本海を隔てた大陸文化は「遠い他国」ではなく、実はそれなりに身近な存在である……そういうことも照葉樹林文化論で見えてくる。

 日本人は不思議な民族性を持っていて、例えば稲作1つ取ってもその仕事を神事と結びつけて考えている。
 稲作はもともと宮崎県に拠点を持っていた天皇家が、近畿地方に進出する最中に全国に広めていったものだった。米を天皇家に奉納する……という目的のために近畿を中心に稲作は広がっていき、稲作が営まれるようになった地域を天皇家の領地……というように考えていた。
 ただそれは「年貢」というような考えではなく、どこか宗教的な習慣だった。天皇家には「新嘗祭」といった祭祀があり、時の天皇自らが田植えをする。新嘗祭は独特の装束を身にまとい、祝詞を唱えつつ儀式的に進行する。収獲の時もそうだし、作るものも「神饌」といって丁重に扱われる。こういった儀式は現在も宮中行事として営まれている。
 大坂の生國魂(いくくにたま)神社では11月になると神官達が礼服を身にまとったまま、熱した鉄を叩く……という神事が行われる。「鞴(ふいご)社祭」と呼ばれる。似たような鍛冶の神事は全国で行われ、おそらくは鍛冶仕事も神事にまつわるなにかであって、それは天皇家(あるいはそれに近い地位)の仕事であったと考えられる。
 稲作にしても鉄にしても、古代の日本ではこういった仕事は宗教的にも重要な意味を持っていた。

 そうした起源はどこまで遡ることができるのだろうか……。

 人類が農耕と出会ったのは今から1万2000年前頃とされる(1万4000年前とする説もあり)。1万年前になにがあったかというと、氷河期の最終段階である「最終氷期」の時代だった。北半球全体を覆っていた氷が溶け、海岸線がなんと1000キロ以上もガーッと移動していた。この変化は1000年くらい時間をかけて……ということだが、当時の人は毎年のように水位が上がってくるのを見て穏やかな気持ちではなかっただろう
(この海岸線の変化は、「一気呵成にドバッと来た」という説もある。これが元ネタとなって世界中の「洪水神話」を作ったともされる)。
 この頃は稲はまだ野生種で、野生の稲(「オリザ・ルフィポゴン」という)というのは実をぽつぽつとしかつけない。現代では稲穂といったら秋になると一杯実を付けて「実るほど頭を垂れる稲穂かな」といった言葉もあるくらいだが、これは品種改良しまくった結果である。
 現代の作物はどれも品種改良しまくって生み出されたものばかりで、「自然そのまま」のものは1つとしてない。例えば野生のリンゴはもっと小さいし、あんなに甘くもない。今はリンゴといったら掌に収まるくらい大きな実を付けるが、あれも人間の手によって品種改良されたものである。本来の野生の稲は実をぜんぜん付けないし、しかも多年生植物。1年で寿命を終える「1年生植物」になったのは人間の手で栽培されるようになってそれからの話だった。
 メンデルによる「遺伝の法則」が発表されたのは1865年だが、実際には人類は1万年前から受粉の仕組みを理解して、自分たちにとって都合の良い遺伝子を選び取って作物を作っていた。
 とにかくも野生の稲というのものはぜんぜん実を付けないような、たいして魅力のあるものではなかった。こんな植物を、どうして古代人は育てようなどと思ったのだろうか。
 植物というのは「環境的ストレス」にさらすと、ふだんより実を多く付けさせる性質を持っている。環境が大きく変わると植物も「多く子孫を残さねば」……と思うのである。
 1万年前の自然界でそういう変化があった。
 ヤンガー・ドリアス期といって、氷河期が終わった後、ずっと温暖な気候だったわけではなく、「寒の戻り」が起きていた。これがざっくり1000年くらい(1万3000年前から)。この期間、植物はいつもの年より多く実を付けるようになった。このタイミングで東では稲と、西では小麦と出会った。このタイミングで世界で「農業革命」が起きた……と考えられている。
 それが東アジアでは長江中・下流域あたり。ここから稲作が始まり、3000年ほど前に日本に入ってきて弥生文明を作ることになった。天皇家に伝わる新嘗祭はおそらくそういった時代から洗練させながら現代に伝わったもので、古代の人々も同じように大地や森の神に対する畏れを感じながら農業をやっていたのかも知れない。
(縄文時代の遺跡からは稲作に必要な道具が発見されていない。縄文晩期になると登場するようになってくる。縄文時代はすでに農耕が営まれていたと考えられるが、稲作が始まったのは弥生時代から)

 2020年に発売され、日本国内で大ヒットとなった『天穂のサクナヒメ』はそういった日本的な文化に対する探究心と、それをうまくファンタジー世界に組み替えて作られた作品だった。今でも稲作と稲作にまつわる信仰が日本人の根の深いところにあることが示された作品である。

 ただ、そうすると西洋にはこういった信仰観はあるのだろうか……? 西洋も同じように稲作や鉄器と出会ったのだけど、こういった仕事が信仰と結びついているという話は聞かない。
 この疑問は次の課題として、別の機会に勉強するとしよう。

 魅力的な「照葉樹林文化論」だが、しかしこれは「大いなる仮説」でしかない。その中でも「例外」はたくさんあるし、「矛盾」も多い。今もって「仮説」の域を出ず、教科書にも載ることはない。そういうものだという前提を知っておくのは大事だ。
 ただ日本人とは何か、日本文化とは何か……を知るテキストとしてはかなり魅力的だ。日本は明治以降、西洋文明を取り入れたことによって長らく育んできた文化観を自ら破壊し、土着的な習俗を「古くさいもの」「低俗」として見下すようになってしまった。その結果、なんだかわからない奇形文化を作り上げることになる。それが「現代の日本」だ。
 しかし日本はあくまでも東アジアの小国。その文化の源泉がどこにあるのか。それを考える切っ掛けとして照葉樹林文化論は教養として知っておいてもいいだろう。


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