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11月26日 AI革命以後社会を考える① 産業革命以後の社会のはじまり

 これを書いているのはまだ2023年11月……。12月からバイトが始まってしまうので、それまでに書き溜めをやっています。日付も11月になっているのは、そのためです。読む側にとっては、いつ書いたかなんてどうでもいい話なんだけど。

【追記】
突然ですが、ここから2024年1月30日に書き足したものです。
ここからのお話しは、「バイト行かねば!」となったときに、バイト中はブログが休止状態になってしまうから、ちょっと書き溜ておこう……ということで書いたものです。
内容について、後で思うと……ちょっと「どーでもいいよね」って内容です。没にするという手もあったのだけども、ここまで書いちゃったんだし、とりあえず出しちゃおうか……という感じの物です。
まあ読んでいてそんなに面白くないものなので、ざっと流し読みするか、いっそ読まなくてもいいです。そこは好きにしてください。

 はい、今回のお話しは「AI」。
 AIというものが出てきてから、世の中的に騒がしい。AIには高い有用性がある一方、AIを活用することで多くの人の仕事が奪われるのではないか、それでAIを使うべきかどうか、AIを使うとしてもどう使うべきか……という話が世界的に議論されている。

 アメリカのハリウッドでは11月8日まで大規模ストライキが行われていた。その期間は118日間。今回のストライキは史上2番目に長いものだった(最長は2000年のSAG-AFTRAで148日)。
 このストライキは監督、脚本、俳優の組合が参加していて、それぞれの労働・賃金体制を見直せ……というものだが、そのなかにAIにまつわるテーマも含んでいた。今後、人間に変わってAIが人間に変わってコンセプトアートや脚本を書くようになるのではないか。それだけではなく、俳優の顔・体型をスキャンして、「デジタルモブ」として使う……という提案があり、そのデジタルモブは業界内で版権フリーとして俳優に利用料は支払われないという。
 経営する側からすれば「経費削減案」かもしれないが、雇われるほうからするとたまったものではない。自分の能力や容姿やアイデアが版権フリー状態で使い放題になる(せめてロイヤリティが出ればいいのだが、それすら無し)。それじゃ自分たちの生活はどうなるのか。評価すらされない才能はどうなるのか。
 ちょっと余談だけど、こういう話、実に欧米白人らしい。欧米白人は認知能力が非常に低い。認知能力が低いために、認知の外側の人間に対し、とことん冷酷に振る舞う。自分の視界から外れた人がどうなろうと知らん、関係ない、興味もない。欧米白人はいったん「差別する対象」だと決めたら、ところん見下す。俳優を3Dスキャンして、その影響で仕事をなくしたとしても「知らん。自己責任だ」と言ったことだろう。さすがに「そりゃダメだろ」と俳優達が決起した……というのが今回のストライキだが。

 話を戻すと、AIによる社会変革はもう始まっている。みんなAIに対し、危機を感じている。なぜならAIは、今まで人が頑張ってやっていた仕事の多くを、代わりにやってくれる。しかも高速で、高い精度で仕事をしてくれる。AIが得意とする分野で仕事をやっていた人にしてみれば、「仕事を喪う」危機だ。その仕事を獲得するために、死ぬほど勉強し、一生ものの仕事だと思っていたものが、明日にも喪うかも知れない。そういう恐怖と戦わねばならなくなってしまった。

 でも正直なところ――もうパンドラの箱は開いちゃったのだから、今からそんなことを言っても仕方ないじゃないか……とも言える。これから社会が変わる、ではなくもう変化は始まっているのだ。

 こちらは私の描いた漫画『ムーンクリエイター~2050年の漫画学校』というタイトルのネーム原稿。「ネーム原稿」なので、完成品ではなく、下書き以前の状態ですね。
 タイトルが「2050年の漫画学校」なので、今から30年後くらいの漫画学校が舞台になっている。この時代になると、「AI搭載タブレット」が当たり前になっていて、漫画学校の学生はみんなAIを使って漫画を描くのが当たり前。ごく稀に、AIを使わず描いている生徒もいるわけだけど、「なんであの子、AI使ってないの?」とか「原始人なの?」とか言われたりしている。
 私たちがグダグダ言っていても、次の世代になると、生まれたその時からAIが身近にあるのだから、AIを使うのが当たり前、AIを使わない人がいると「なんで使わないの?」という感覚になるのは当たり前……になっていく。親から「AIを使うな」とか言われると「なんで?」となるはずだ。子供に「なんで?」と言われてもほとんどの親は答えられない……というこれまでの時代に何度も繰り返されたことを、また繰り返す。
 例えば、今の時代に生まれてきた子は、スマートフォンが身近にあるのが当たり前。だからスマートフォンを使うのが当たり前。物心ついた時から、YouTubeをずーっと見ているのが当たり前……という感覚になっている。そういう世代の子供たちからすると、スマートフォンのない社会がどういったものだったのか、想像すらできない。すでにそういう時代になった。
 私は年寄りだから、スマートフォンどころかネットもない時代を体験している(テレビゲームがなかった時代も体験している)。ネットはまあ活用しているけど、私にとってスマートフォンは「ラジオ」状態。電話機としてもほとんど使用していない(私に電話を掛ける人が誰もおらず、私も電話を掛ける相手がいない)。スマートフォンのことをラジオだと思っているので、使いこなしているとは言えない。これも私が年寄りだからだ。今の10代の子供が、スマートフォンをまったく使いこなせていない私の様子を見ると、「原始人だ」と失笑することだろう。
 そういう年寄り感覚の私と、これから生まれてきて、スマートフォンもAIもあるのが当たり前……という世代との格差が埋まることは決してない。「もう変わったんだ」という前提の下に、いろいろ考えていかねばならない。

産業革命のイメージ

 それではどうやって考えるべきか。どこから考えるべきか。こういうとき、近視眼的に10年や50年といったスパンで考えるのではなく、100年や200年という視野で考えた方がいい。まず100年前の過去を見る。そうすると、私たちがどういう社会にいて、これからどう変わるのか……が俯瞰して見えてくる。
 では私たちの社会がどういう土台の上に成り立っているのか。それは18世紀イギリスを発に起きた【産業革命】である。
 その以前の時代のことを【手工産業時代】という。
 産業革命以後は手工産業時代とどう変わったのか……まず仕事が誰でもできるようになり、誰でも働けばそこそこの財産が得られる……という時代に変わった。手工産業時代は仕事は一部の人しかできず、その仕事も何年にもわたる修行の末にようやく……という感じだった。要するに「職人」の時代だった。それ以外のほとんどの人には仕事はなく、なにかあったときの待機要員のようなものだった。
 産業革命によって全ての人に仕事が与えられた。誰でも平等に働けて、平等の品質のものを、そこそこの値段で買える。大量生産、大量消費が可能となった。そうした工業生産のモノははっきりいって職人が作ったものと比較して、数段劣る。でも全員が平等に冨とモノを手に入れられた……という面で画期的だった。
 しかし産業革命が本当に平等をもたらしたのか……というと実は疑問があった。まず労働問題について。
 産業革命が始まった当初、動力は蒸気機関だったので、蒸気機関は動かすのに時間が掛かり、その後はなかなか止めることができない。その機械の都合に人間の側が合わせて働いていたので、労働は過酷なものとなり、一日の労働時間は10~16時間。労働者はバタバタと倒れていった。その後、いろいろあって「8時期間労働にしましょう」という決まりを作って、この8時間労働が現代でも平均的な労働時間になっている。どうして現代人は「8時間働くことが当たり前」になっているのかというと、この時代に決められたものだった。
 しかし人類の歴史から見ると、8時間は働き過ぎだ。人類の初期段階だった狩猟採取民時代は、1週間の労働時間を合計しても14時間。一日平均にして2.8時間。手工産業時代は人によってぜんぜん違っていたが、それでも1日4時間も働けば充分だった。
 産業革命時代以後は本当に私たちは幸福になれたのだろうか? 一日の大半は働き、それだけでクタクタになり、まともな人間関係も築けなければ、自由に使える時間も体力もない。やっと来た週末も、疲れ切って一日中グッタリしている……という状態だ。これで良かったのだろうか?
 確かに“その前の時代と比較するとマシ”というのは間違いない。その以前の時代というのは、貧富の差が激しかった。働きたいと申し出ても、働ける人に限りがあるので、門前払いだった。働く場所がなければ、富も得られない。産業革命以後は誰でも働けて、誰でもある程度の冨が築けて、貧困の問題はだいぶ改善された。
 その代わりに、働き過ぎだし、なにかあったときの待機要員という人達もいなくなった。
 それに、住人全員がしゃかりき働いてないとまともに成立しないような社会は、健全だと言えるのだろうか。現代人は「働かない人」や「働けない人」に対する当たりが厳しい。「妬み」の感情が強烈だからそう言われるのだが、しかしそもそもの話として、それだけの人間が働かなければまともに機能しない社会……というのは果たして「パーフェクトな社会」といえるのか。また、仕事をなくした瞬間、社会の仕組みからも排除される……という社会はパーフェクトな社会といえるのか?
 よくよく考えればいろんな意味で産業革命以後社会は「?」があるのだが、それでも確かにその前の社会よりかはマシ。少しマシだからこそ、現代人は産業革命を前提とした社会を受け入れた。

 最初のテーマに戻ると、私たち社会がどうしてこうなっているのか……を考えねばならない。
 例えば「教育制度」だ。
 産業革命以前の子供の教育は、親や周囲の大人がやるものだった。日本では寺子屋が担っていた。しかしそれだと産業革命以降は不都合がある。
 例えば中国が工業化しはじめた初期の頃、田舎の方へ行くとまだ現代的な義務教育が来ていなかったので、すべていちから教えねばならなかった。どれくらい「いちから」だったかというと、まず朝の決まった時間に職場へ来ること。次にスイッチを入れたら電気が点くということ。チャイムが鳴ったら休憩時間は終わりで、すぐに持ち場に戻らねばならない。全員が同じように動かないとベルトコンベアが停まってしまう。私たちからすればどれも当たり前の当たり前だが、しかし義務教育のない社会へ行くと、そういうところから始めねばならなくなる。
 そういう常識を大人になってから改めて教える……では手間がかかりすぎるので、そこで出てきたのが「義務教育」制度だった。義務教育で全員が平均的な同じ知識を得て、同じように行動できること。そういう教育をさせるために、義務教育があった。
 学校教育もう一つの目論見が「ストレス」への耐性を作ることだった。工業化社会は数時間にわたって、単純作業を繰り返さなければならない。これが一番きつい。大人になってからこの単純作業をやらせるには、相当な困難が伴う。だから子供のうちから、工業化社会へのストレスに耐えられるよう教育をしておこう……という目論見があった。
 学校でどうして似たような問題をひたすら何時間も解く……ということをやらされるのかというと、後の工場労働に耐えられる忍耐力を付けさせるためだった。どうして学校ではモタモタするのに、どんなときも全体行動させられるのか――これも工場労働に必要な規律を身につけさせるためだった。
 工業化社会にとって都合のいい人間を作り上げるために、義務教育はイギリスでは19世紀に、アメリカでは1852年に制定された。

 そもそも義務教育は工業化社会に対応するため……という目的の下にあったから、今でもすでに「ひずみ」が出始めている。例えば、最近は「ギフテッドをどう教育するか」というような議論がポツポツと出てきているが、これはそもそもの前提がおかしい。義務教育は個々の能力をいかにして削り、全員を平均化するか……ということを目的としている。能力のない人間は能力を引き上げ、能力の高い人間はまわりに合わせて下げることを目的としている。
 そもそも義務教育の世界では「ギフテッドをいかに殺すか」という世界なので、その世界で「ギフテッドをどう教育するか」は理念の上で矛盾している。
 ギフテッドをどう教育するか――これに答えると、まず義務教育は受けさせない。その子供にあった高度な教育を受けさせる……が正解だ。こういう発想ができないのはなぜかというと、義務教育がどうやって生まれたか、ということを学校教育当事者すら知らない時代になってしまったからだ。

 それでも、私の考えでは「義務教育はよくできている」と考えている。というのも、教養など欠片もないような人間であっても、それなりの仕事をこなせるようになっているからだ。世の中にはどうしようもなく認知能力が低い人々もいるのだが、そういう人でもごく普通の暮らしができている。これは義務教育の成果だ。
 ただし義務教育にも2つの問題点があり、一つは義務教育の思想に合わない人たちにとってはとことん居心地が悪いということ。もう一つは“義務”と名付けられているから、どんな事情があっても絶対に行かねばならない……という思い込みを作ってしまったこと。それは学校教育が必要な人にとっては都合が良かったのだが、「義務教育の思想に合わない人たち」にとっては拷問のようなもの。私も小学校はともかく、中学校からはほとんど「刑務所に通っている」感覚だった。
 義務だから絶対に行かねばならないのだ……この思い込みが場合によっては人を追い詰める。実際、別に義務教育は子供に課せられた義務ではない。そのことは親であれば知っておくべきだろう。

 教育だけに限らず、現代の制度の多くは、工業化社会をベースに作られている。学校、恋愛、結婚、扶養控除の仕組み、終身雇用システム……みんな工業化社会が前提になっている。道徳観もやはり工業化社会をうまく動かすために作られている。
 その社会がとうとう終わるんだ……というふうに考えた方が良い。AI革命が来たことによって、これまでと違う、まったく新しい社会がやってくる。もう「パンドラの箱」は開いたのだから、いつまでもその前社会の常識に囚われてはいけない。むしろそれらの常識がどういう条件下で生まれたのか、一つ一つ検証すべき時だ。

つづく


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