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映画感想 ファーザー

!ネタバレあり!

 うーん、これはネタバレを回避しながら話すのが困難な作品だ……。

 映画『ファーザー』。もともとは監督のフローリアン・ゼレールが舞台として発表した作品が元になっていて、この舞台が非常に高い評価を得ために映画化の企画が持ち上がる。映画化に向けた脚本作りが始まるのだが、監督は最初から主演をアンソニー・ホプキンスに決めて「当て書き」を行っている。それで主人公の名前はアンソニーだし、生年月日は1937年12月31日と、設定をアンソニー・ホプキンスに寄せて書いている。
 その結果として、晴れてアンソニー・ホプキンスに主演の了解を得て、監督の意図したとおりの映画が制作されることになった。
 監督は舞台版を演出したフローリアン・ゼレール。今作が初めての映画監督デビューとなる。

 映画の評価はすこぶる高く、映画批評集積サイトのRotten Tomatoesでは批評家支持率98%。平均点は10点満点中8.36という絶大の高評価を得た。評価された理由は脚本の巧みさと、主演アンソニー・ホプキンスの完璧すぎる芝居。特にアンソニー・ホプキンスの演技は抜きん出ていると評価され、第93回アカデミー賞主演男優賞を受賞。早くも名作の誉れを得ている作品である。

 では内容を見てみよう。

 舞台はイギリスのとあるフラットだ(高級なアパートみたいなもの)。そこで悠々自適の隠退生活を送っている一人の老人がいた。これが主人公アンソニーだ。
 そこに、娘のアンがやってくる。父が介護人を追い出してしまったからだ。
 アンソニーは「あの女は盗人だ!」と怒りを露わにする。あの女はどうにも気に入らん。だから罠を仕掛けてやったんだ。腕時計を外して置いておいたのだ。そしたら腕時計がなくなった! あの女が盗んだに違いない!
 娘のアンは「その腕時計はどこに置いたの?」と尋ねるが、アンソニーは「覚えてない」。「浴室の棚は確かめた?」と尋ねると……腕時計はあった。盗まれていなかった。自分でどこに置いたかわからなくなり、「盗まれた」と思い込んでいただけだった。

 このやり取りが前半14分。
 この時点で、すでに主人公アンソニーが認知症であることがわかる。認知症になると知らない人に対して異常な警戒心を抱き、物がなくなると「あいつが盗んだに違いない!」と思い込む。感情を抑えることができなくなり、ちょっとしたことでも激高するようになる。認知症患者にはよくあることだ。認知症患者の典型的な症状を示しているが、本人に自覚が全くない……というところも認知症患者によくあることだ。

 お話を進めよう。
 アンは新しい恋人ができて、間もなくフランスに住むという。もうすぐお別れ……という話をして、フラットを去って行く。
 アンソニーは一人でキッチンにいて紅茶を淹れるのだが、ふと物音がする。見ると、リビングに見知らぬ男が……。
「誰だお前は」
 そう尋ねると、男はアンの夫であるポールだと名乗る。結婚してすでに10年。
 そんなバカな……。アンはフランスに新しい恋人ができたと話していたはず。アンを電話で呼び寄せると……フラットに入ってきたのは見知らぬ女だった。
「誰だお前は? アンは?」
「私がアンよ」

 ここまでのお話が25分。

 どうしてこんな混乱したような作りにしているのか、というと認知症の感覚を再現するため。意図的に設定を混乱させて描いている。

 私が初見の時に思ったことは……この最初のシーン、実は時間軸的にかなり後なんじゃないか。アンはすでにポールと別れた後。なにしろポールとの結婚生活は10年続いていたから、その以前とは考えづらい。ポールと別れ、ジェームズとも別れ、そして新しい恋人ができた……というところではないだろうか。
 では場所は? 場所はアンソニーが長年過ごしていたフラットのようだが……。これは「アンソニーがそうだと思い込んでいる場所」であって、実はアンソニーの部屋ではないんじゃないだろうか。とっくにアンの住むフラットに移り住んでいるのだけど、アンソニーは今でもそこが自分の部屋だと思い込んでいる……という状況ではないだろうか。
 アンソニーのフラットに謎の男女が現れる。何者か、というと映画を最後まで観るとわかるが、老人ホーム施設のスタッフ。映画をよくよく観ると、謎の女は「薬を持ってくるわね」と老人ホームスタッフとしての役割を演じようとしている。
 アンと別れ、老人ホームに住むことになる端境で、混濁した記憶が冒頭のシーンではないか。

 しかし映画は意図的に見る側を混乱させようとしているから、わざと時間軸がどこに収まるかわからなく作ってある。アンの前の恋人を「ジェームズ」と言わせているし、前の介護人は「アンジェラ」と言わせている。おそらくはポールとも別れ、ジェームズとも別れ、介護人のローラも追い出し、次なるアンジェラも追い出した……というのが冒頭の状況だろう(果たしてジェームズとアンジェラなる人物が本当にいたかどうかわからない。アンソニーの思い込みかも知れない)。ここでもしもアンの前の恋人が「ポール」で、前の介護人が「ローラ」だったら、すぐに時間軸がどこかわかるようになってしまう。それを避けるために、わざと本編中に出てこない人物の名前を挙げているのだろう。アンソニーの混乱した記憶を追体験できるような作りになっている。

 さて、前半24分が過ぎて……おや? 背景が変わった? キッチンの風景が変わる。家具も細かく変わっている。窓際に置かれていたピアノも消失している。しかし暖炉上に飾られた絵画は残る。
 ここはどこだ……?
 すでにアンソニーは長年住んだ自宅を離れ、娘夫婦が暮らす部屋に移っていた。
 アンとポールの夫婦生活は10年に及び、それだけの期間が続いたのだからまあ安定していたはずだが、アンソニーがやって来たことで急速にギクシャクしはじめ、破綻してしまう。アンが父親アンソニーをかばうような態度をとったために、夫のポールが離れてしまう……これが中盤の大きなエピソードになっている。
 10年続いた夫婦生活を破綻させてしまったアンソニー。しかしその自覚がない。そんなアンソニーに、娘のアンは複雑な気持ちを抱く。もはや厄介者になってしまった父だが、血縁者であるから見捨てるわけにはいかない……という葛藤。それが、アンがアンソニーを殺そうとするあるシーンに結びついていく。

 このあたりのアン夫婦の場面だが、私が思うに、ひょっとすると数年前に記憶が遡っているんじゃないかな……と考えている。アンソニーは実はすでに老人ホームにいるが、娘夫婦の家で過ごしていた記憶を見ていて、そこを自分の家だと思い込んでいる。かなりややこしい状況だ。

 私は最初観た時、状況がわからず、ただ「怖い」と感じた。家にいつの間にか知らない男女がいて、「あなたの娘よ」「僕はあなたの娘の夫だ」という。誰かが罠を仕掛けようとしているのか、それとも記憶の混乱が起きているせいなのか、判別ができない。一体何が起きた……と思っていたら、いつの間にか背景が変わっている。何が起きたかわからない。それが映画が意図していること。認知症患者がどのように認識しているか、を再現した演出になっている。

 映画の撮り方だが、認知症患者の感覚をミステリー的にあるいはホラー的に演出されている。冒頭のシーンでも、カメラがどんでんしたタイミングで、すっと俳優が入れ替わっている。アンの姿を編集でさっと見せておいて、アンがいるはずの場所に行っても誰もいない……。こういう演出法はホラー映画的で、カメラ位置が反転した時に、すっとフレームの中に幽霊を忍ばせておく手法と同じだ。
(※どんでん 本来はアニメ用語。イマジナリーラインを越えて、カメラが反対側に移ること)
 冒頭のアンを名乗る謎の女が登場するシーンも、光を後ろから、あるいは下からゆるく当てて、影を深く、衝撃の表情を捉えている。背景には、弦楽器をひっかいたようなメロディが流れる。これで不安感が高まっていく。演出していないように見せて、しっかり演出して見せている。
 見ている側が混乱し、不安を感じる演出が細かいところに施されている。だから一瞬「怖い」と感じられてしまう。それがエンタメ映画として楽しめるように作っている部分だ。

 オチを話すと、アンソニーはすでに重度の認知症を患っていて、実はずっと老人ホームにいるのだけど、一人暮らししていた記憶や娘夫婦と暮らしていた記憶とが混濁して、混乱してしまっている。老人ホームスタッフを、自分の娘と思い込んだりしている。それを表現するために、エンタメとしてはミステリーの手法を使って表現している。
 だから認知症に対する関心のない人でも、この映画をミステリー的な物として観ることができるように作られている。いったいなんだ、なぜこんな奇妙な状況が起きているんだ……と考えさせ、最後に実は認知症患者だった、と事件が解明されたように見せている。こういうところにも隙のない脚本作りだ。

 映画には象徴的なアイテムとして、暖炉に飾られている絵画が出てくる。介護人のローラがやって来た時、「娘が描いたんだ」と自慢するが、しかしあの絵画は実は最初から存在していない。アンソニーがそこにあると思い込んでいるだけのもので、介護人のローラは「この人は何を言っているのだろう? わからないけど、話を合わせておこう」と思ったことだろう。
 後半、絵画が姿を消し、そこに「絵画が確かにそこにあったことを示す日焼け跡」だけが残る。ここがうまいところで、実はそんな日焼け痕、ないはずだ。しかし映画の表現として日焼け痕を作り、アンソニーが感じている混乱と不信を、観客も同じように感じられるように作っている。
 リアルに認知症患者の風景を客観的に作るなら、あの日焼け痕は設定矛盾だから作るべきではない。しかしこの作品は、アンソニーが「思い込み」で見ている風景も描写している。一方で、娘のアンが見ている《正常な》視点も描いている。映画は「実際の風景」とアンソニーが「思い込み」で見ている風景が常に混在して表現されている。さらに映画的に、「観客を混乱させてやろう」と意図的に時間軸や人物を編集でシャッフルさせている場面もある。おかげで、ふとすると複雑奇怪に見えてしまう。

 どうしてこんな映画を作ったのか。認知症患者の視点をミステリー的に表現すればエンタメ作品になる……という狙いはきっとあっただろう。それ以上に認知症患者を描いた意図とは。  映画監督フローリアン・ゼレールはインタビュー動画でこのように語っている。

「これは避けようのないプロセスなんです。つまり人は老いて衰えると子供に戻って親を求めるようになります。私にとってそれは受け入れがたいけど、美しくて力強い感情です」

 アンソニーは娘のアンを低く評価し、その妹を高く評価している。妹こそ自慢の娘だ。あの絵を見ろ、あれが我が娘の描いた絵だ……という台詞を何度も繰り返す。
 でも、その娘はとっくにこの世を去っている。アンソニーは娘が死んだことを忘れてしまっている。どこかに旅行へ行ったのだと思いこみ続けている。アンは死んだ妹の話を父親から聞く度に、悲しい顔を浮かべる。父親は娘が死んだことも忘れているし、父親の愛情は自分に向けられていない。アンソニーはそのことに気付きもしない。
 その状況がもたらす哀しみが、映画が表現したかったものだ。
 間もなく介護人のローラがやってくるのだが、そのローラが死んだ妹とそっくり。でもアンソニーは自分の娘とそっくりのローラも邪剣に扱い、最後には追い出してしまっている。娘とそっくりな女がいてもそこに気付かず、愛情も抱けない……これも哀しみの一つ。

 映画の途中、アンソニーは窓の外を眺める。フラットの外の通りでは、少年がビニール袋を蹴って遊んでいる。この少年の姿を見て、アンソニーは微笑む。
 自分にもかつてあった少年時代。しかしそれも間もなく喪われていく。その記憶も、そんな少年時代があったことすら。消えていく過去を思い浮かべて、哀愁を感じている場面である。
 その少年の側に店があるのだが、店の名前が「アヴァロン」。ご存じ『アーサー王伝説』に登場する「天国」のことだ。そんな死者の国を手前にして、遊んでいる少年……。実はアンソニーが自分自身を見ている光景でもある。
 映画はずっと「同じ場所」を舞台にしているのだが、後半に行くに従い、少しずつ家具の数が減っていく。もっと正確に言えば、「家具が片付けられようとしている」。壁に一杯飾られていた絵画が下ろされて、重ねられているし、椅子も重ねて玄関側に置かれている。引っ越しの光景だ。
 どうして家具が片付けられようとしているのかというと、そろそろ人生を畳む時期に入って、頭の中に詰め込んでいた記憶が木の葉が1枚1枚落ちていくように、消えていく段階に入っているからだ。
 映画の終盤、ようやく自分がいる場所が老人ホームだと気付いたアンソニーは、幼児退行を始めてしまう。あのアヴァロンの側にいる少年になってしまう。
 どんな大人も、最後には人生で積み上げてきた物……実績や記憶といったものはみんな喪う。住んでいた家も失い、家族も失い、たった一人になって、積み上げた記憶と経験を失ってしまうから少年に戻ってしまう。そうやって最後を迎える。そんな最後を、監督は「美しい瞬間」と思って描いている。まるで廃墟に感じる哀愁と憧憬のような感情……それを一人の人生に仮託して描写している。

 認知症は誰もがいつか抱える病だ。今のところ避けようのない病だ。だからこそ他人事ではない。私たちが向き合わなければならない現実を描いた作品だ。だが映画は認知症を否定的に描いていない。そうやって全てを失う瞬間すら、人生は美しい――映画はそう語っている。


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