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映画感想 座頭市 あばれ凧

 今回視聴作品は『座頭市 あばれ凧』。座頭市シリーズ7作目。
 資料によると、この頃の『座頭市』は初期の重さのあるドラマから解放され、明るいエンタメ路線で制作されていた。実際見てみると、相変わらずヤクザ同士の抗争が中心にあり、その抗争の中に座頭市が介入して解決されていく……という構成は変わらないが、ポンポンとアクション、お笑い、お色気が配される構成となっている。上映時間も82分と、『座頭市』初期シリーズと較べるとサクッと観れてサクッと楽しめて終われる尺になっている。
 私としては先日視聴した初代『座頭市』がドラマ性に重きを置いた作りだったから、本作『あばれ凧』の明るい空気には戸惑いもあったのだが、これも長く続いた『座頭市』シリーズの中にあった1ページだ。

 ではざっとあらすじを見てみよう。

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 座頭市は渡世人たちに狙われる身になっていた。それまでのシリーズで方々を巡り、ヤクザの親分達を殺して回ってきた座頭市は、その筋の人々から恐れられ、あるいは名を上げたい連中から狙われる身となっていた。
 清六も座頭市を狙う渡世人の一人だ。志を同じとする仲間達からひとり前に飛び出し、ついに火縄銃で座頭市を仕留める――。

座頭市7あばれ凧 (8)

 銃で撃たれた座頭市は、池に落ちてかろうじて生きのびていた。そこに通りがかった旅人が、座頭市の姿を見て不憫に思い、宿泊費と医療費を置いて去って行く。
 回復した座頭市は、自分を助けてくれた人が江戸からやってきた人で、「鰍沢」というところで花火を作っている……と聞き、お礼を言いたくて鰍沢を目指す旅をはじめる。
 一方の渡世人達は座頭市を仕留めそこねたことに気付く。百姓の話によれば、座頭市はすでに鰍沢を目指して旅立った後だという。清六は「鰍沢」と聞き、一瞬躊躇う。なぜならそこは、自分の古里だからだ。しかし座頭市を殺して名を上げたい清六は、古里に戻ることを決意する。
 旅を続ける座頭市は、その途上で道場破りの浪人に出くわす。何気なしに足を止めていたら、巻き込まれ、道場の中に引きずり込まれてしまう。浪人達は座頭市を囲み、竹刀で殴りかかろうとする。そんな浪人達を、座頭市は一瞬にして撃破してしまう。

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 その後も旅を続ける座頭市。鰍沢の川を越えて、自分を助けたという花火職人に会うが、「オメェさんを助けたのはお国さんだ」と言われて、次はお国のいる津向の文吉のもとを目指す。
 座頭市はようやく自分を助けたというお国に会い、お礼を告げ、その感謝にとしばらく逗留し、その家の家事手伝いをするようになる。

 ここまでのエピソードがだいたい20分。映画前半のストーリーだ。
 冒頭、霧の只中座頭市を狙う渡世人達の描写でミステリアスな空気を作り、その後は明るいシーンが続く。
 旅の途中で飴売りと子供達のエピソードでさらっと笑いを取り、その次には浪人達と遭遇してアクションを披露する。この頃の『座頭市』はエンタメ重視の作りだから、見せ場がポンポンと入ってくる。

座頭市7あばれ凧 (12)

 道場破りと戦うことになるシーンでは、やはりワンショットの長回し。カット割りをせず、わずか数秒で取り囲んだ4人の悪漢を返り討ちにしてしまう。時間にして6~7秒という間に4人の攻撃をかわして打ち込むわけだから、やはりとんでもなく動くが早い。もちろん、勝新太郎は目を閉じたまま。座頭市を演じ続けていくうちに、居合いの練度が上がり続けていることわかる。

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 その後も、文吉親分の元へ逗留することになるわけだが、この展開もコミカルに描かれる。食事シーンで、勝新太郎はこれみよがしな変顔を披露する。冒頭で緊張感を持たせ、その次の20分はひたすら「笑える場面」ばかりで構成されている。エンタメ重視らしい作りだ。

 では続き。

 文吉親分は川向こうを拠点にする竹居の安五郎の元へ、話し合いへ行く。安五郎は極度のどもりで、“吃安”と呼ばれていた。安五郎は、文吉がタダで花火を上げようというのが気に食わない。さらに河原の渡りの料金が安いことも気に入らない。安五郎は花火の打ち上げをやめさせて、渡りの権利も寄こせと詰め寄ってくる。もし渡さないっていうんだったら……とお代官の名前をちらつかせる。安五郎の妹が代官の妾ということもあって、顔が利くのだ。
 結局話は平行線のまま、なにも解決もできず、文吉は帰ることに。
 津向へ戻ってきた文吉の子分達が、安五郎の傲慢さについて話し合っているのを聞いた座頭市は、こっそりと安五郎の元へ訪ねに行く。
 あんまのフリをして安五郎の屋敷に潜り込んだ座頭市は、そこで安五郎はどうにかして文吉を罠にかけて、追い出そうと計画を巡らせていることを知る。
 一方その頃、渡世人をやっていた清六が実家に帰宅する。清六は親の金を借りては酒を踏み倒し、あげくお尋ね者になりかけて古里を出奔する……という過去があった。それでもどうにか文吉の情けをもらい、実家に居座ることができた。
 そのまた一方の安五郎は、文吉を追い出す計画を練りながら、河原を歩いていた。そこに、腕の立ちそうな浪人がいるのを見付ける。道場破りをしようとして座頭市に返り討ちに遭った浪人達だった。安五郎は何かの手駒に使えるかも知れない、と浪人達を雇うのだった。

 見ていて驚くのは、現代では表現できない人種を当たり前のものとして描いていること。主人公座頭市は“めくら”だし、花火職人の久兵衛は仕事で耳が遠くなり“つんぼ”になっていた。敵役として登場してくる安五郎は“どもり”で、“吃安”なんてあだ名が公式で付いている。どの言葉も、一太郎で変換を押しても漢字が出てこない。今の社会で封印された言葉が出てくる。
 マンガ・アニメの世界では、“めくら”や“つんぼ”といった言葉はずいぶん前に封印されてしまっている。漫画では新版になった段階で台詞が差し替えられているし、アニメはその台詞のあるエピソードは場合によってはまるごと削除されて、「DVD完全版」にも収録されていない。『座頭市 あばれ凧』は現代ではテレビ放送は絶対にできないことになっている。
 現代はダイバーシティとか言われているが、実態がこれだ。描かない。なかったことにする。差別を受けていた人々を表世界から消して、健常者しかいない世界を作ったうえで、多様性がどうのこうのとか言い始めている。私がダイバーシティという言葉を薄っぺらく感じるのは、こういうところにある。「多様性を受け入れよう」といいながら、実際には排除してるじゃないか……と。何が「差別のない社会」だ。
 しかし『座頭市』の世界では、現代では隠された人々を堂々と描いている。第1作目から、台詞として「めくらとかかたわとか……」と出てくる。どちらも現代では削除された言葉だ。7作目の『座頭市』は表面的には明るいエンタメを装っているが、作り手側の挑発的な意図が見えてくる。
 現代社会では差別だから描かない……ではない。それにそもそも『座頭市』は舞台が“はぐれ者”が集まるヤクザ達の社会だ。主人公である座頭市だってあちこちで人を殺しまくっている凶状持ちだし、それを付け狙おうとする渡世人たちだって堅気であるわけがない。はぐれ者達の社会を描くわけだから、その当時のエンタメからも描かれなくなったはぐれ者を中心に描き、はぐれ者達の業を描き、それを明るいエンタメとしてまとめ上げている。

 ところで、「津向の文吉」と「竹居の安五郎」もどちらも実在人物らしい……。Wikipediaで映画のあらすじを調べると、関連項目として、それぞれの人物について掘り下げられている。
 「津向の文吉」は1810~1883年に実在した博徒で、現在の山梨県で活動をしていた。「竹居の安五郎」は1811~1862?。本当にどもりで、「吃安」というあだ名が付いていた。こちらも山梨を拠点にする博徒だったという。
 実際の二人は面識があったかわからないし、映画で描かれたようなできごとがあったわけではないようだ。とにかくも実際の人物からヒントを得て、脚本が練られていたようである。

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 後半にかけては、座頭市が凶状持ちであることが知られて、文吉の所を追い出されてしまう。命を救ってくれた感謝だと思って、立ち回っていたのに、結局はすべてを失ってしまう。はぐれ者が真っ当な社会にいることすらできない哀しみがそこに描かれ、その次に、はぐれ者にしかできない制裁が繰り広げられる。座頭市はもともと背負っているものがないし、最終的に背負っているものを失ってしまうから、アウト・ローとして制裁を振るうことができてしまう。
 クライマックスはたった一人で50人か60人といった相手をまるごと虐殺してしまう。その戦闘シーン、廊下を点々と照らしていたロウソクを次々と斬っていく座頭市。廊下が闇に落ちて、めあかもめくらもみんな目の見えない世界へと転落していく。業を背負うことの恐ろしさを、映像で表現されている。前半の明るいエンタメの気配はない、ひたすらな暴力が画面を覆っていく。

 エンタメ路線の『座頭市』だったが、でも実際見てみると、エンタメ側に傾きすぎていて、映画全体に緊張感が弱く感じられた。あめ売りと子供達のエピソードも、全体のプロットとして特に必要ではないのに関わらず、エンタメだから編集に入っている。エンタメだから、という割り切りで作られているのはわかるけども、1本の作品としての緊張感が弱いのは、少し引っ掛かるところ。
 アクションの描き方は気になるところもあって、例えば渡世人に囲まれたとき、水中戦に入るのだが、あの描き方はさすがに無理矢理に感じられる。何か工夫をしようとした結果、ああいった描写になったのだと思うが、描写がうまくいっているように見えない。

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 クライマックスの斬り合いにしても、ちょっとご都合主義っぽく描かれすぎている。いくら座頭市が無敵の存在とはいえ、強く描き過ぎちゃった感がして、そこに現実感がない。
 そして最後に殺戮が描かれた後は、いきなり映画が終わる。なんの余韻もなしに。見ていると「あれ?」という感じになる。当時の映画の作りがそうなのかもしれないけど、さすがに突然すぎる終わり方に感じてしまう。

 ドラマとしての重さを出そうとすると重くなりすぎるし、エンタメ路線にすると軽くなり過ぎる。映画は難しい。


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