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映画感想 犬神家の一族(1976)

 今回視聴映画は1976年の市川崑監督作品『犬神家の一族』。当時の大ヒット映画『金田一耕助シリーズ』第1作である。
 まず、映画が制作されるに至った経緯について話をしよう。
 1971年、角川書店の角川春樹は、文庫部門を強化するために内部改革を実施する。そこで目を付けたのが、他出版社が手を付けていなかった「ミステリ」。さらに当時はさほど注目されていなかった作家・横溝正史をその中心に据えて広告展開していこうと考えた。
 今でこそ、本屋へ行けばミステリ小説は山ほどあるし、「ミステリといえば横溝正史」と代表格人物として挙げられるが、1970年初頭まではそうでもなく、この時の宣伝戦略によって定まったものだった。
 1976年は横溝正史が74歳の頃だから、遅咲きの作家だった。普通74歳にもなれば「晩年期」にあたるが、ここから旺盛な創作意欲が芽生え、作品全体像を見るとこの辺りでもまだ「中期の作家」と評されるほどになる。

 角川書店はさらに、大規模宣伝戦略として映画制作に着手する。まずは松竹と組んで『八つ墓村』の製作をはじめるものの、ところが角川書店と松竹が利益配分の問題で揉めてこの話は流れてしまう。
 そこで角川書店は独自に映画製作することを決定する。これが1970年から1980年代にまでかけて展開する「角川映画」の始まりである。
 1970年代は日本映画界も市川崑監督もどん底まで落ちていた頃だった。映画がまったく売れず、映画会社は映画制作部門を切り離し、配給だけを行うようになっていた。市川崑は『東京オリンピック』による大バッシングで、映画の世界から遠ざかっていた。
 そんな市川崑監督を起用したのは角川春樹による意向だったが、これが見事にはまり、『犬神家の一族』は大ヒットを記録する。巨匠・市川崑が映画の世界に改めて存在を示した作品となった。配給収入15億5900万円稼ぎ、第50回キネマ旬報ベスト・テンでは5位、第1回報知映画賞作品賞を受賞するなど、様々な評価を受けることになる。これによって「角川映画」は幸先の良いスタートを切ることになり、市川崑は映画の世界に復活していくことになる。

 では、前半30分のあらすじを見ていこう。

犬神家の一族 1976 (18)

 昭和22年2月犬神佐兵衛が死亡する。
 明治19年犬神製薬工場を設立し、間もなく事業を拡大。犬神佐兵衛は資産家となり、政界にも進出。その犬神佐兵衛が家族に見守られながらこの世を去った。
 犬神佐兵衛が死去すると、遺族達は「遺言は!」と詰め寄る。遺言はすでに弁護士に託されていたが、ここでは公開できないという……。

犬神家の一族 1976 (20)

 同年7月の夏。金田一耕助が那須湖畔をたずねる。金田一は犬神家の顧問弁護士・古館恭三の法律事務所に勤める若林富一郎から、「近く犬神家の一族に容易ならぬ事態が勃発するのではないか」という知らせを受け、やってきたのだった。
 金田一耕助は那須ホテルという名前の古びた旅館に逗留する。那須湖畔の美しい風景が見える宿で、その湖の向こうに森に「犬神御殿」と呼ばれる壮麗な建築を眺めることができた。

犬神家の一族 1976 (26)

 旅館の部屋から湖を見ていると、ボートに乗っている野々宮珠世の姿が見えた。犬神家に身を寄せる娘である。その姿を双眼鏡で眺めていると、突如ボートが沈みはじめる。金田一耕助は裸足で駆けつけ、その危機を救い出す。
 旅館に戻ると、若林が訪ねてきているという。部屋へ行ってみるが若林の姿はない。
 そこに悲鳴。駆けつけると、若林はすでに死んでいた。
 金田一耕助は若林の雇い主である古館恭三に会い、若林の死は犬神佐兵衛が書いた遺言書が関係している可能性があるかも知れない……と語るのを聞く。不安を感じた古館は、若林に代わって遺言書公開の場に同席することをお願いする。

犬神家の一族 1976 (36)

 犬神佐兵衛の遺言は、犬神家の血族9人が全員揃ったときに公開されることになっていた。しかし、戦争へ行った佐清が戻らず、遺言書公開は先送りになっていた。佐清の生死は長らく不明だったが、半月ほど前、突如博多に復員したという知らせがあった。それで母親の松子が迎えに行ったのだが、その後なかなか松子は帰宅せず、時間ばかりが流れていった。
 犬神佐兵衛は結婚せず、3人の別の女と関係を持ち、3人の娘を産ませていた。松子、竹子、梅子の3人である。この3人の息子が、佐智、佐武、佐清の3人であった。これに夫を加えて、犬神家一族の9人ということになる。さらに遺言状公開には、野々宮珠世が同席することになっていた。

犬神家の一族 1976 (42)

 いよいよ佐清が犬神家へ帰ってくる。佐清は戦争で顔面を負傷し、マスク姿での出席だった。果たしてこのマスクの男が本当に佐清かどうかわからないが、しかしとりあえず犬神家の一族9人と野々宮珠世が揃ったところで、遺言状が公開される……。

犬神家の一族 1976 (44)

 ひとつ。犬神家の全財産並びに全事業の相続権を意味する犬神家の三種の家宝。斧・菊・琴は、次の条件の下に、野々宮珠世に譲られるものとす。
 ひとつ。ただし野々宮珠世はその配偶者を犬神佐兵衛の3人の孫、佐智、佐武、佐清のうちより選ぶこと。その選択は珠世の自由なるも、もし珠世が3人のうちの何人とも結婚することを承知せず、他に配偶者を選ぶ場合は、珠世は相続権を失うものとす。
 ひとつ、3人が3人とも珠世の結婚を希望せざる場合、あるいは死亡せる場合は、3人は相続権に関するあらゆる権利を失い、珠世は何人と結婚するも自由とす。
 ひとつ、もし珠世が相続権を失うか死亡する場合、佐清佐武佐智の順で犬神家の事業を継承し、全財産は5等分され、その5分の1ずつ佐清佐武佐智に与え、残りの5分の2を青沼菊野の一子、青沼静馬に与えるものとす。
 ひとつ、珠世、佐清、佐武、佐智の4人が死亡せし場合は、犬神家の全事業全財産を青沼静馬が相続することとす。
 ひとつ。行方不明の青沼静馬の消息をつかみ得ず、あるいは静馬の死亡が確認され、他の相続者も死亡したる時は犬神家の全財産並びに全事業は犬神奉公会に全納することとす。

犬神家の一族 1976 (25)

 遺言状が解禁されるまでのお話が、前半30分きっかり。
 まず非常に登場人物が多いので、余計な登場人物を刈り込んで、ざっくりまとめよう。

犬神竹子 ―(子)佐武
犬神松子 ―(子)佐清
犬神梅子 ―(子)佐智

 松子は未亡人で、竹子梅子にはそれぞれ夫がいて、さらに佐武には兄弟がいる。が、この辺りはさほど重要ではないし、最初の視聴の時には忘れてもらってもいい。とりあえず、竹子松子梅子と、その3人の息子の名前だけ覚えていればわかりやすいはずだ。

 さらに重要な人物が二人。野々宮珠世と青沼静馬だ。
 野々村珠世はかつて犬神佐兵衛がお世話になった野々宮大弐の孫である。
 それから犬神佐兵衛が50を過ぎた頃、とある女工に惚れて関係をもって子供を作ることになる。これが青沼静馬だ。
 二人の存在は後々重要になっていくから、覚えておくといいだろう。
 初見の時は登場人物の多さにかなり苦労するが、竹子ー佐武/松子ー佐清/梅子ー佐智とセットで覚えていて、これに野々宮珠世と青沼静馬の二人を頭に入れておけば問題ないはずだ。後は「その他大勢」と思っていても問題ないように作られている。

 ところで犬神佐兵衛の資産についてだが、もしも野々村珠世が死去した場合、資産は5等分される。5等分した場合の金額が一人5億4~5000万円と語られている。昭和22年の5億だから大変な額だ。単純にかけ算すると、27億5000万円程度の資産を持っていると推測できる。
 しかし強欲な犬神家の子孫は、分割して5億円なんて金額に納得せず、全額27億円がほしくて、それぞれで珠世にアプローチをかけていく。

 ここまでのお話でポイントになるのが、犬神家一族達の強欲さ。分散しても5億円も得られるわけだが、そんな金額では犬神家の人々は納得しない。全員平等に分割して5億円なら納得したかも知れないが、わざわざ不公平が出るように仕掛けを作っている。犬神佐兵衛はそのことを充分承知の上で、犬神家の一族にわざわざ諍いが起きるように、差し向けるような遺言状を残した。
 これが犬神佐兵衛が自分たち一族に向けた制裁、あるいは犬神一族全体に与えた「呪い」として機能する。この後、犬神家に次々と惨劇が起きるのだが、そのすべてがあたかも犬神佐兵衛が背中を押して、その結果起きた……と感じられるように作ってある。ここが巧みなところだし、ある種のこの作品における露悪的なポイントだ。

犬神家の一族 1976 (17)

↑ひとりだけグラスを掲げている男がいるのがわかるだろうか。市川崑監督だ。

 前半30分で登場人物がそろい、問題の遺言所が公開されて騒動が始まる。その手前にすでに法律事務所の若林が死亡しており、物語に不穏な様子が漂いはじめる。非常に良くできた導入部である。

 しかし難しいのはここからだ。というのも、まず「本格ミステリは映画に向いていない」からだ。これは私の個人的な感慨ではなく、多くの映画評論家が同じように語っている。なぜなら本格ミステリは映画的な情緒や感動を生み出さないからだ。
 『犬神家の一族』以前にも以後にも映画の本格ミステリはたくさん作られているが、それらの作品は『犬神家の一族』と何が違うのか。
 例えば『砂の器』という作品を見ると、ミステリは物語の中心に置いていない。脚本家・橋本忍もこの作品のストーリーをミステリには置かず、「親子の物語」をドラマの主軸に置いて、そこに感動できるように作られている。最近の映画を見ても『相棒』や『踊る大捜査線』であっても、トリックの解明や犯人捜しをドラマの中心に置いていない。どちらも映画的な派手さや展開を主軸としていて、ミステリとしては作られていない。ヒッチコックですら「私はこの手の犯人捜しは決して撮らないことにしている。なにしろ最後の謎解きの結末で犯人がわかるところしか興味がないからだ」と語る。例えば『サイコ』はラストシーンにこそサプライズはあるが、基本的には「謎の殺人鬼がどこから襲ってくるかわからない」という緊張感を映画の主軸にしている。『サイコ』におけるミステリの要素は、あくまでもスパイス程度のものでしかない。

 これはどうしてなのか? どうして誰もが本格ミステリ映画を作ることを避けるのか。
 それはミステリをそのまま映画にしても、つまらないからだ。

 小説であると、探偵が思考し、語るまでの文章自体がエンタメとして成立する。でも映画で同じことをすると、映画の画的に退屈なものになってしまう。探偵が考えたり語ったりしている間はえんえん場面展開もなければ、長々と台詞を聞かされるだけになってしまうからだ。小説であれば、探偵の長い語りでも物語は成立する。でも映画でやると退屈だし、映画的な画にもならない。
 また映画は不可逆なメディアでもある。映画館で映画を観ている場合、何か引っ掛かるところがあっても止めることも戻すことができない。すると観ている間、ずっと引っ掛かり続けることになる。これがミステリ映画を見ていてモヤモヤする原因だ。ミステリは複雑であれば複雑であるほど、面白くなるジャンルであるが、映画で複雑な内容にするとどんどんモヤモヤ感ばかりが大きくなってしまう。

 テレビドラマではミステリはかろうじて成立し得る。なぜならテレビドラマはそもそも視聴者が「ながら視聴」をしていることを前提にしているメディアだから、そこまで画にこだわる必要がない。探偵がえんえん語っているだけの場面があっても、特に気にならない。説明的な画がただ並べているだけでも成立する。
 ではミステリともっとも相性のいいメディアはなんなのかというとデジタルゲームだ。デジタルゲームは小説のように紙枚数、映像メディアみたいな時間に縛られずテキストを突っ込むことができて、しかもトリックや真犯人をプレイヤー自身で解かなくてはならない。ミステリはそもそも書き手と読み手の間に生まれる頭脳対決がメインテーマであるのだから、ミステリが本来あるべき姿はゲームであるはずなのだ。
 だからミステリが相応しいジャンルはゲームで、そこから小説、漫画、テレビドラマ、映画という順番ができあがる。ミステリに最も不向きなメディアが「映画」なのだ。

犬神家の一族 1976 (30)

 ではこの難題に対して、市川崑監督はいかに向き合ったのか。どうやって『犬神家の一族』は本格ミステリ映画として成立し得たのか。
 まず作品にリズムを作ること。全体のトーンが均質で語り口調に波がないと、見ている側の気持ちがだれてしまう。だから場面が転換していくごとに「笑えるシーン」を、コメディリリーフを投入する。それが警察署長の橘と、ホテルの女中・はるだ。二人のシーンが時々差し挟まれ、少しとぼけた味わいを出していく。ついでに、主人公金田一もかなりとぼけたキャラクターで、作品の風合いを柔らかくしている。
 例えばあるシーンで、襖が突然倒れ、その向こうの闇からおじさんが現れて「キャー!」と悲鳴を上げる。次に、柏屋のシーンで自分の女房の顔を見た男が「ギャー!」と叫ぶ。ホラー的演出かと思いきや、実はギャグシーンだ。さらに三段オチが来るかと思ったが、次に出てくるのが本物の死体で、「ギャー」と絶叫が出てくる。トーンの重い映画だからこそ、笑い・笑い・惨劇のリズムを作って映画にリズムを作っている。
 毒物の説明をするシーンでは、ホテルの女中・はるにうどんを奢り、「さあさあ食べなさい」と言いながら、次々と質問して食事を中断させる。コミカルなシーンを作りながら、「ただの説明だけのシーン」に陥ることを回避している。

 ではそろそろ、続く30分のストーリーを紹介しよう。

犬神家の一族 1976 (43)

 遺言状が公開されて、犬神家の人々の騒動が巻き起こる。遺言状に直接関わっているのは野々村珠世と、佐智・佐武・佐清の4人だけ。その事実に、犬神家の人々は憤慨したり、すぐに奸計を巡らしたりと反応は様々だった。
 問題なのはあの仮面の男が本当に佐清なのか。そういえば戦地に行く前に、神社に武運長久を祈って手形を残していたはず。それを手がかりに指紋の比較をすれば、あの佐清が本人かどうかわかるはず。しかし、仮面の佐清は手形を押すことを拒否する。
 一方の野々村珠世も疑っていて、壊れた懐中時計を佐清に差し出す。これを修理できるのは佐清だけ、あなたなら修理できますよね……と差し出すが仮面の佐清は修理することも拒否する。

犬神家の一族 1976 (53)

 そんな最中、惨劇が起きる。佐武が殺されたのだ。佐武は首を切り落とされ、菊畑の像とすり替えられていた。死体は湖の中に放り捨てられ、後に死体を運ぶために使われたと思われるボートも発見される。
 殺害現場と思われる展望台には、野々村珠世のブローチが残されていた。野々村珠世と猿蔵の二人に容疑がかけられる。

犬神家の一族 1976 (54)

 一方その頃、那須のうらぶれた宿に、顔を隠した復員兵が姿を現す。復員兵は宿帳に名前すら書こうせず、宿の主人は不審に思うのだった。
 事件の翌日、佐清は改めて一同が見ている前で手形を押す。手形は鑑定に回され、結果、仮面の男は佐清であると断定された。

犬神家の一族 1976 (62)

 以上が前半1時間となる。

 『犬神家の一族』を見ていると、時々画を静止コマとして見せている瞬間がある。前半、沈みかけたボートから珠世を救い出すシーンと、女中はるに「一緒について行きます」と言われて追いかけられるシーン。
 こうした、実際には動画であるところを静止コマで見せる演出というのは、ヒッチコックの『鳥』という作品ですでに前例がある。こうした見せ方にどんな効果があるのか。
 それはそのある瞬間の動き、形を強調できる、ということにある。ヒッチコックの『鳥』の場合だと、その場にいた全員が「あっ!」と衝撃を受けている表情、さらに続いて全員が視線を追いかけていく動きを明確に示すことができる。
 このブログでは頻繁に「抽象度」の話をしていて、実写作品というのは抽象度が低い、アニメ作品は抽象度が高いと表現している。抽象度が低い実写作品の弱点は、画面の中にありとあらゆるものが映り込むことである。だから画面の中に変なものが映り込んでいても、見る側はたいして気にならない。実写だからそういうもんだ、と思ってスルーする。画面全体の抽象度が均一であるから、色んなものが映り込んでいても、いや映り込みすぎているからこそスルーしてしまう。一方のアニメは抽象度が低いからこそ、「いまここに注目して欲しい」というところを強調するといったコントロールが可能になる。

 どうして実写で作ればいいような作品もアニメにするのか、というと、実写にすると人はあらゆるものをスルーしてしまうからだ。人がどんな表情をしてどんな動作をするのか……。そういったものに意識が向けられなくなる。実写人物と同じ動きをアニメにした途端、「ああ、この人はこういう動きをしていたのか」とハッと気付く。「絵に起こす」ということには、そういう意義がある。「人は森の風景に興味はないが、絵として書き起こされた森には関心を持つ」というわけだ。うまいアニメーターになると、実写トレースしたロトスコープのアニメーションでも、見せたい動きの瞬間やポーズを強調して、元のアクションよりも魅力的に描いてしまう。そういうことができるのがアニメの効果だ。
 で、『犬神家の一族』にはたびたび静止コマをみせるシーンがあるが、あれは抽象度を上げる効果を持っている。例えば女中に「付いてきます」と言われて、金田一耕助が2回振り向く動きをする。実写でやると、2回振り向くという動きは、見る側は意識しない。見ているけど認識しない。でも、静止コマにしてパッパッと見せると、その瞬間が際立ち、その動きをコミカルに見せることができる。普通に動画で編集するよりも、「笑える動き」になる。

犬神家の一族 1976 (67)

 こうしたコマの操作を、『犬神家の一族』は随所に入れ込んでいる。例えば後半、金田一と竹子が議論するシーン、こちらのシーンは動画だが、カットが信じられないような動きでパッパッと切り替わる。動画にして、おそらく数フレームほどの動きだけを切って繋いでいる。これでその場面で起きている言い合い以上に激しさを見る側は感じるようになる。また「ただの対話シーン」という退屈さを緩和する効果も充分にある。
 その一方で、演技をゆったりする見せる時には、カットも長くなっていく。その時々の喋り方やシーンのリズムで、カットの速度が極端に速くなったりゆっくりになったりする。そのカットの速度に見る側の意識が引っ張られるように作られている。
 このように、全編にわたって、カットの速度を意識的にコントロールしているのが、『犬神家の一族』の特徴といえよう。

犬神家の一族 1976 (55)

 その昔、とある「本格ミステリ映画」を見たのだが、その作品では前半1時間が「事件編」で、後半1時間が「解明編」という構成だった。ということは、物語が動くのは前半1時間だけであって、後半1時間は延々探偵が喋り、点々と探偵が喋ったことを裏付ける映像が挿入される……というだけの内容になってしまっていた。
 ミステリ小説を素直に映画化するとそうなる。ミステリ小説は解明編に入るとえんえん探偵が喋っているだけになるから、それを素直に映画にすると、こういう構成になる。映画を小説に書かれている通りの構成にすると、とにかくもつまらない。延々話を聞いているだけだし、映画的に冴えない画ばかりになってしまう。

 こういった構成は、小説とゲームではうまく成立する。小説では自分でページをめくる、ゲームではメッセージを次に進ませる、それだけでも読み手の能動的な意思が介在し、物語を読んでいるという実感を生み出すことができる。しかし映像作品だと同じ感慨を生むことはできない。ミステリ小説を素直に映画にしてしまうと、こういう問題が起きてしまう。ゲームでは同じ場面の絵が数分どころか数十分続いていても問題ないが、映画ではほんの数分でも退屈に感じてしまう。映像メディアゆえの宿命だ。
 『犬神家の一族』はこうした問題が起きないよう、最後にまとめて探偵が解説するのではなく、色んな所に分担させて解説させている。これで「ミステリ小説の映画化」の退屈さをだいぶ緩和させている。
 具体的に構成を見ていこう。ネタバレ防止のため、途中から犠牲者の名前は「??」と表記する。

12分 若林死亡
   |32分
44分 佐武死亡
   |39分
1時間23分 ??死亡
   |22分
1時間45分 ??死亡
   |25分
2時間10分 解明
   |10分
2時間20分 エンディング (2時間26分映画終了)

 以上のような構成になっている。最初の若林死亡から佐武死亡まで時間があるのは、間に犬神佐兵衛による遺言状を読み上げている場面が入るからだ。佐武死亡後、第3の死者までがもっとも長い。若林死亡から佐武死亡まではある種の「設定説明」のために32分の長い尺が必要となったのだが、その次の殺人までがそれぞれの人物の具体的な描写、行動が掘り下げられるパートに入っていくので、長くなっていく。シンプルに話すと、エピソードが多い。

 一方、それ以降は間が22分、25分と短くなっていく。後半に向けてこそ、視聴者が退屈しないよう、畳みかけるように死人を描写していることがわかる。全体を通して見ると、殺人が起きるまで時間間隔は概ね一定で、各パートが極端に長くなり過ぎたり、短くなり過ぎたりもしていない。物語の節目節目で必ず殺人が起き、死体映像を挿入することで次の幕が上がった……ということがわかるように作られている。かなり合理的に構成が練られていることがわかる。
 こうした全体像を時間で見てみるとわかるが、『犬神家の一族』の構成は、いわゆる『13日の金曜日』のようなスラッシャー映画的な構成に近い。シチュエーションとしては、犬神家の中にどうやら殺人鬼が混じっているらしく、その殺人鬼が次々と犯行を重ねていく……そういうお話と読み取ってもよい。『犬神家の一族』の表面的に乗っているフレーバーは、スラッシャー映画的な「誰が殺人鬼に殺されてしまうんだろう」というようなドキドキ感のほうであって、そういったフレーバーを上に載せつつ、ミステリを展開させているということがわかってくる。
 そして探偵による解明は最後にひとまとめにして一気に語るのではなく、物語の途中途中で少しずつ語る。その内容は当事者には伝わらないが、映画を観ている人にはきちんと伝わればそれで良い。というか、すべての情報を当事者に向かってきちんと説明する必要はないのだ。例えば若林殺害の方法などは、当事者が知らず、視聴者が理解していれば充分。そうした割り切りで、様々なパートで探偵による解説を分散させて、少しずつ事件の全容が見えてくるという構成で作られている。
 すると最終的に探偵が当事者全員を集めて事件全容解説のパートがわずか10分にまとまるというわけだ。

 ただ、逆に言うと、映画で可能なミステリの密度はこの辺りが限界かな……という気がする。ミステリは複雑であればより面白くなる。小説ならページ数を増やせばいいし、ゲームならテキスト量を増やせばいい。しかし映画の場合、より複雑にしようとするとただただ尺が伸びていく。映画は尺の長さに縛られるメディアだから、これ以上に間延びしてしまうようだと、細かな要素は刈り込んでしまったほうが良いだろう。映画的は25~30分の間に事件を起こしてフェーズが変わったように見せないと退屈になってしまうから、犠牲者の数も容疑者の数も『犬神家の一族』がギリギリ限界かな……という気がする。
 上に書いたように、ミステリ小説の構成を素直に映画にすると、つまらなくなってしまう。ひたすら探偵の語りだけになり、物語に動きがなくなる。小説で通用する作法は、映画では通用しないのだ。
 市川崑監督は本格ミステリを映画化するに当たり、はじめからそのことを理解していて、小説の内容を一旦解体して、探偵の語りをあらゆるシーンに散らして語らせる、という構成を練った。もちろんその語り方も、少しコミカルに描いて、興味を持続させていく。そのおかげで、最終的に犯人と対話してでの語りがわずか10分で終わっている。これで映画的な物語や画が停滞しないし、それでいて本格ミステリを映画にするという挑戦に成功している。

犬神家の一族 1976 (70)

 こうして『犬神家の一族』はヒッチコックでもやらなかった、「本格ミステリを映画にする」という試みを映画史的にもはじめて成功させた映画となり、その後の映画の指針にもなるような作品となった。ある種のマスターキー的な作品である。だから『犬神家の一族』は時代を経ても、名作と呼ばれる1本になったのだ。


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