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映画感想 犬鳴村

 2020年もっとも話題になったホラー映画といえば『犬鳴村』。福岡県に実在する旧犬鳴トンネルにまつわる都市伝説をモチーフにした作品だ。監督は『呪怨』シリーズで知られるJホラーのトップランナー・清水崇。

 冒頭のストーリーを見てみよう。

 YouTuberの西田明菜は恋人の森田悠真と共に、地元に伝わる「旧犬鳴トンネル」の調査をしていた。
 都市伝説で伝えられている通りのあるプロセスを経ると、存在するはずのない「犬鳴村」に行けるという……。
 まず赤い橋の側にある電話ボックスの前で、夜中の2時(丑三つ時)を待つ。すると電話が鳴る。受話器を取ると、誰も出ないが遠くの方で泡が噴くような音が聞こえる。西田明菜は「今からそちらに向かいます!」とメッセージを残して受話器を置いた。
 続いて旧犬鳴トンネルへ行き、くぐり抜けると、寂れた廃村に行き着くことができる。そこが本来存在するはずのない村「犬鳴村」であった。
 村には人陰はなく、古い木造建築は鬱蒼と茂る森に飲み込まれそうになっている。廃村になってもうかなりの年月が過ぎている。伝説の「犬鳴村」に辿り着いたが、特に何もなさそうだった……。
 が、何かがいる。真っ暗闇に気配がゆらりと現れる。
 人だ……人がいる。今風の人じゃない。みんな和装だ。時に取り残されたような格好をしている。
 西田明菜と森田悠真の2人は慌てて廃村から逃亡するのだった。

 しかし戻ってきた西田明菜は完全に正気を失ってしまった。訳のわからない言葉を呟き、不気味な絵を描くようになる。さらに道を徘徊した末に、飛び降り自殺をするのだった……。

 冒頭の犬鳴村を発見し、逃亡するまでのエピソードが7分くらい。
 続いて西田明菜が自殺するまで12分。
 西田明菜の葬式があって、森田悠真が仲間と共に再び犬鳴村を目指す展開までが25分くらい。この辺りが前半のあらすじとなる。

 モチーフを一つ一つ見てみよう。
 まず赤い橋。「橋」は昔から現世と異界を繋ぐ境界とされている。橋は土地や領域を仕切るものとして使われてきた。特にアーチ状の橋は、神界や霊界と繋がる橋とされていて、神社建築の中でも普通の人が立ち入れない奥の拝殿のところに使われていたりする。『犬鳴村』の橋はそういった橋ではないが、“アーチ”の形をしたアーチリブ橋だ。おそらく、撮影現場近くにあったのだろう。
 しかも赤。赤は鳥居でも使われる色で、やはり境界を仕切るゲートに使われる色だ。こういったホラーものでいえば、赤はそれだけで不吉さの予兆になる。
 その橋の手前に置かれた電話ボックス。たぶん電話ボックスは映画の小道具なのだろう。電話は「認知外」……つまり認識の外の世界と繋がるアイテムである。人は昔から認知外の向こうにあるものに不安を覚え、そこに空想を当てはめたりしていた。あの峠の向こう、あの森の向こう、あの海の向こう……。その向こうに何があるかわからない……というとき、人はそこに「霊界」などを当てはめて考えていた。それが近代に入れば電話の向こうの世界、最近ではネットの向こうの世界と、人は不安に感じる対象を変えてきた。電話は今でも「霊界と繋がる電話」みたいな怪談話が作られている(私の子供の頃も霊界電話が流行った……)。
 映画では周囲が森という環境の中で、不自然にぽつんと置かれた電話ボックス……そこに夜中の2時になると突然なり始める……と、なかなかいい感じの雰囲気が作られている。橋という「異界との境界」を示すモチーフの前に、さらに異界と繋がる伝説が密かに伝えられる電話。そこに、絶対鳴るはずのない電話が鳴る。なかなかいい導入部だ。
 その次に出てくるのが、旧犬鳴トンネル。トンネルも昔から異界との境界として使われていたモチーフだ。『千と千尋の神隠し』もトンネルの向こうの物語だ。そのトンネルに、ある時間にある条件を満たして通過しようとすると、別世界に繋がってしまう……。
 『千と千尋の神隠し』との対比で言うと、『千と千尋の神隠し』の場合はトンネルを抜けると異世界になっていて、赤い橋の向こうに湯屋がある。『犬鳴村』とモチーフの登場順序が逆になっている。違う作品で似通ったモチーフが登場するのは、それが物語にとってお馴染みのモチーフであるからだ。こうしたモチーフは、これからも色んな作品の中に繰り返し登場してくることだろう。
 この冒頭のシーンはなかなか雰囲気がいい。現代まで続く様々な「不吉」なモチーフを組み合わせて、不気味に感じられる印象を作っている。冒頭シーンの展開にはゾクゾクさせられる。

 ここからネタバレ込みで話をしよう。

 しかし問題なのはこの「犬鳴村」の設定だ。
 犬鳴村の亡霊達を見ると、封建時代の日本を示すような和装である。村人全員が和装だった……ということは大正期以前。日本人が和装から洋装に移り変わったのがそれくらいの時期だから、「犬鳴村の悲劇」が起きたのはそれくらいの頃。それくらいの時代に、洋装の人達が手回し式撮影機を持ち込み、犬鳴村での蛮行を捉えた……と考えられる。
 ところがオチから話を見ると、主人公たち森田奏のお爺ちゃんお婆ちゃん世代がこの犬鳴村の出身ということになっている。2世代前だ。20代前半くらいで結婚して子供を産んだ……と考えると「犬鳴村の悲劇」が起きたのは60年前。1960年代。もう少し余裕を見ても、1950年代。
(ただし田舎は早婚が多い。20歳になる前に結婚し、出産していたケースも考えられる。ということは、さらに前の時代ということになる)
 戦争はとっくに終わり、「もはや戦後ではない」と言われ、日本が高度経済成長期に入っている頃だ。そんな時代に、村人全員まだ和装だった……という村があった。いやいや……無理がある。ほとんど「日本の山奥に未開の人々がいました」……みたいな話になっている。
 犬鳴村は「山犬」を捕まえてその肉をさばいて暮らしていた……という設定だが、山犬とはニホンオオカミの明治時代までの呼び名で、1900年代はじめ頃には絶滅した。背景設定がおそらく1950~60年代だとすると、とっくに絶滅しているもので生計を立てていた……という話になる。
 犬鳴村の周囲だけが古色蒼然とした風習を守っていたのかと思えば、その村の外もまだ和装の時代。1950年代だぞ? いったいどういうことだ。

 待て待て……いくらなんでも設定が雑だ。今のお爺ちゃん世代はどんな田舎でも、生まれた時から洋装だ。時代設定がぐちゃぐちゃだ。
 おそらく、その時代を知っているお爺ちゃん世代から話を聞く……というシチュエーションを作りたかったのではないかと思うが……。せめて時代観くらい、きちんと考証してほしかった。

 犬鳴村の風景を見てみよう。
 家の柱が細い幹を伐って、枝を切り落とし、皮を剥いだものになっている。「丸太」ですらない。あんなに豊かな森が側にあったのに、どうしてきちんとした柱を建材に使わなかったのだろう? 壁は板張り。「土壁」ですらない。屋根はよく見えないが、おそらくこちらも板葺き。
 ということは村の建築は村人自身で協力して作り上げたものであって、建築専門の職人はいなかったと考えられる。あんな隙間風が一杯の建築で、どうやって冬を越していたのやら……。
 寝床っぽいところにはなんと藁が敷かれてあった。もはや江戸時代以前の風景だ。完全に「日本の山奥に、未開民族がいました……」みたいなお話になっている。
 寂れた村だから、それっぽいものを作ってみた……という感じなのだろう。しかし、あまりにも「あり合わせでなんとなく作りました」感が見えてしまっている。背景に文化観が見えてこない。いくら昔の話だからと言っても、あんな建築はないだろう。お話が1950年代以降と考えられるから、もう少し真っ当な、近代建築もあり得たはずなのに。なぜそういうものがないんだろう……と疑問に思う。

 設定に無理があるのだが、ストーリーにも無理がある。
 こうした幽霊物語は「解明」に向かう物語になりやすい。
 事件が起き、主人公が調査し、やがて過去の事件との関連に気付き、遡っていく……。ほとんどすべての幽霊物語共通の約束事だが、まず幽霊が「何者か」という疑問にぶち当たり、やがて過去の事件へと遡ってその土地にどんな事件があったのか、当時の未解決事件にぶち当たり、解明へと導くことで幽霊が抱えていた葛藤が取り除かれ、成仏する。それとともに呪いも浄化される――これが幽霊物語定番の型だ。
 ほとんどの幽霊物語はこの物語パターンに当てはまる。幽霊物語を読むことは、過去の事件、あるいはその民族が持っている精神性を遡っていくことでもある。
 『犬鳴村』もその鉄則通り、主人公である森田奏が家族の悲劇を切っ掛けに、一族の出自にまつわる調査を始めるが……。
 こちらの調査がぜんぜん進まない。進める気があるのか……というくらい、えんえん物語は停滞を続ける。

 中盤1時間ほどで祖父である中村隼人に会い、ようやくお話が進み始めるのだが、そのさらなる「真実」はなんと幽霊自身が語り始める。
 やたら存在感のある幽霊がいきなり現れて、「見せたいものがあるんだ」と、「犬鳴村の悲劇」を録画したフィルムを見せる。
 ちょ、ちょっと待って。そこ、どこだ? どこにあった? 場所の説明がない。というかなんでそんなフィルムが存在していて、一般人である森田奏でも閲覧することができたんだ? そういうフィルムはもっと厳重に保管されているものだろう。あるいは破棄されるはず。
 という以前に、森田奏はほとんど調査らしい調査をやっておらず、いきなり幽霊がポンと現れて、真実が語られる……という奇妙な構造になっている。森田奏が能動的に調査した結果ではなく、「棚からぼた餅」状態だ。
 というか、幽霊語りすぎ……。幽霊が自分で事件を語ってどうする。そこは生きている人間が調査すべきことだろうに。幽霊はもうちょっと幽霊らしくしてほしい。

 お話のほとんどは「感情」しか描かれない。
 恋人を失った森田悠真が逆上してトンネルの向こうに行くが、犬鳴村にたどり着けない。その父親はひたすら不機嫌で「お前の血筋が!」ということしか言わない。主人公森田奏も「いったい何なのよ!」と感情をぶちまけるだけ。感情描写がえんえん続いて、お話が進まない。事情を知っていそうな人達も、なんとなく意味深な言葉を呟くだけで、真相に進もうともしない。登場人物全員白痴みたいな描き方だ。
 というか、ホラー映画に出てくる若者って、なんであんなバカばっかりなだろう……。

 物語とは「物語」の局面と「ドラマ」の局面に分けられる(ドラマの部分はアクションやミュージカルに置き換えることができる)。作者として「見せたいシーン」、映画的映像の核となる部分は「ドラマ」にある。そこを見せたいがために、「物語」の部分でそこに至るまでの経緯が示される。この経緯が適切であれば、ドラマはクライマックスとして輝くわけである。
 ホラー映画の場合は、「ドラマ」の代わりに「ホラー」シーンが描かれる。ホラー作家として、見せたいシーンがそこに込められる。そのホラーシーンのために、まず物語の局面で論理構造を示さなければならない。
 が、その物語の論理構造が全くない。なにしろ理性的に物語の背景や経緯を語ったり解説してくれる人が誰もいない。みんな常に苛立って叫んだり喚いたりしているだけ。「なんとなくホラーやってるよね」みたいな雰囲気だけで作られている。挙げ句、それを語る人があろうことか幽霊自身という……生きている人達があまりにも情けないので、幽霊が仕方なくヒントではなく答えを語る、みたいな状況だ。

 ホラーシーンこそが映画の核となる場所で、そこに条理を逸脱した飛躍が描かれていなければならない。ホラーは不条理でなければならない。条理で解説できるものには恐怖は感じない。
 そのホラーシーンが飛躍しすぎて、どのシーンもギャグになってしまっている。
 病院で村人の幽霊がわらわら現れるのだが、結局何もしないで去って行く。
 森田奏が運転をしていると、幽霊が追いかけてきて……ふと気付くと、いつの間にか車の中に乗っている。この車のシーンは完全にギャグシーンになっている。幽霊がきちんとそれぞれのシートに乗って、車に揺られている、妙に牧歌的な風景なのに、森田奏だけがパニックになっている。笑わせに来ているのか、果たして……。
 幽霊は条理を越えた存在だから、いかに創造性豊かに描かれるかが試される場面だが、しかし現実的な接地点を超えて表現されると、ただ現実感がないだけではなく、笑えるものになってしまっている。
 そうなっているのは、そもそも物語が構造的にしっかりできていないから。物語ができていないところで、幽霊を登場させても怖くない。不安を感じない。「主人公がどんな危機を感じて事件の解明に向かおうとしているのか」それが示せていない。例えば『リング』という映画では、主人公は呪いで7日後には死ぬ……という危機を突きつけられ、呪いを解明するために幽霊の正体を明かそうとする。そうした緊張感を生み出す設定がないままに恐怖描写っぽいものをやろうとしても、それは「恐怖描写っぽいもの」にしかならない。怖くならないどころか、ギャグになってしまう。

 冒頭の都市伝説的なシーン作りはなかなか良かった。ああいったイメージを雰囲気たっぷり描くホラーセンスは間違いなくある。
 しかしその後の全てがいけない。イメージを物語として展開していこうとするところで、映画がガタガタと崩れていく。イメージを物語の中で広げていく……という考え方さえあれば、もっと良くなったはずだったのだけど……。

 よくこの脚本で映画化が決まったものだな……と不思議に思うくらいの作品。いい脚本を書ける人は、世の中に一杯いるだろうに、どうしてこれを採用したのだろうか……「行ける」と思ったのだろうか……。こんな脚本で撮影を始めてしまったことが、ある意味のホラーかも知れない。

 こうした駄作映画を観ることは、「何がダメなのか」を考えるために有効である。ある意味で先人が作った「失敗例」だからだ。どうしたらダメなのか、考えるために駄作映画はあるし、見る価値はある。ある意味で、大成功した映画以上に見る意義があるのが駄作映画だ。
 そうした理由を込めて、『犬鳴村』は見るべき価値のある作品かも知れない。
 とりあえずは笑えるところは一杯ある作品だから。コメディ映画だと思ってみるのもいいかもしれない。

 『犬鳴村』は「なんとなく」で作られたホラーだ。何となく不気味な雰囲気のトンネルがあって、そのトンネルの向こう側には現代の文化観から隔絶された不気味な村があって……。それが全員和装の、寂れた村という設定。なぜこういう設定が生まれたのかを考えると、日本のホラー観の出自が、そうした村の風景から来ているからだ。山ばかりの国だから、鬱蒼とした森の向こうにぽつんとあるもの、とか……。そうした場所にある村や建築に、日本人は昔から不安を覚えて、亡霊の姿を思い描いていた。『今昔物語』に描かれている異界を尋ねる物語は、たいてい山の向こうだ。日本人は昔から山に死者の世界を見ていた。
 でも時代的に、そういった古色蒼然としたイメージを思い浮かべるのが無理がある時代に差し掛かってきた。『犬鳴村』で描かれたイメージは、気分でいえばわかる。そういう全員和装の古色蒼然とした世界があって……というイメージはなんとなく私の頭の中にもある。日本人共有のイメージだろう。
 しかしそういう風景はもはや100年以上前の話。お爺ちゃんお婆ちゃん世代の、そのまたお爺ちゃん世代のお話。
 『犬鳴村』ではそういう時代のお爺ちゃんが現代にいるということにして、お話を訊く……という展開が描かれる。そういう時代の証言者と直接交流する……という画が欲しかったのだろう。これを実際に描いてしまったから無理が生じてしまう。「犬鳴村の悲劇っていったいいつの話なんだ?」という疑問に感じてしまう。計算してみると、どう考えても戦後のお話。『犬鳴村』で描かれた風景がとっくに日本で駆逐された後だ。
 そもそも『犬鳴村』のような物語は、現代で描くことに無理がある。
 しかし私たち日本人が共有して持っているホラー観が、ああいった封建的な村社会の世界から生まれているというのも事実。
 イギリスのホラーが、貴族のお屋敷生活時代をベースにしているように。幽霊とはもともと「古い人」であるのだが、現代人にとって途方もないくらい古い時代の人になってしまっている。
 『犬鳴村』のような映画を観ると、そういうお話を作ること自体、とっくに禁じ手になっていることに気付かされる。私たちはもう、「なんとなく」で自分の文化観をベースにしたホラーはもう作れないんだな……そこに説得力を持たせた物語は作れないんだな……と気付かされる。
 とっくに時代遅れのモチーフでホラーを作った結果、時代にそぐわない作品になってしまった『犬鳴村』。今後ホラーを作るために、どのように向き合うべきか、考える必要がありそうだ。


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