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後天性の発達障害(社会モデルとして) ストラテラ服用日記732日目

昨日もツイートしたが、一般に発達障害(神経発達症)は先天的と言われているが、後天的とも考えられるのではないかと。

発達特性、発達障害(神経発達症)を有する脳を持つか持たないかは先天的なものだ。それは私もよく分かっているし、100%同意するところだ。

とはいえ特性バリバリに出ている方が経営者やアーティストとして生きている姿を見ると、先天的に神経発達症を持っていても困りごとを自分で解決できていたり自己肯定感が下がることがないまま社会適応できる方は、発達障害とは呼べないと感じている。

だとすれば、障害になるのは後天的なもので先天的なものを発達障害と考えられないだろうか?というのがこのNOTEの主旨です。

皆さんはいかがお考えになるだろうか?

個人モデルと社会モデルという言葉はご存師だろうか?
知っている方も多いと思うが、念の為ウィキから引用します。

個人モデル
障害者が直面する問題の根本原因は障害者個人のインペアメントにあるとし、問題を解決する方法はインペアメントの除去であるとされてきた。

社会モデル
「障害」の問題を社会的に発生したものと捉え、個人が社会へ全面的に適応する際の課題とみなす。このモデルは、障害は個人に帰する問題ではなく、様々な状態が絡み合った複雑さとして受け止め、多くは社会環境から発生していると考える。従って、この問題と向き合うには社会活動が求められ、人々が障害者と社会生活全般の場面で供に生きられる環境を整備する社会全体の集団責任となる。


また、生育歴も非常に重要です。
先にいった社会で活躍されている特性バリバリの方は、家族に否定されずにほぼ全肯定されて成長した場合が多いという印象を受けている。
つまり、肯定されて成長したため自分のままでいいんだという考えが物心ついたときから身についているというのも大きな要因だと考えている。

何が言いたいかというと、発達障害の特性を障害としているのは社会の方であって、個人の方ではないのではと思えるということだ。
(だからといって個人の努力は必ず必要で、マイノリティである以上、適応するための工夫と努力はし続ける事が前提)

このように考えているのだが、皆さんはいかがお考えだろうか?


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