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原稿がアップグレード!校閲をいれてよかったこと

先月、1年がかりの本をやっと校了。長かった。

著者側も出版に慣れていないということもあって、企画の立ち上げから構成、取材〜・・(略)・・校了まで、細かく相談しながらの進行だったので、とんでもなく回り道もあったかもしれない。

今回、今までの本づくりとは大きく違ったのが、「校閲」のプロセスをガッツリ取ったことだ。

出版社によっては、校閲部門があったり、提携している校閲さんがいたりとそれなりに存在感のあるプロセスであろうが、

私が経験してきた編集部に「校閲」となのつく部署などなく、編集者たちが合間を縫って誤字脱字をチェックする、その場しのぎのものが多かったように思う。

今回、校閲を入れてみて思ったこと。それは、

編集者さんたちがやってきたのって、一体なんだったの!?

ということであった。

校閲とは、文字上の修正だけを担うのではなく、まさか組版やページ数に応じた寸法などもその範疇にあったことを知って、いや・・今までその道のプロフェッショナルにきちんと出会ってこなかったことを、非常に残念に思った次第である。

出版社によって「校閲」がどのように取り入れられているのか、今の私の立場ではわからんすぎるし、千差万別のような気もするから、ここでは私が感じた「校閲者ってすげー・・・」を言葉にしておきたいと思う。


校閲さんを入れてよかったことは、ざっくり2点!

まずは、自分が普段使っている日本語が、いかにあやふやで曖昧かを思い知ったことだ。

校閲さんからは、日本語の文法に応じた表現の確認を促されること山の如しであった。意味は「なんとなく」伝わる、誤用とも取られかねないが表現の揺らぎとも捉えられる、すでにここまで書いてきた文章の中にも指摘が数々入りそうなの自分の文章について、

「ここは意味が取りにくくなっています」「通常はこういう表現をします」などの赤ペンが入った。その度に、「うおおお日本語ってそういう文法だったのか!!!!!」という気づきと衝撃と感動が湧き起こり、文章力というよりも日本語そのものへの理解が深まっていったのであった。

次に、私は、校閲というのは間違いを指摘してくれる人と認識していたのだけれど、そうじゃなかったということだ。

校閲の目的はあくまでも、「読みやすさ」を整えた上で、「最終的にはどうするか」、こちらに決定を委ねてくれるということなのであった。

そう気づいたのは、てにをはレベルの指摘をもらうこと山の如しであっても、校閲さんから、「ここをこう直しなさい」と言われることは一切なかったからだ。

原稿は真っ赤になる、しかしながらそれは修正の赤ではなく、「通常はこういう表現、文法になりますが、訂正しますか?」という提案に過ぎないということだった。

昨今の「ら」ぬき言葉のように、文法的には間違っているものと言えども、ここまで浸透してくると間違っていると言ってしまう方が野暮ったくなる。

同じように、変化し続ける日本語という生き物に対して、常に正解を突きつけるのは難しい。細かく、丁寧に、どこまでも日本語という言語に忠実でありながら、「で、おまえさんはどうすんのさ?」と聞いてくださる校閲さんのありがたみたるや。

このような、ザ・校閲に触れるまでは、編集者として知っておかねばならないものすごく厳格なルールがあるのかもしれない・・と怯えていたが、そうではなかった。

校閲というのは、あくまでも読者が読みやすいように編集方針・ルールを明確にしていく作業であり、それは突き詰めると「我々はどのような原稿を読者に提供したいのか」を決める、ということなのであった。

大きくはこの2点。校閲を入れることによるスケジュール調整ややりとりも倍になったけれど、このことによって本作りの深み、面白みがまた増したことは疑いようのない事実。私のように本に憧れる人間からすると、喜びに満ちた修行であった。

とにかく、原稿の信頼性、完成度が格段に上がったように思う。アップグレードってこのこと。自分達だけで間違い探ししていたんでは、かえってグレードを下げることになったりもしたんじゃなかろうか。

ほとんどの編集部で、所属の編集者がざっと片手間にやってんじゃないかと思うけれど、それが担える編集者なら文句もなんもないけれど、

予算や時間が許すのであれば、校閲さんをちゃんと入れて、原稿の精度を高めるっていうのは、なんせ勉強になるし面白いので、今後も機会があればと願うばかりである。
 

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