見出し画像

【妊婦日記】トツキトオカの私の歩み

All photo by 古性のち in Okinawa

2023年7月下旬、38週で臨月も後半戦。

人生ではじめての妊娠生活。

数日前の13回目の妊婦健診では、「子宮口が開き始めて、もしかしたら来週の妊婦健診より前に産まれるかもしれない」という言葉も聞けた。

先生は、胎児の頭に指先が触れられたらしい。
お腹の中に、たしかに今息づくちいさな命。

産まれる前に、産まれるまでのトツキトオカを、できれば書き残しておきたくて。

妊娠1ヶ月から、臨月までの妊娠10ヶ月までをそれぞれ綴ります。旅好きで自分勝手な36歳が、母になってゆくまでの10ヶ月。

小指の先ほどの小さな胎芽が、心臓を動かす胎児になって、腹を蹴って私を眠らせなくなる間に、だんだんと芽生えて変わってゆく、母側の変化の記録。

苦しいことも、嬉しいことも。予定日まであと9日。

妊娠1ヶ月(0w〜3w)

何も気づかない、というよりも数え方的に「妊娠1ヶ月」となるだけで、妊娠1ヶ月の前半の0wは最終生理、2wは排卵時期なので、実質的に胎芽(着床した受精卵のことみたい)や胎児はお腹にいない。

私は3wあたりが事実婚の届出日=パートナーとの記念日だったので、妊婦NGのクラフトビールと生牡蠣を門前仲町で堪能していた。あの時に生牡蠣を満足ゆくまで食べてお酒を飲んでおけて、ものすごくよかったなと思っている。

じゃないとたぶん、お酒と生牡蠣大好きだから、口にしたくて発狂してたか、一度チャレンジしてしまった気がする。好きなものは思いついた時に食べておいた方がよい。

妊娠2ヶ月(4w〜7w)

正直、この1年以上ずっと毎月生理が来る、来ないでソワソワ、一喜一憂していたので、この月も生理予定日の数日前から何処かふわふわした気持ちで生きていた。

なんとなくなのだけど、妊娠しているんじゃないか、という予感はあった。けどそれは今までに何度も感じてしまっていたことだし、実際に検査薬陽性が出てのちにダメだったこともあったから、期待してはいけないという予防線が自分の中に何重にもあった。けど、愛猫のひとりが、寒くなってきた時期だったこともあって、毎日お腹に寄り添うように眠るようになっていて、否応にも期待値が高まってしまっていた。

生理予定日は友だちが遊びに来てくれていて、翌日も予定が詰まっていて、これ幸いとフライング検査はしないことに決めていた。週が明けて、月曜日になったら早期妊娠検査薬を近所の薬局に買いに行こう、とひとり心でそっと決めて、パートナーにも告げずに月曜日の朝こっそり出かけた。

4w2d(妊娠4週目2日目のこと。妊娠は1ヶ月単位で数えるのだと思っていたけど、実際は何週、と数えたり伝えたりすることが、とくに妊娠初期は多いことに驚いた。この何週目なのか、というのが初期は大変重要だった……!すごく毎週、どころか毎日大きな変化があるし、胎芽が確認できる週、心拍確認ができる週、など色々あるのね)で、早期妊娠検査薬、という薬剤師がいないと買えない、すべての薬局にあるわけではない検査薬を買って試した。家に帰る前に、薬局のトイレに行った。

くっきりと、線が出ていた時の嬉しさは忘れられない。ずっと待っていた、探していた「何か」に出会えたような気がした記憶。

彼に伝えたのは、仕事が終わるのを待って、の夜だった。妊娠したかもしれない。けれど、妊娠が医学的に確定するのは胎嚢と心拍が確認できてから。それにはまだ2〜3週間ある。そもそも、一般的な妊娠検査薬が反応するのが5w以降。今日はまだ4w2dだった。

妊娠しているかもしれない。世界がひっくり返るくらいの出来事。けれどまだ、検査薬の陽性が出ただけ。けれど、妊娠しているかもしれない。この繰り返しの思考が私にピッタリとくっついて離れなくなってしまった。

お酒はやめた。ナマモノも控えることにしてみる。心なしか、眠たくって、街中の香りがいつもと異なり、強くなっているような気がした。でも全部、まだ気のせいかもしれない。でもとにかく嬉しかった。嬉しい。もしかしたらこのお腹に、小さな命がいるかもしれない。いるかもしれないのだ。

そして妊娠検査薬を3本使って、3本すべて陽性だった3日後。最初に早期妊娠検査薬を使ってから10日後の5w6dに、産婦人科で胎嚢とものすごく小さくだけど心拍が確認できる、と言ってもらって、私の妊娠は確定のものとして世の中に認められるものとなった。

次の検診は2週間後。そこまで妊娠が継続してくれるのか、今度は別の不安が現れる。けれどまずは、喜びたいと思った。世界が変わった。ただただ、お腹に光があると思って検診台で涙が出そうになった。下半身が露出していたからどうにか理性で止められたけれど。泣いてもよかったな、あの時。

そして7w6dの検診では、手足が生えた小さな命がエコーに写った。でもまだ何があるかわからないから、もう2週間後の検診を待って、母子手帳をもらった方がいい、と先生は言った。それくらい不安定な状態だ、ということをわかった上で、私たちは年末年始の休暇を迎える。

つわりはすでに、始まっていた。

妊娠3ヶ月(8w〜11w)

年始。眠くて仕方がなくて、つわりもピークを迎えそうなお正月明け。それでもやっぱり人前に出る仕事だったり、誰かと一緒に食事をしたり、という時間はつわりがいつもよりマシなので、緊張感の問題なのか、と思ったりしていた。

食べづわりと吐きたくなる感じ、喉づわりと呼ばれるらしい、喉をグッと押し込まれているような違和感が常態化、あ、眠い、と感じると3・2・1の秒読みで倒れ込むように眠る現象、疲れやすさ、など、THEつわりの日々。

それでも年始最初の検診に行きたい、と正月明け早々の最初の開院日に産婦人科へ。年末に生えた手足をぴよぴよと動かして、羊水を自在に泳ぐ小さな命を確認して、役場で妊娠届けを出して母子手帳をゲット。諸々の行政の案内を聞き、おびただしい量の資料をもらったところで、なんだかやっと一人前の妊婦になれた気がした。

母子手帳をもらったら、今度は気持ちが落ち着いたので髪を切りたい、とバスで近くの美容室に出かけ、コーヒーを一杯飲んで帰ってきた翌日。発熱。異常な寒気。世の中がコロナ騒ぎから落ち着いてきたところで、コロナ陽性。

38度以上の熱が出る中、剣山が仕込まれたような喉の痛み、眠れなさ、頭痛、全身の痛み、食欲のなさ、プラス何も食べたくないのに食べづわりで気持ちが悪く、食べたら吐きたくなる上によだれづわりでなんだかずっと吐く前の胃液が出続ける。死。つらい。つらすぎて夜中2時半頃に出ない声で「もういやだ」と叫んで泣く大人。とにかく心配なのは、お腹の子だった。コロナに感染しても、これくらい初期だったら大丈夫です、と言われているのに、それでも「私がこんなに辛いのに、大丈夫なの?!」と弱気になる。

眠っていると、恥骨のすぐ上あたりに小さなラグビーボールみたいなしこりを感じる。固い。今までこんなの感じたことがない。コロナの影響なのか、妊娠の影響なのか、何か悪いことが起こっているのか。

体調の悪さと気力の低下、妊娠継続の不安とコロナの恐怖が相まって、もうわけわからん不安でいっぱいだった。というのを超えるつわりとコロナの体力面での絶不調。に並行して仕上げるべき原稿と動画撮影、編集の2件がどうしてもこれ以上締め切りを伸ばせなかった。というかもう伸ばしてもらった期限に限界が来ていた。撮影スタジオのキャンセル代がまるまるかかったのは痛すぎた。

私の布団でずっと一緒に眠ってくれている愛猫たちと、一応部屋を分けよう、と隔離暮らしをしてくれて、結果コロナが発症しなかった(もしくは無症状)パートナーの看病だけが救いだった。あと、結果そのしこりは、大きくなろうとしている子宮です、ということだった。皮膚の上から子宮を感じたのは人生初めてすぎて本当に何かと思って怖かったよ!

コロナの隔離が明けた11w3d。スクスクと育ってくれているエコーの胎児を見て、ほっとしすぎて脱力した。生命。強いね。ありがとう、育ってくれて。さすがたくさんの戦いを乗り越えた命だ。もうあなたの強さを信じて生きるしかない。そう思っても不安はいくらでも産まれるのだけど。

妊娠4ヶ月(12w〜15w)

まだまだつわりが継続中。妊娠4ヶ月の後半で安定期に入るということで、安定期に入ったらつわりが落ち着く人が多いらしいから、それだけを希望に生きる。

けれど安定期前にパートナーの誕生日を迎えるので、それだけは祝いたいと、つわりの身でできる限りの外出プランを練る。

そういえば、早期妊娠検査薬を使用する1週間ほど前に、口約束とリング1つを購入して完結していた事実婚の関係性を、役場への書類提出をして書類上も「未届の妻・夫」とする手続きをしていた。

が、その直後に妊娠が発覚したので、数ヶ月話し合って、結果私たちは法律婚に移行することを決めた。それをいつにしようか、と話していたのだけど、それを妊娠4ヶ月のある日にする。ちょうど、妊娠と結婚の挨拶的なもので私の実家に帰ろう、と話していたのだけど、安定期前に長距離を移動させるのは心配だし私たちも会いたいから、と新潟から両親が遊びに来てくれたので、婚姻届の証人欄に2人の名前を書いてもらう。

そして役場へ。母子手帳ケースや、お腹が大きくなって今まで着ていたパジャマが厳しくなってきたので、マタニティパジャマなどを購入(正確には両親がプレゼントしてくれた)するなど、妊婦としての体制を整え始めたのもこの頃。

少しずつ、友人にも伝え始める。駅でもらえるマタニティマークのほかに、羽田空港で航空会社が出しているマタニティマークをもらったりもする。訪ねてくれる友人が、ベビー関連のギフトをくれたりする。ショッピングモールで見かけたベビー……というか子ども向けのうちの猫たちの柄の靴下を発見して、ついつい買ってしまう。これで出産直前までは買うのを控えよう、という合言葉付きで(制限なくなって買いすぎてしまいそうだったし、私たちは前回のことがあるので、安定期前だし何があるかわからないというスタンスで自分たちを守っていた)。

安定期まで、もう少し。指折り数えて。

指折り数えまくった。妊娠初期の心拍確認のあたりも、1週間が永遠みたいに感じられて、パートナーと「嘘でしょ、まだ4日しか経ってない……」みたいなことを言い合ったけど。安定期までも長かった。

そしてやっと迎えた安定期inの当日。指折り数えた理由は、赤ちゃんの安定が第一だけど、第二には私自身のつわりが軽減されていくかもしれない、という触れ込みももちろんあった。

全然違った。過ぎてみれば当たり前なのだけど、そんな1日またいだくらいでつわりのパワーは変わらなかった。うう。

でも信じて、安定期に入った1週間と少し経った日に、声をかけてもらった東京都内の素敵なグランピング宿の1泊2日の旅行に、車で出かける予定を入れた。行き帰りの交通手段は私の運転。まずは近場から慣らして、来月は沖縄まで行けたら。そうやって少しずつ、つわりと正気のパワーバランスを調整しながら、妊娠4ヶ月目を乗り越えた(それまでは完全につわりが勝利していた)。

追記 : そうだ、この頃私たち、私は「出生前診断」について考えていた。これについては別途書きたい。本当に悩ましい、難しい話だった。結果論でしか綴れない。

妊娠5ヶ月(16w〜19w)

お腹が膨らんできた。まだゆったりしているワンピースを着たら、気づかない人の方が多いくらいだけれど、それでもお腹のふくらみに手を乗せて、にっこりほっこりできるくらいの余裕も出てきた。

つわりがおさまってきたのだった。

戌の日のお参りのために、水天宮へ。抱っこ紐の試着のために、ショッピングモールのショップへ。安定期を過ぎてくれたことで、やっと私たち夫婦も「子どもがやってきてくれるかもしれない」という未来を具体的に想像し始められるようになっていた。

20w5dには、性別も判明した。私は知らせてもらうことをせずに、手紙に書いてもらって、それを義理の妹にテレビ通話で伝えて、ジェンダーリビールのケーキを作ってもらう。

性別判明の時期が、ちょうど両家顔合わせ(入籍後だけど)の日取りと重なったので、もう全員で見ればええやん、と両親4人と夫の弟夫婦の大勢で見守られながら、「お腹の子は男の子ですよ」と告げてもらった。

ボーイ。まさか私の体から、別の性別の体を持った命が産まれてくるとは。

想像したことのない未来がやってくる気がした。私の知らない、男という生き物の属性で産まれてくる命。元気に産まれてきてくれたら、性別はどちらでも。

男の子かぁ……! お腹の中にいる「ちいさな命」が、この日から「男の子」として、グッと人間に近づいた存在として、私たち夫婦に加わった記念日だた。

そして私は、この辺りから調子に乗り始めて、今までつわりで避けていた食べ物を食べ始めたり、沖縄行きの飛行機を予約し始めたりした。そして実際に、沖縄に旅立ったりもした。安定期に入ってから約1ヶ月後。やっと私にとっての本当の「安定」がやってきたのである。

妊娠6ヶ月(20w〜23w)

さらに調子に乗り始めた。いや、もちろん旅行以外の日は安静にしていたし、数日置きに絶不調が来るどころか、1日の中で「イケる」タイムと「もうダメです」タイムが交互にやってきて、夜は基本的に倒れ込む日々。

お腹はすぐ張るし、息切れするし、重いものは持てないし持ちたくないし、坂は上がりたくないし、早くは歩けないし、なんかもうすぐ疲れる。

でも、今一度の両親との沖縄旅行と、最後の一人旅としての沖縄中部の滞在と、友人が撮ってくれるマタニティフォトin沖縄の機会、そして夫との初めてのGW泊まり旅行(コロナもあって互いの家がある沖縄と東京ばっかり行ったり来たりしていた)だけは敢行したかった。

この頃は、減らし始めたとはいえまだ仕事もしていた。無理!とイケる!の狭間の日々。

今まで計算に困っていた夫婦間のお金のやり取りを、結婚したことにより「家族カード」という解決策を得て、名義が変わったカードを見て「結婚したんだなぁ」と思ったりもしていたのがこの頃。

妊娠7ヶ月(24w〜27w)

沖縄で最高潮に調子に乗る私

つわりで倒れた妊娠5ヶ月頃と比べて、妊娠6ヶ月は振り返ってもそうだし、遊んでいる当日も「これはやり過ぎているな。なぜ今日の私は大丈夫なんだろう」と疑問を持たざるを得ないくらい体力を使っていた。坂の上のタイ料理が食べたいからと、1人で夜真っ暗な中を駆け上がったりしていた。

沖縄、福岡、山口。そういえばその前に長野の出張にも行った。当然出先でお腹が張って限界に達した瞬間もあったけれど、騙し騙し過ごしてピークの力を出し続けた。

そうしたら当然、妊娠7ヶ月を迎える頃、私の子宮は「張って張ってもう歩けません症候群」。つまり切迫早産の気配を醸し出していた。本当に張ってしまって痛くて動けなくて、道端に座り込むのが5分ごと、みたいになって、タクシーで自宅に強制送還を選択、というのもザラだった。

産婦人科の先生にも「張ってますね」と言われて心配された。理由を尋ねられたが、「仕事をたくさん……」としか伝えられなかた。この1ヶ月で6回飛行機に乗って、2度車で長距離移動をした先で仕事をした、などは言えなかった。

ということで、安定期に入った16wから、妊婦としての活動限界を感じて実際に活動を止めざるを得なくなった27wまで、じつに9週間ほどを私はつわりの反動とでもいうように、満喫しきって倒れ込んだ形になった。

妊娠7ヶ月の中盤からは、とにかく安静。自宅安静。何もしない。家の片付けと整理に勤しみ、赤子を迎え入れる家庭の体制を整えることに注力した。これが異常なほど打ち込め過ぎた。不思議に思っていた私に、「妊婦の巣作り本能がある」と教えてくれたのは夫だった。

妊娠8ヶ月(28w〜31w)

エコーに子の体が写り切らなくなってきた。妊娠後期。

過ぎてみればもう後期。お腹の中で子が動くのが感じられるから、「今日も元気ね」と思える。幸せな日々。

この頃、私はまだ産院を決めきれていなかった。可能性としては、仮予約をしている里帰り先の総合病院が第一候補だけれど、コロナの影響で立ち会い出産も出産後の面会もまだ許可されておらず、出産もその後の新生児の最初の1週間ほども、誰にも会わず夫にさえ会えず、病室で過ごすしかない、という状態にどうしても耐えられる気がせず、里帰りと東京の夫の近くでの出産の二択で揺れていた。

決断を引き伸ばしていた理由は、妊娠8ヶ月頃にコロナが五類に移行するため、病院の対応が変わるのでは、と少し期待していたからだった。そんな中で、母からの連絡。立ち会いも面会も、制限はあるけれど可能になった、という連絡だった。

考えて、里帰り出産をしよう、とやっと決められた。夫と猫とは離れたくないけれど、私にはごく個人的に、里帰りをしたい理由があった。ということは、東京で過ごせるのはあと1ヶ月もない、というリミットもできるということ。

妊娠の継続も出産も、どこか「まだ確定していない事項」という意識がどこかにあった。怖かったから。本当に嬉しくて、毎日幸せで、これ以上の幸せは望めないくらい幸せだったから、「もしこの妊娠に何かがあったら」と想像して、その先にある自分の姿と感情が、恐ろしかった。立ち直れない気がしていた。

けれど、そろそろ。里帰り出産をする、という決断の先には、子どもが産まれてきて、母になる未来が地続きであると思えるようになってきていた。また一方で、そろそろ準備もしなければ間に合わないのでは、という焦りも出始めた頃だった。

2人で、新生児用の肌着などをちょっとユニクロで見てみたりする。買うのは、もう少し先にしよう、と言って、揃えることはしないけれど、東京都の両親学級に出たり、出産応援ギフトの50,000ポイントの使い道を決め始めたりして、少しずつ「この暮らしに赤子がやってくる」リアリティを持つようになってゆく。

妊娠9ヶ月(32w〜35w)

夕飯が入らない。食べるだけで胃が苦しくて深呼吸が必要だ。何度かに分けて食事をとる。すぐに横になると気持ちが悪いので、休みながら食べるだけで1日が終わっていく。

お風呂に入ると体力を消耗して、髪を乾かすまで辿り着けない。洗面所に椅子が登場。出かけることは可能だけど、最寄りのコンビニを往復するだけで30分くらいかかる。

スーパーにはギリギリ行けるけど、ショッピングモールの中のスーパーはちょっときつい。理由は「入口から目的のコーナーまでの距離が遠すぎるから」。日常生活に支障が出まくる。すぐにお腹が張って、休みながら進むので外出が半日〜1日がかりの大イベントになっていた。

家に帰っても横になる時間が多い。猫と遊ぶために気合いをいれる。食欲はあるので料理だけは欠かさない。でも出来上がっても胃が圧迫されて十分に入らない。母がよく言っていた「作ったら満足した」が私にも降りかかる。

里帰り出産の2日前くらいから、帰る準備を始める。夫と猫と離れる現実が、急にものすごく不安になってくる。

荷物をまとめて、車で向かう。夫に、帰らないで、と泣きつきたくなる。実際にやってみたんだけど、「猫たちが俺を待ってる」をサラリと帰った。くぅ。

実家での体制を整え、母と相談しながら新生児を迎えるための買い物を着々と進める。お腹の子は2000gを超え始めた。もうすぐ肺が完成する。外の世界で生きられる可能性が日に日に上がってゆく。

妊娠10ヶ月(36w〜39w)

妊娠最後の1ヶ月。つい最近まで「お腹でずっと一緒にいた子が、お腹からいなくなってしまう日が来てしまうのか……」と寂しく思っていたのだけれど、お腹の子が2800gを超え、臨月の妊婦のお腹の大きさ、重さの成長に恐れ慄き、苦しみ始め、夜も眠れず、恥骨が痛く、幸い後期つわりは発生していないようだが、相次ぐマイナートラブルの嵐に見舞われ、腹を蹴る力に男を感じる日々を重ね、「そろそろ、お腹から、出たほうが双方のためかもしれぬ……!」という気持ちの方が勝り始めた妊娠10ヶ月。

正期産という、「いつ産まれてももう大丈夫」なボーダーを越えたのが37w。その頃には、1ヶ月に一度、2週間に一度、くらいのペースだった妊婦健診が、1週間に一度に変わっていた。

東京都で受ける妊婦検診は、補助券というものが使えたので、1回2000円とか、高くても4000円(自主診療の何かがあれば30000円とか別だったけど)だったので、妊婦健診が16000円とか8250円を軽々と叩き出し始めたのには驚いた。後日東京都が補助券の範囲内(一回あたり上限5000円)で負担してくれるということだったので、2人で安堵したのだけれども。

明日は38w3dの13回目の妊婦健診。妊婦健診の補助券は14回まで。15回目に入ることには、つまり予定日を越えているということ。明日は内診がある。子宮口は開いているかな。本当は、私7月24日で産む=36歳で産む心づもりでいたんだけど、25日になりそうな今なので、37歳が確定しそう。

いつ、外の世界に出てくる予定で過ごしているかな、お腹の子よ。名前はある程度絞れたけれど、まだ全然決まってないよ。顔を見たら、決められるのかな。決めてあげなきゃねぇ。あなたへの大きなギフト。うーん、迷うね。

陣痛待ちという人生で初めての時間を過ごす。焦らないで、この子が世界に出てきたい、と思うまで、ゆったり待とう。それしかできない。そう言いながら、マタニティのヨガや、陣クスと呼ばれる焼肉やオロナミンCを飲んだりといった「陣痛くるかも」なムーブを試したりと、ソワソワ、プレ新米ママは日々を過ごしている。

仕事をしない、こんなに穏やかな日々は、初めてだ。こんな時間をもらっていいのだろうか。抱きしめながら、1日いちにちを歩く。

追加 : 予定日11日前の38w3dの妊婦健診。ついに内診があって、噂の「内心ぐりぐり」と呼ばれる痛いらしいやつを体験。いやびっくりした。すんごく痛いやん。がしかし朗報もあり、子宮口やっと1cm開き始め、医師は子の頭に指先が触れたと言っていた。骨盤まで下がってきている。

翌日ごく微量のおしるしなのか何なのか、おりものに変化あり。翌々日、予定日まで9日にしてさらにもう少しおしるし的な変化あり。前駆陣痛はランダムに発生し続け、5分ごとにお腹が張る時間帯もあれば20分、数時間、寝たらおさまるなど様々。まだ不定期かつマックスの生理痛くらいの痛みが主で、慣れてきたらスイカを食べながら「お腹痛いな」と思えるくらい。

胎動はまだ感じる。足先は相変わらず元気!全身運動もまだ感じるけど、気持ち動きのダイナミックさに欠けてきた感も。もしかしたらもう狭いかな。

未だに妊娠線は幸いできていないけど、昨日からお腹の皮がピリピリ、ミシミシする感覚が表れる。もう少しなのかもしれない、と思いながら前駆陣痛の時間を生きる。

photo by 安永 明日香 in Niigata.
私と両親の手と、最初のエコーと
photo by 安永 明日香 in Niigata.
臨月のはじめのぽっこりお腹と
My family. ひとり増えたら、同じ場所で5人で撮りたい

おまけ:子宮内膜症や妊娠までの話、事実婚、二度目の結婚、パートナーや暮らしの話のnoteまとめ

ここから先は

0字

子どもが産まれるまでの特別な日々を忘れないために

いつも遊びにきてくださって、ありがとうございます。サポート、とても励まされます。