秋丸 知貴

大学教員/芸術学・死生学

秋丸 知貴

大学教員/芸術学・死生学

最近の記事

アインシュタインの芸術論

アインシュタインは次の文章で、世界の「センス・オブ・ワンダー」に対する理性的アプローチが科学で、感性的アプローチが芸術だと言いたいのだと思う。C・P・スノーの言う理系と文系の「二つの文化」を超えるには、まず世界に対する感動(センス・オブ・ワンダー)が必要なのだろう。 「芸術的および科学的経験が共有するもの」 世界がわれわれの個人的な望みと願いの舞台であることを止めたところで、讃美し、問いかけ、観察する自由な存在としてわれわれがそれに直面するところで、われわれは芸術と科学の領

    • 無心とは自然になること

      無心とは、自然になること。

      • 無我と聖性の充填

        東洋的無。 インドにおける「ゼロ」の発明。 日本における「中空均衡構造」(河合隼雄)。 別れの後の記憶。夢の名残。 無我になると内なる神性が賦活される。 眠りながら成功する。 鈴木大拙のアイディア。

        • マリアン・ウィリアムソン『愛への帰還』

          これまで関わりを持ってきた人と肉体的に別れても、その関係が終わったということではありません。人との関係は永遠です。「別れ」は人との関係における別な章が始まるということにすぎません。多くの場合、古い形態の関係を手放すと、二人が一緒にとどまることによって学んだであろう教訓よりもずっと深い教訓と純粋な愛を学ぶものです。普通にいえば二人の関係の終わりという段階で、別れることになったその人とこれまでになく深く恋に落ちて行くように感じた経験が私にはあります。私が自分の体験の中で発見したこ

        アインシュタインの芸術論

          「円」の象徴的考察

           最近、知り合いの女性が出産されて、「産後は自分の中の女性性が溢れて、物事をジャッジする感覚がなくなる一方で、情緒不安定になりやすい」と語っていたのが印象に残っている。  ここでいう「女性性」というのは、女性ホルモンのことと考えて良いと思うのだけれど、そうすると、物事の善悪を判断・評価・非難したりするのは「男性性(男性ホルモン)」の働きなんだろうなと思う。  そこで、ふと気づいた。なるほど、女性原理だけならば物事は混沌として形を成さない。一方、男性原理だけならば、ごつごつして

          「円」の象徴的考察

          人間は心から笑っているとき、専心没頭している。

          人間は心から笑っているとき、専心没頭している。

          ラインホルト・ニーバー『人間の本性とその社会』

          (^~^)「自分自身を大切にしない人間は、他人も大切にできない」というのは正しいのだけれど、そもそも自分で自分自身を大切に思えるためには、それに先立って、他人から愛される・承認される・存在を肯定される経験が必要。実は、自分だけでは、自分に愛される価値があるかどうかは本当は分からない。物心つく前に十分に愛された人間にとっては、それは自明で盲点になっているから分かりづらいのだけれどね。 エーリッヒ・フロムはその著『自己自身としての人間』やその他の著書で、愛する能力を〈自己充実の

          ラインホルト・ニーバー『人間の本性とその社会』

          ルネ・デュボス『健康という幻想』

          特定の個人の健康状態が、その芸術的創造に及ぼす影響については、たくさん記述がある。R・L・スティーヴンソンは、結核から回復すると、自分の芸術的才能に対する刺激が失われたと述べた。マルセル・プルストの世界観に、喘息はあきらかに大きな役割を演じた。しかしながら、社会全体に関する芸術と病気の間にある関係はひじょうに興味がある。そのいくつかは、さまざまの形ですなおに直接表現されているため、病気の広まりに関する多くの有益な知識を絵画や彫刻の記録から取りだすことができる。 ルネ・デュボス

          ルネ・デュボス『健康という幻想』

          バーニー・シーゲル『奇跡的治癒とはなにか』

          「この世における君の使命が終わったかどうかは、はっきりしている。生きてる限り、終わっていないのだ」(『かもめのジョナサン』の著者リチャード・バックの言葉) バーニー・シーゲル『奇跡的治癒とはなにか』より引用(103頁)

          バーニー・シーゲル『奇跡的治癒とはなにか』

          浅野和三郎『心霊研究とその帰趨』

          私が改めて注意するまでもなく、すでに心霊事実に親まれた読者諸子は、人生の目的が生前死後を通じて、永遠の向上であり、進歩であることに充分お気づきになったことと思う。現世生活は彼に取りて第一段の道場で、爰で種々雑多の経験を積み、以て人格の基礎工事を営むのである。やがて肉体を放棄して、所謂死の関門を通過した時に、その第二段の幽界の修行が始まる。(…)第三段の霊界生活に進むと、もーそろそろ地上の人間とは段違いになってくる。(…)更にその上の第四段の神界となると相互の距離は千万里、よほ

          浅野和三郎『心霊研究とその帰趨』

          江原啓之『人はなぜ生まれいかに生きるのか』

          私たちは苦しいとき、辛いとき、また人生の節目の折々に神仏を求めます。 私たちが神を求める心、それは、私たちがなぜ生まれ、なぜ生きるのかに通じることなのです。 魂は、永遠の霊性の進化を続ける旅人であります。人間世界を第一の修行の場として、肉体の死を通過した後、幽界、霊界、神界と進んでいきます。しかし、同時に、神もまた永遠の進化向上を目指す愛の光なのです。 人間の私たちは究極の進化を想像するしかないのですが、それは多分個々の霊が無限絶対の大我に融合一致することであろうと、日本心霊

          江原啓之『人はなぜ生まれいかに生きるのか』

          江原啓之『人はなぜ生まれいかに生きるのか』

          私たちがこの時代、現代に生まれて生きているということは、決して偶然ではなく、大変重要な意味を持っているのです。 私たちはどこからやって来たのでしょう? 答えは霊界にあります。 私たちは霊界からやって来たのです。 この現世を修行の場として選んだのです。私たちはみな、自分の魂を見詰め、磨き直すという人生の大きな目的を持って生まれてきます。そして、私たちがこの時代に生まれてきたことは、私たちがこの時代と深い関わりを持っていることなのです。 私たちはこの世に再生(霊界へ帰った霊魂は、

          江原啓之『人はなぜ生まれいかに生きるのか』

          ウィリアム・W・アトキンソン『賢者の宝物』

          人を引きつける力にあふれていると言われる人は、男でも女でもかならず、「魂」を感じさせるものです。つまり感情や情緒というものを外に向かって発し、相手からも引き出すのです。 役者は演じる人物の性格の特徴を表現するわけですが、彼らも同じようなものを表現します。自分の中にあるものを外に向かって放ち、それが接触する相手に影響を及ぼすのです。 人を引きつける力のない役者を観察してみてください。セリフを完璧に覚え、演技の型や身ぶりといった技術を正しく身につけていても、「何か」が欠けてい

          ウィリアム・W・アトキンソン『賢者の宝物』

          クリスチアン・タル・シャラー『光の剣――遥かなる過去世への旅』

          例えば、五〇歳になってもまだ、一〇歳の時に母を、あるいは父を亡くしたことで苦しんでいる人がいます。この人は、いまだに過去のつらい思い、苦しみ、怒りなどを持ち越して背負っているのです。それが、今世のものであれ、過去世のものであれ、衝撃的な出来事は、霊的な気づきの光を当てない限り、また無条件の愛によって癒されない限り、いつまでも私たちの重荷となり続けます。 無条件の愛はどんな不安も恐れも消し去ります。無条件の愛さえあれば、神の子である私たちには何も恐るべきことは起こらないのです

          クリスチアン・タル・シャラー『光の剣――遥かなる過去世への旅』

          ヴィクトール・フランクルの芸術論

          極めて明晰で的確な分析。私なりに言い換えると、次のようになる。 快感原則が現実原則に打ち負かされる過程で、左脳が発達し、現実処理を担う表層的な自我意識が成立する。つきまとうショックに対する不安は、自意識過剰をもたらす。そうすると、原初的な右脳による深層的な無意識的自己との回路が遮断されてしまう。つまり、インスピレーションは失われ、全てがギコチナクなってしまう。 ここでフランクルははっきりと書いていないが、その不安を落ち着かせ安心させるには、他者からの愛情が必要なのだ(「無

          ヴィクトール・フランクルの芸術論

          ラリー・ドッシー『平凡な事柄の非凡な治癒力』

          世界各地の叡智の伝統は、神聖なものに対する最大の障害の一つが自我だと教えています。大自然の中での経験は、その過程で自我の働きを止める傾向があります。長期間自然の中で過ごしていると、肥大した自己意識をもち続けることはまったく不可能です。〔…〕自己の影が薄くなると、神聖なものが見えやすくなります。これが、前近代的な人々が単独で荒野へヴィジョン・クエストに出かけて聖なる存在と直接の回路を開こうとした理由です。 ラリー・ドッシー『平凡な事柄の非凡な治癒力』小川昭子訳、日本教文社、2

          ラリー・ドッシー『平凡な事柄の非凡な治癒力』