ヴィクトール・フランクルの芸術論

極めて明晰で的確な分析。私なりに言い換えると、次のようになる。

快感原則が現実原則に打ち負かされる過程で、左脳が発達し、現実処理を担う表層的な自我意識が成立する。つきまとうショックに対する不安は、自意識過剰をもたらす。そうすると、原初的な右脳による深層的な無意識的自己との回路が遮断されてしまう。つまり、インスピレーションは失われ、全てがギコチナクなってしまう。

ここでフランクルははっきりと書いていないが、その不安を落ち着かせ安心させるには、他者からの愛情が必要なのだ(「無意識をもっと信頼しても大丈夫だよ!」)。

……だがしかし、精神的無意識の感情的で非合理的な、直観的な深みに根ざしているのは、エートス的なものやエロス的なもの、すなわち良心や愛だけではない。もう一つ、パトス的なものも或る意味においてこの深みに住みついている。つまり、精神的無意識のなかにはエートス的無意識すなわち道徳的良心とともに、いわば美的な無意識すなわち芸術的良心も宿っているからには、そう言えるのである。芸術的創造においても再創造においても、芸術家はやはりこの意味における無意識の精神性に依存している。それ自体非合理的な、それゆえ決して合理化し尽くされることのない良心の直観には、芸術家における霊感が対応している。そしてこの霊感もまた無意識の精神性の領域に根ざしているものなのである。芸術家はこの領域から作品を創り出す。そして、芸術家の創造活動とともに、この源泉、芸術家が霊感を汲み取るところのこの源泉は、常に渝ることなく、意識をもってしては決して明らかにしつくすことのできない暗闇のなかに存続している。それどころか、少しでも過剰な意識が働いていると、それが「無意識からの」創造を邪魔し得るということは、繰りかえし経験されていることである。過度の自己観察、――まるでひとりでに行なわれるかのように無意識の深みの底でなされねばならぬはずの仕事を意識して「行なおう」とする意志、――それが創造的な芸術家にとって一種のハンディキャップになることは稀ではない。そこでは不必要な反省はすべて有害なものでしかありえないのである。

われわれは、できる限り意識的に演奏しようといつも努力していたあるヴァイオリニストの症例を知っている。ヴァイオリンの正しい持ちかたから演奏技法の隅々に至るまで、彼はあらゆることを意識的に「行なおう」、あらゆることを自己反省しながら遂行してゆこうとした。その結果は芸術家としての完全な行きづまりでしかありえなかった。そしてその治療はなによりもまず、この過度の反省と自己観察の癖を取り除くことでなければならなかった。その企図するところは、われわれがその後別の場所で脱反省と名づけたところのものでなければならなかった。精神療法によって、彼のなかに蔵されている無意識のものが彼の意識にくらべてどんなに「より音楽的」であるかを繰りかえし繰りかえし彼に気づかせてやることにより、この患者のために無意識への信頼を取り戻してやるということがなされねばならなかった。事実、このようにして行なわれた治療の結果、本質的に無意識的な(再)創造の過程が過度の意識作用の阻害的な影響から解放されて、無意識の有する芸術的「創造力」のいわば抑制解除がなされたのである。

しかしながら、いまここで述べた症例によって、あらゆる精神療法的目的設定に関する極めて重要な要素も同時に示されたことになる。つまり、われわれは今日では、精神療法の秘訣は一にも二にも意識化にあるという考えかたを固執することは許されないのである。精神療法家のなすべきことは、あることをただほんのしばらくの間だけ意識的にしてやるということである。精神療法家は無意識のものを――したがって精神的に無意識のものをも――意識させるのではあるが、それは必ず最後にはもう一度無意識に戻してやる前段階としてでなければならない。彼は無意識の可能態(ポテンチア)を意識の現実態(アクトゥス)にまで導いてやらねばならないのであるが、それは結局やはり無意識の常態(ハビトゥス)を作り出してやるためという以外の目的を持つものではない。精神療法家は無意識のうちに行なわれる行為の自明さを、最後にもう一度確立してやらなければならないのである。

ヴィクトール・フランクル『識られざる神』佐野利勝・木村敏訳、みすず書房、2002年、40-42頁。

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