江原啓之『人はなぜ生まれいかに生きるのか』

私たちは苦しいとき、辛いとき、また人生の節目の折々に神仏を求めます。
私たちが神を求める心、それは、私たちがなぜ生まれ、なぜ生きるのかに通じることなのです。
魂は、永遠の霊性の進化を続ける旅人であります。人間世界を第一の修行の場として、肉体の死を通過した後、幽界、霊界、神界と進んでいきます。しかし、同時に、神もまた永遠の進化向上を目指す愛の光なのです。
人間の私たちは究極の進化を想像するしかないのですが、それは多分個々の霊が無限絶対の大我に融合一致することであろうと、日本心霊学の大家、浅野和三郎先生は言っておられます。
その意味では、私たちは実は無限の大我を目指す未熟な神でもあるのです。この世のすべての人々は神という神性を肉体で覆った神なのです。
わかりやすく説明してみましょう。宝石を磨く行為を思い浮かべてください。一回一回磨くごとに、原石は澄んで輝きを増していきます。そして、原石を磨くたびに生まれる僅かな輝き、これがあなたの霊であり、光増す宝石が神なのです。
ですから、私たちはまだ磨かれていない霊を持った神なのです。そして霊性進化を続け、いつしか光輝く絶対の大我=神の粒子になることを目指しているのです。私たちがそれを忘れているのは、この世に生まれてくるときに、その記憶を捨ててくるからなのです。
私たちが生まれた目的を忘れ、孤独に泣いていたとしても、それはまた霊の世界の配慮なのです。
なぜならば、もしその目的などを知って生きているのであれば、私たちは自らの台本を演じるわざとらしい役者になってしまうでしょう。そこには大きな発見や感動、感情の目覚めがなくなってしまいます。
それでは霊の修行にはなりません。
真っ白になって生まれてきて、泣いたり笑ったり、苦しんだり感動したりしながら、自分の魂の目的を探す。これが私たちに課せられた人生の修行なのです。
人が神を求めるとき。それはこの世に生まれくるとき忘れてきた神への憧れであり、懐かしみからなのです。
もう、おわかりですね。
人は誰もみな、おちこぼれた天使であり、神なのです。
そして、神は霊界から我が子であるあなたをたった一人で、この厳しい現世に修行に送られたのではありません。
あなたが孤独に泣いているとき、あなたを確かに見つめ思いやる存在があります。
あなたがうちひしがれ、人生に絶望していても、あなたに寄り添う存在があるのです。
それが守護霊(背後霊)です。


江原啓之『人はなぜ生まれいかに生きるのか』ハート出版、1995年、105-107頁

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