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子どもの小さな変化に気づくことは、もっと誇ってもいいのだよ。

娘の変化に気がつくこと。
気づくというのは当たり前なんかじゃないのだ。
きっと、誰にというわけでもないけど誇ってもいいほどのことなんだ。

「ねえ、カルタしよう!」
朝の5時半。娘は「おしっこ」と寝ぼけまなこで起きて、トイレに行くとそのまま元気いっぱいに宣言した。

カルタをするには、朝早すぎる。

別に何時にカルタをしたっていいのだけど、これが相手をする僕の、単純な感想だった。
そうした少しの非難を込めた目で娘の顔を見てみると、すでに彼女はやる気まんまん。一歩も引く気配すらなかった。

仕方がない。
ここは潔く諦めて、一緒にカルタをやろう。それからお弁当を作ればいいや。と腹をくくり、3回、カルタをやった。

だけど、娘はいつもアグレッシブに飛び回りながらやるのだけど、今朝は動きが鈍い。
「あー。足が痛いなー」などと、いささかのんきに呟きながら、カルタをやっている。
足が痛いだとか、手が痛いだとか、いつも彼女は何かとぶつぶつ言うのだ。
例えば、牛乳のコップを取って欲しいとき。
「あー。足が痛くて動けないー。…牛乳とって」
と。

もはやオオカミ少年と化した娘の「痛い」だから最初は特に気にもとめていなかった。

だけど、ずっと「痛いなー」と言っているし、動きも鈍い。

***

無事にカルタも終え、いそいそとお弁当を作りはじめた。
いつもなら朝ごはんができるまで、TVを見たり、オモチャで遊んだりしながらおとなしく待っている。だけど今日は「だっこしてー」やら「ちょっと言いたいことあるんだけどー」と別に用もないのにイチイチ呼ばれる。

少しだけ、様子がおかしかった。

明らかな違いじゃない。
元気いっぱいだし、すごい勢いで粘土を引きちぎってはソファの上に撒き散らしているし、ひとりでお地蔵さんのマネとかして大爆笑しているし。

だけど、言葉にはできない、ほんの少しの違和感がある。

***

念の為、熱を計ってみた。
37.2度。
娘の普段の体温からしたら平熱だ。

気のせいかな、と思いキッチンに戻ろうとした僕の手を娘がつかんだ。

少し、熱い気がする。

もう一度、念の為と思い計り直してみた。

38.5度。

アウトだった。

***

すぐに妻とお互いの仕事の調整をしあい、小児科の手配をし、幼稚園に休みの連絡をいれる。
京都に来てから初の熱だが、この辺のやり取りのスムーズさは、東京での保育園時代に散々築き上げてきている。

娘は相変わらず元気いっぱいだった。
お土産で買ってきた美味しいアンパンもぺろりと平らげ、「ねえねえ、一緒に踊りましょ」と言いながら飛び跳ねている。
カルタもやるし、他のカードゲームも楽しんでいる。その後も熱は上がり39度を超えた。
それだけの高熱があるのに、なぜにそんなに元気なのかは大人には絶対に理解できない。

そんな中、妻がぽろりと言った。

「よく気がついたね」

もちろん、僕が気が付かなければ妻が気づいただろう。だけど、これだけ元気いっぱいだと、もっと後になってから熱があることに気がついてもおかしくはなかった。
明らかにグッタリしているとか、咳や鼻水がでるなどの症状があるわけじゃない。でも、小さなシグナルは節々に出ていた。

この小さなシグナルは毎日毎日娘と触れ合っているからこそ、気がつく類のものだ。”いつもと違う”というのは、”いつも”を知らなければ気が付かない。

世のママたちは、自然とそうした子どもの変化に気がつくだろう。パパだって、気がつく人は気がつく。だけど「やっぱりさすがママは細かなことに気がつくな」なんて、女性だから、母親だからと思い込んでしまっている人はきっと気が付けない。

子どもの小さな変化。

病気だけに限らないが、これは親だから気づく、ママだから気づくというものではないと思う。
小さな変化に気づくことができるほど、その子のことを見続けている証なのだ。

だから、子どもの変化に気づくというのは当たり前なんかじゃない。
きっと、誰にというわけでもないけど、誇ってもいいほどのことなのだ。


今日も、見に来てくれてありがとうございます。
夕方(発熱から12時間以上)に行った小児科で、無事インフル陰性の結果がでました。不幸中の幸い。
だけど、どうやら今月2回目の学級閉鎖になったようです。ああ、今週は完全に詰みました。腹をくくって、娘と一緒に養生します。
みなさまは、どうぞお身体に気をつけて。

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