人間関係に抱えていた違和感が腑に落ちた。『安心社会から信頼社会へ-日本型システムの行方』

『安心社会から信頼社会へ-日本型システムの行方』山岸俊男、中央公論社、1999年


はじめに

 この本を読んだのは、勝手に尊敬している山口一男先生が、山岸先生が亡くなられた時に発表した追悼文をたまたま読み、初めて(山口先生と山岸先生は親しかったんだ!)と知って驚いたから。そして山岸先生はわたしが北大に在学していた時、同じ学科のお隣の講座の教授だったのである。社会心理学の講座だった。

 在学中に山岸先生が非常に優秀な方だったことは薄々と分かっていたものの、その頃山岸先生とその講座に抱いていた印象は「山岸先生って嫌な感じはないけど凄く変わってる感じ」「講座所属の院生が精鋭集団」「助手の細身系美青年渡部さんがえらく若いけど、学部で飛び級したという噂がある」みたいなレベルで、さらにその頃文化人類学にしか興味がなく(多分だからわたしは、学問的には大成しなかったのだろう。学問で業を成すには、広範な知的好奇心と興味関心が必要だったのだと思う)、山岸先生の授業を受けたこともあるけれどとっつきにくくはなかったがやっぱり難しくて理解がぼんやりしていて、結局、山岸先生のご著書や社会心理学の文献はほぼ全く読まずに時を過ごした。

 いっこ、山岸先生に抱いている感謝の思いは、大抵いたたまれない気持ちにさせられる卒論発表会の際に、わたしの卒論におひとりだけポジティブな関心を示し、好意的な質問をしてくださったことである。

 山口一男先生の文章で20年の時を経て興味を喚起され、このたび元夫の連帯保証がめでたく解決して(後で記事を書きます)「やった!金を遣うぞ!」と思ってこの本を購入したのであるが、読んでみた内容は非常にエキサイティングで山岸先生はやばいくらい面白く、かつ考え込まされて真顔になるくらいちょっと深刻な気持ちにもなった。書きたいことは多岐に渡るが、今回は内容を絞って、少し個人的な人間関係やコミュニケーションについてあらためて考えさせられたことを書きたいと思う。

 ひとつお断りしておくが、山岸先生は、使う用語に相当注意を配ってお書きになられたと思う。わたしが下記で使う言葉は、直観的な分かりやすさを優先しているので、先生が使われた用語そのままではないし、ひょっとしたら間違いも含んでいる。その点はあらかじめお詫びしておく。


なぜ、警戒心と猜疑心の強い彼らがころっと他人を信じるのか

 この本の概要をまず述べる。これは「信頼」についての一連の人間科学・社会科学領域の研究の中に位置する研究で、「安心」と「信頼」という概念を区別し、それぞれが有利に働く社会集団の特徴やそこに適応する認知・心理の仕組みを解き明かしたうえで、日本の未来への危惧と希望を眺望した本である。

 「安心」は、ムラのような成員同士がよく見知った流動性の少ない社会において、この先に起こる物事の不確実性が低く想定の範囲内であるため、「相手は自分に酷いことをしないだろう」と「安心」すること。

 「信頼」は、流動性が高く関係する人が初めて出会う人ばかり、のような社会において、この先に起こる物事の不確実性は高くとも、相手の人間性や自分への感情含め、「相手は自分に酷いことをしないだろう」と「信頼」すること。

 この枠組みに立ち、山岸先生は様々な取引ゲームの形を取る実験を通じて、「安心」と「信頼」の内実を解き明かしていく。

 その結果、次のようなことが明らかになった。

「安心」を使う人の特徴①
・一般的な他人に対する信頼感が低い
・「人は基本的に、他者を害しても自分の利となるように行動する」と考えている
・ところが、「この人は信頼に足る人かどうか」という相手の人間性に関する情報への感度は、鈍い
「信頼」を使う人の特徴①
・一般的な他人に対する信頼感が高い
・「大抵の人は信用できる」と考える
・しかし、「この人は信頼に足る人かどうか」という相手の人間性に関する情報については、敏感に察知している

 ここでわたしがつくづくと考えさせられたのが、元夫と元彼氏のことだ。

 彼らは一見フレンドリーなのだが、親しくなってみると意外に内面は、他人への猜疑心が強い。よく悪口や不平、愚痴を吐露する。しかしどうしても理解できなかったのが、(えっ、なんでそんな人を信用するの?)みたいな人を、ころっと信用したりするところだ。

 例えば、元夫は過去従業員に損害を与えられて逃げられたことがあるのだが(まあ、そう元夫がこぼしていた、ということだ)、ある時書類整理の折に当該元従業員の履歴書を見つけてみると、(えっ……。そもそも何でこんな人を採用したの……?)と疑問を持たざるを得ない履歴の持ち主だったりするのだ。元彼氏も、「よく高額商品を買ってくれるお金持ちの人」と称賛するお客さんについて、よくよく話を聞いたりあとでお店で見かけたりすると、(これは収入が低いけれども基幹的ではない支出に多額のお金を費やしてしまうタイプの、若干危ない顧客では……)と思ってしまう人が結構いたりする。そんな彼らはわりとよく、お客さんに不払いを起こされたり、予約やリペアを受け付けて途中まで着手し、費用が発生した段階で連絡を絶たれたり、といったことに遭遇する。

 あと割と吃驚したのが、元夫は実は法学部出身なのだが法律知識があまりなく、金を払わないクレーマー顧客への督促状みたいな書面が、感情的な愚痴と非難が連ねてあるものだったり、元彼氏が「英語が堪能で経営のアドバイスもしてくれた」と語るかつての税理士さんだか司法書士さんだかが、あとで名刺を見せてもらったら不動産業で、(えっ……この人は宅建資格しか持ってない人だったのでは)と思った経験もある。専門性へのリスペクトなり感度なりが、低いのだ。

 わたしは彼らの、とても抜け目なさそうにデフォルトで準備しておいてころっと騙される、不思議な素直さというか間抜けさ、脇の甘さが不思議でたまらなく、どうしても理解できないところであったのだが、ひょっとして彼らは、他人の信用に「安心」を使うタイプの人だったのだろうか。「相手が信頼に足るかどうか」のシグナルをキャッチする感度において、とても鈍いところがあったから、だから(えっ、また?)みたいなことを何度も起こすのだろうか。そういえば、わたしは自分も含めて彼らの元妻・元関係した女が信用ならない相手だとは必ずしも思わないが、彼らはどちらも、やたら何度も結婚を繰り返すタイプなのであった。


他者理解に「共感」を使わない、という驚き

 研究を進めると、さらに次のようなことが明らかになる。

「安心」を使う人の特徴②
・集団内部の人間関係(誰と誰が仲が良いか、悪いか、など)を精度高く検知する
・よく知った仲間と一緒にいることに安心するが、それ以外にはあまり心を許さない
・他人との関係で波風を立てたり危険をおかしたりしたくない
・自分の人間関係はうわべだけで、孤独だと感じている
・対人関係の処理や調整を積極的に行わない
「信頼」を使う人の特徴②
・集団内の人間関係とは無関係に、相手をよく知らない状況で相手がどのような行動に出るかを精度高く予想する
・「世間に悪い人はそうそういない」と思っている
・あまりよく知らない相手とも積極的に付き合う
・自分の人生の舵取りや決断、問題対処にポジティブなイメージを持っている

 そして山岸先生は、データがまだ揃わないのではっきりとした結論は避けるべきだが、と断りを入れたうえで、次の可能性を示す。

「安心」を使う人の対人認知
・他者に対する共感性と強い負の相関を示す
・他者の好意の認知には「共感」を必要としない可能性がある
・表情やそぶり、声の調子など、外部に漏れ出した相手の内面についての情報を使って対人関係の性質を判断するのが得意だという可能性がある
「信頼」を使う人の対人認知
・相手の立場に身を置くという「認知的共感」「役割取得」を使って他者理解をしている可能性がある
・「共感」とは、「相手にとっての状況の主観的な意味を理解すること」と「その結果が相手にとって望ましいことなのかどうかを推測すること」の
2種類が含まれる

 このくだりまで来た時は、大きな衝撃を受けた。

 よくよく考えてみると、わたしは他者理解におそろしく「共感」を使っている。自分では、「憑依」とか「成り代わる」とかそういうイメージすらある。子供の頃からそうなので、他人や物語や歌の登場人物にシンクロした挙句号泣するようなことが、しょっちゅうあった。大人になってからも、友人に宮沢賢治の生涯を説明していたら、感極まって号泣したことがある(なんていうか、宮沢賢治の立場の引き裂かれっぷり-資本家と農民のどっちにもなれなさ、みたいなの-にシンクロした)。

 そんな訳なので、無意識のうちに、人はみんな他者理解に「共感」を使うものだと思っていた。けれどもしかして、元彼氏は「共感」を使えない人だったんじゃないだろうか。

 元彼氏との最後のやり取りは、単純化するとこんな感じになる。

「わたしはもう、あなたに傷つけられるのは嫌だ」
「OK、僕が君を傷つけたらちゃんと言って欲しい」
「いや、そうじゃなくて、それをもう何回もやってるから、傷つける前にやめて欲しい」
(いろいろくだくだしたやり取りの後で)
「言ってもらえないと気づかないかもね」
(衝撃。えっ?今まで伝えてきたのじゃソフト過ぎたの?)
「じゃあわたし、もっと強く怒ればいいの?」
「もうやめよう。君は興奮しているし too strong だ」
(さらに衝撃。ソフトに伝えると気づかなくて強く伝えると too much なの?)
「お願い、じゃあ自分で考えてよ」
「嫌だ。僕は自分のやってることは自分で分かってる」
(ソフトに伝えてもダメで強く伝えてもダメで自分で考えるのもダメなら、手詰まりじゃん……)

 でもこれ、彼が「表情やそぶり、声の調子など、外部に漏れ出した相手の内面についての情報を使って対人関係の性質を判断する」ってことで相手を認知するタイプだったのなら、理解できるな。それは、相手が怒って初めて「相手が怒った」と判断する、ということだから。

 わたしがずっとやってきたのは、「自分の行動によって相手が不快になったシチュエイション」「その何が不快だったか」「問題となるポイントと問題にならないポイントは何か」みたいな情報を、他者理解の情報として経験からすべて取り込んで、「何をやったら相手が怒るのか」をその場その場で相手に成り代わって推測して事前に避ける、みたいなことだったんだけれど、それらを情報として取り込んでいなくて、相手の発した怒りなら怒りのシグナルを検知して都度行動を変える、というやり方をしていたのなら、わたしのようなやり方を取って事前に避けろ、みたいなオーダーは、それこそ彼にとって「無理ゲー」だったのだろう。

 彼が相手の怒りや涙、ネガティブ感情を苦手としていたのも、そう考えれば理解できるな。だって、そういう「赤信号」みたいなシグナル、受け取るのは嫌だもん。辛いし。それらを「何がネガティブ感情を招くのか」という情報として取り込んでいかなければ、やっぱり「できれば出会いたくないシグナル」になるだろうし、「とにかく穏やかで怒ったり泣いたりしなくてヤサシイ人」を欲しくなるのも、道理だと思う。そんな人はいないけど。

 というか、ここで示した元彼氏の心理過程の理解が、まさにわたしの馴染んだ「共感」「成り代わる」ことによって相手を理解する、そのやり方そのままだ。


エクストリームな共感による他者理解の例

 ここからは少し、おまけの内容になる。

 よく考えてみたら、ここで展開した内容は、あまりにも「役割取得を使った他者理解の例」過ぎたな、と思った。わたしにはよく馴染んだやり方だったけれど、もしかして無理目な人もいるのかもしれない。気づかなかった。

 ここで使った「役割取得を使った他者理解」は、二転三転くらいの反射を繰り返している。①彼の語り→②その中に登場する元カノ・元妻に成り代わる→③元カノ・元妻から見た状況の再現→④元カノ・元妻の気持ちの理解→⑤から戻って、彼の人間性を理解するくらいの過程を経ているので。ちょっとエクストリームだった。

 けれど、わたしにはこのやり方は本当に役に立った。元彼氏の人間性を理解する時、自分の想像の中の存在ではあるのだが、2人の元妻さんを味方につけていたようなものだからだ。わたしは総勢3人の視点で、彼を判断して別れを決めた。

 彼は最初の奥さんのことを「正しいが、強すぎた」と言った。彼女の口癖は「I said」だったそう、つまり「わたしはちゃんと言ったのにあなたが聞かなかった」ということ。2番目の奥さんは「やさしいし一言も責めなかったが、コミュニケーションを遮断するタイプだった」。彼女の口癖は「もういい」だったそうだ。

 わたしは最初、彼は最初の奥さんとは正反対の人を次は選んだのかな、と思った。けれどしまいには、単純に最初の奥さんと2番目の奥さんの態度は、同じ事象に対する違った方向からの反応に過ぎなかったのだ、と理解した。何を言っても相手が変わらなければ、押す方向に行けば「I said」になるのだし、引く方向に行けば「もういい」になるのだ。だから多分、わたしの元彼氏理解は間違っていないだろうと判断した。わたしはどっちも言いたくなった、最後には。

 山岸先生の研究成果から、しまいにはわたしの下世話な事情に落としたが、先生はどう思われることやら。おそらくわたしが研究の徒であったら、こういう引き寄せ理解は邪道というか間違った引用なのだが(多分社会心理学の成果は、個人の事情に落とし込む類のものではない)、一般読者として考えれば、こうやって自分の身に引き寄せて読むのは正解であるような気もする。


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カバーフォトは、「みんなのフォトギャラリー」より、うすい よしき さんの写真を使わせていただきました。ありがとうございマス!

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