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#858 いいかげんにしゃれこうべ!

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

数多くの怨霊に取り憑かれ、ついに気絶してしまった巫女さん……。さまざまな介抱を試みていると、後ろから襟をつかまれ、引き倒されます。何奴!と見ると、「取次のオヤジ」が肩肘張って怒っています。お前は他人の介抱よりも自身の鼻先の腫れ物をヒルにでも吸わせるのが当然である!一体お前は批評の旨も知らないで、批評家気取りとは笑止の至りである!

先刻も隣室[リンシツ]にて聞けば、何ぢや、未来が如何[ドウ]仕[ツカマツ]ったの、人間の運命が斯う仕ったのと、美術家と卜者[ウラナイシャ]とをヌタにして、説教の胡椒ふりかけたやうな言分[イイブン]。さても怪[ケブ]な。長壽[ナガイキ]すれば、珍らしい談義を聞くわい。貴公の議論が定[ジョウ]ならば、高島嘉右衛門どのは途方も無い詩人。易[エキ]は歌よみの聖経[セイキョウ]、六韜三略[リクトウサンリャク]の虎の巻、まきそこねた太平楽、よい加減に為[シ]やれかうべ。これは為[シ]やれと曝頭骨[シャレコウベ]との洒落なり。

高島嘉右衛門(1832-1914)は横浜の実業家ですが、易学の占いでも有名で現在でも「易聖」と呼ばれています。横浜の高島町という地名は、彼の名が由来となっています。#426#542で、少しだけガス事業について紹介しましたが、1872(明治5)年、横浜のガス灯設置の際、当初はドイツのシュルツ・ライス商会がガス会社建設の申請をしていました。しかし、外国に権益を奪われることを憂え、「日本社中」を結成してガス会社建設の権利を得て、1870(明治3)年「横浜瓦斯会社」をつくりガス工場を建設したのは、高島嘉右衛門です。1871(明治4)年8月14日、工部省工部卿内の燈明台掛を改称して「灯台寮」が設置されます。1873(明治6)年には寮内に試験燈台が設置され、器機・材料の試験と同時に、燈台番の養成を行ないました。1874(明治7)年3月19日、明治天皇が、灯台寮の行幸の際、嘉右衛門の家の一角にあったガス局も視察します。宮内卿を通じて「ガス灯建築は未曽有の偉業である」と伝えます。民間人で天皇の拝謁を許されたのは、高島嘉右衛門が最初です。

古代中国の代表的な兵法書は「武経七書」と呼ばれており、『孫子』『呉子』『尉繚子』『司馬法』『李衛公問対』そして『六韜』と『三略』です。『六韜』は全3巻6部60編で成り立っており、6部の内訳は「文韜」「武韜」「龍韜」「虎韜」「豹韜」「犬韜」です。「秘伝が記された書物、転じて、解説が付された教科書」を「虎の巻」といいますが、その語源は、最も基本的な戦術が記された「虎韜」が元となっています。『三略』は上略・中略・下略で構成されています。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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