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#1382 無益の想像を繰り返すのをやめて正当に働こう!

それでは今日も幸田露伴の『露団々[ツユダンダン]』を読んでいきたいと思います。

しんじあという人は、明けても暮れても祈禱と説教にただ一筋に働く男です。恋を知らずば神を知らじ、神を知らずば恋を知らざらん。恋のはじめは神と人とに起こり、小さく説けば親と子の間に起こる。この心を長じて、男女を、国家を、天下を、後世を恋うまでも伸ばす者です。キリストも釈迦も真に恋しり、情けしりである。その流れを汲みながら心得ぬしんじあの恋しらず、るびなを恋う心なければ天下の女を、男を恋う心どこから湧き来るだろう。夫とは女の恋の焦点に当たる男、妻とは男の恋の焦点に当たる女、この焦点と焦点の一直線内にあることがまことの美しき配偶であろう。るびなとしんじあは、よき配偶であろうが、心得ぬしんじあの恋しらず、直線の外に出て、あらおぞまし。恋は鋭き鷹のごとし。よく放てば、君子を、道を、徳を得るが、空しく放てば、欲を追い、邪を追い、悪魔の手に帰す。鷹を放った人は、そのあとを付いて、高原を、幽谷を走り、険路の草の露と化して悪魔の生贄となること、心したまえ。しんじあは、ちぇりいからるびなの有様を聞き、煩悩に身を焼くばかり、清き心の白糸も恋に染まりて情けにもつれ、真紅に沈む憂きなげき。迷いの闇の道黒く、結ばれて解けにくい物思いだが、甘味ばかりでは料理はならず、直線のみでは絵はかけない。しんじあは暖炉の前のひじ掛け椅子に座り、眠るが如く首をうなだれ、るびなとかすかに呼んだまま、ふと振り上げて……「るびな、るびな、やはり鳩ばかり可愛がっているだろうか。余計な事だが何しろ鳩はよい……やさしき鳩、閑なる鳩、自分ながら訳がわからない。鳩まで可愛くなってきた。しかし鳩を愛する親切なるびなに愛される人間だもの、その親切の火にとかされて感化されて鳩好きになるのも当然かも知れない。このごろ、るびなが好きなものは皆好きになってきたが、自分ながら不思議だ。鳥や花にむかって一種の妙味のおもしろみを感ずるのも不思議だ。恋慕の眼鏡をかけると銀の腕輪は白金に、涙は真珠に、その人は天使にみえると詩人がいうが虚言ではない。いつぞやふたりで薔薇園を歩いたとき、るびなが『るびなの園の中に薔薇を育てているのではなく、薔薇のつゆの中にるびなが住んでいるのです』と言うので、『それならあなたを露中の女王としましょう』と言うと『女王の位を与える者は王でなければなりません』と答える。ああ、どうして機敏だろう。実に無量の味わいがある言葉だ。露……風には脆いもの……花……雨には悩むもの……るびな……ぶんせいむには勝てぬもの。奇怪なぶんせいむめ、憎いほど剛情な頑固の親父、どうしてくれよう。るびなも顔を見ることもできないし、声を聞くこともできない」と大きなため息をついて涙ぐみます。

さしも悶えにもだえたるしんじあの顔いつとなく和[ヤワラ]ぎて、
「妾[ワラワ]は尤も深く妾[ワラワ]を愛する人を愛すること尤も深く、尤も堅く妾[ワラワ]を信ずる人を信ずること尤も堅し。恐[オソラ]くは人もまた然[シカ]らん。されば一人深き愛と堅き信をなせる時は既に二人は一躰[イッタイ]となりしものなりといふ事を疑はず。ごりやすとだびッとを共に置くには曠野[コウヤ]も猶[ナオ]足らざれど、せんせりにあとぺるしやのぷりんすを相納[アイイ]るゝには小塔[ショウトウ]も猶[ナオ]餘[アマリ]ありといへば、愛と信とは離れたるものを合し遠き者を近くすることは愈々[イヨイヨ]疑ふべからざることなり。故に妾[ワラワ]は彼人[カノヒト]と遠ざかりたるを眞[シン]に悲む。されど憂へず。彼人[カノヒト]と會[ア]ひ難きをいたむ。されど恐れず。たヾ自己[オノレ]の愛と信の深く堅からざるを憂ひ恐る。噫[アア]何とて彼人[カノヒト]を強[シイ]るが如き事と擾[ミダ]すが如き事をなさんや。ちェりいよ汝の深切なる助言は嬉しけれども、妾[ワラワ]はただ妾[ワラワ]の愛と信とを深からしめ堅からしむべきのみ。花能[ヨ]く香ばしからば蝶自[オノズカ]ら来[キタ]らん。露まことに清[キヨ]くんば月盍[ナン]ぞ宿らざらんや。」……
あゝいゝ流石にるびなの答へだ。此の返書にはちえりいも怜悧の女だが閉口したのだ……噫[アア]かへす/\も無益の想像を繰り返すのをやめて正當[セイトウ]に働かう。考へ直して見れば平和で、安楽で、愉快で、荘厳な望[ノゾミ]のあるしんじあの身だ。ぶんせいむを恨むにも愚痴を繰り返すにも及ばない。勤めやう働かう。しんじあはしんじあの道を歩まう。
と云ひつゝ立つて机に對[ムカ]ひ、手にまかせて取りたる書を開けば、「われ汝を教へ、汝を歩むべき道に導き、吾が目を汝にとめて喩[サト]さん。汝等[ナンジラ]辨[ワキマ]へなき馬の如く、驢馬[ロバ]の如くなるなかれ。彼等[カレラ]は轡[クツワ]手綱の如き具[グ]をもて引止[ヒキト]めずば近づき来[キタ]ることなし。」

というところで「第十五回」が終了します。

さっそく「第十六回」へと移りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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