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#809 技術と観念とを兼ね備えてこそ詩人である!

それでは今日も坪内逍遥の「梅花詩集を読みて」を読んでみたいと思います。

逍遥は、詩人の世界を、「心の世界」と「物の世界」に分けます。「心の世界」は「虚の世界」にして「理想」であり、「理想」を旨とする者は「我を尺度」として「世間をはかる」。彼等を総称して「叙情詩人(リリカルポエト)」とし、天命を解釈する「一世の預言者」とし、「理想家(アイデアリスト)」とします。「叙情詩人」は、作者著大で、「理想」の高大円満であることを望み、一身の哀観を歌い、作者の極致が躍然し、万里の長城のようである。「物の世界」は「実の世界」にして「自然」であり、「自然」を旨とする者は「我を解脱」して「世間をうつす」。彼等を総称して「世相詩人(ドラマチスト)」とし、造化を壺中に縮める「不言の救世主」とし、「造化派(ナチュラリスト)」とします。「世相詩人」は、作者消滅し、「理想」の影を隠し世態の著しさを望み、小世態を描き、作者の影を空しくして、底知らぬ湖のようである。我が国には短歌・長歌・謡曲・浄瑠璃等あるが、一身の哀観を詠ずる理想詩にとどまり、現実を解脱できていない。このたび、梅花道人があらわした新体詩は物象を解脱し造化を釈す試みは、まず喜ぶべきである、と。山田美妙や宮崎湖処子の新体詩は造語造訓が難渋であるがために理解されない事が多いが、梅花道人の作はこれと異なり所々死語を活かし、大体を純然たる国文調にして、荘子のような楽天詩人であること火を見るより明らかである。

予は敢[アエ]て観念のみを崇めてそを歌詩[ポエトリー]なりといふものにあらず。技術と観念とを兼具[ケング]して始めて詩人あるを知れるものなり。併しながら予が叙情派の詩人に向[ムカ]ひて望む所の技倆は他の造化派の詩人に向ひて望む所のもの程には多大ならんことを要せず。さるは彼れ造化派の詩人には常に全く自我を脱して各種の性情[カラクタル]を霊寫[レイシャ]すべき至難の大任[ダイニン]の在るが故に多般の大技倆を要すべきなれども此れは懐抱[カイホウ]の主観相(観念)を取りて之を有形にし之を総合し之を霊活[レイカツ]に描寫[ビョウシャ]し得て他を感孚[カンフ]すれば足れるが故に技能比較的に単純にして強[アナガ]ち偉大なるを要せざるなり。今や梅花道人は前派[ゼンパ]に属せずして後派[コウハ]に属す。熟々[ツラツラ]道人の作を撿[ケン]するに其[ソノ]「九十九[ツクモ]の媼[ウバ]」や其「静御前[シズカゴゼン]」や之を寫性情[シャセイジョウ]の韻文[インブン]としても多少の趣味[オモシロミ]なきにあらねど其宗[ソノムネ]とする所を叩かば彼等が本来の性情にあらで寧ろ作者が之を假[カ]りて理想を歌ひたる所にあるもの〻如し。予は道人が叙情に巧[タクミ]にして理想を描敍[ビョウジョ]するに妙[タエ]なるを認むると共に他[タ](即ち人間の性情)を霊寫することに短[タン]なるを認め其叙情派の詩人に属して造化派の詩人に属せざることを爰[ココ]に批断[ヒダン]するを憚[ハバカ]らざるなり。是予が道人を評するに其想[ソウ]に重きを置き其想を批判せんとする第一の理由なり。次に其詩律の美醜の如きも素[モト]より批評すべき限[カギリ]なれども今や詩文の本領をもて単[ヒトエ]に彫琢[チョウタク]の小細工[コザイク]に在りとし専[ムネ]と風姿を論ずる人雲[ヒトクモ]の如く又霞[カスミ]の如く到處[トウショ]其人に乏しからず。予が粗俗[ソゾク]なる嗜好[テースト]をもて爰[ココ]に姿形[シケイ]の微[ビ]を判ずる要無し。況んや道人の詩形はをさ/\古今の美を抽[チュウ]して波瀾あり抑揚あり頓挫あり變化あり。假令[タト]ひ雅俗[ガゾク]の折衷塩梅[セッチュウアンバイ]未だ虹彩の相没[アイボッ]して接目[ツギメ]の見えざるが如くならぬも頗る将来の詩形たるに適ひて磊砢瓢逸豪放[ライカヒョウイツゴウホウ]なるが中[ウチ]にまた太[ハナハ]だ優美高雅なる所あるをや予は敢[アエ]て詩形を評せざるべし。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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