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#872 革命者の勢力の源は、小天地想にあり!

それでは今日も森鷗外の「逍遙子の諸評語」を読んでいきたいと思います。

因[チナミ]にいふ。國會文苑に出でし戲曲論中、戲曲の標準の條にて、忍月居士は逍遙子の所謂「ドラマ」をさながらに戲曲のことゝ看做[ミナ]して反駁を試みつ。こは逍遙子が言に、今の批評家狂言作者に向ひて「ドラマ」を求むるは底事[ナニゴト]ぞとありしに据[ヨ]りたるなるべし。されど逍遙子が所謂「ドラマ」には、單に戲曲といはむよりは廣き義あり。忍月居士はそを認めざりしにや。
逍遙子が叙情、世相の二派、ハルトマンが叙情詩、叙事詩の二門に當れることは既にいひき。然れども更に其區別の立てかたをとみかうみるに、いまだ其義を悉[ツク]さゞるところあらむを恐る。われ思ふに所謂叙情と世相との目には、別に普通の意義にて理想、實際の兩語に當れるところあるべし。
ゴツトシヤルのいはく。造化を模傚[モホウ]し、實を寫すことより出づるを實際主義といひ、理想の世界、精神の領地より出づるを理想主義といふ。(詩學上卷九九面)是れ逍遙子が所謂自然を宗とする世相派と理想を宗とする叙情派とに通へり。又いはく。實際主義に偏したるものは、心なき造化を宗としたる美術品を得べく、理想主義に偏したるものは、造化なき心を宗としたる美術品を得べし。(同所)是れ逍遙子が所謂管見の小世態を描くものと、一身の哀歡を歌ふものとに近し。
ハルトマンは理想派、實際派の別を認めず。彼は抽象を棄てゝ結象を取り、類想を卑みて個想を尊めり。嘗て美術の革命を説いていはく。革命者實際主義といひ、自然主義といふものを奉ずるは、其假面のみ。自然には個物ありて類なし。この故に美術を以て模傚となすは、固より謬見なれど、其謬見中にては自然を模傚せむとするこそ抽象したる類型を模傚せむとするに優りたれ。類には實なくして個物には實あり。この故に極致をみだりなりとして、實を美術の材にせむとするものは、おのづから類想を遠離[トオザカ]りて個想に近寄らむとす。革命者の勢力は其源、小天地想に在り。その妄なりとして棄てし極致は類の極致のみ。革命者は類の極致の外、別に個物の極致あることを知らざるなり。美は實を離れたる映象なれば、美術に實を取らむやうなし。想の相をなすとき、實に似たることあるは、偶然のみ。個物の美、類の美より美なるは、實に近きためにあらず。實の美なること類美の作より甚しきは、實の結象したる個物に適へること作に勝りたればなり。(審美學下卷一八八及一八九面)

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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