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#957 同じ過失を繰り返すこと、人生の弱点なり

それでは今日も坪内逍遥の「没理想の由来」を読んでいきたいと思います。

逍遥は、エドワード・ダウデンの『文学の解釈』の一文を取り上げたあと、こんなことを言います。

この意はわが「底知らずの湖」と稍〻同じきに似たり。さてまた、その次には、シェークスピアの作を、或一観念、又は或抽象の論より成れるものとして解釋することの危険なる由をいひて、三四の批評家の解釋をしりぞけたる、其の言[コト]頗るわが意と投ぜり。もとより演繹的解釋の誤り易きことは、今に始まれることにあらねど、よし一個人としてはさもあらぬとも、社會としては、同じ過失[アヤマチ]を繰り返すこと、人生の弱點なり。演繹法をもて、算數學の特権なり、と断言せんは、固よりいひ過ぎなるべけれど、尚常人がシェークスピアといふ小造化を読まんと試むる時に於ては、ドウデンが論もめでたきに似たり。人を狂人と假定して、人間を観察せば、何れの處にか、その演繹の材なからん。人生を穢土と假定して、宇宙を観察せば、何れの處には、その演繹の材無からん。人間の數は、星の多きよりも多く、宇宙の大なるは、海の廣きよりも廣ければなり。シェークスピアは猶造化のごとし、演繹の法のみによりて釋すべからざるや、まことにドウデンが言の如し。これわが當時の所感なりき。ドウデンまたいへらく「大作者の各種の著作を看破し、されその著作の全體に及ぼし、それよりまた進みて、作者その人に及ぶ、これを批評の正當順序とす」と。この説今はめづらしからず、早うテーンも唱へたれば、サーンブーヴ、カーライル等が批評法、あるはまた十九世紀に於ける、獨逸なる名家の批評法は、大むね此の境のものなるべし。

「サーンブーヴ」は、フランスの文芸評論家シャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ(1804-1869)のことです。従来の印象に基づく批評ではなく、生い立ち・環境・思想などの背景、また、伝記・書簡などの資料を駆使して、作品の本質を学問的に追及し、「近代批評の父」と呼ばれました。

而も、十九世紀の諸批評家の説が、靡然として同じ方向に向かふを見れば、頗る意を強うするに足るとぞ思ひし。これと同時に、モールトンが帰納的批評の論をも讀みつ。よりて十九世紀の批評の法は、いよ/\此の方角に向かひたりと思ひしかば、人身攻撃を、批評とひとしなみに思ひ、又は、瑕疵のみをあなぐり求めて譏誚するを、批評と思ひ、若しくは、褒貶することをのみ批評なりと心得たるわが幼稚なる文壇に取りては、一わたり帰納批評を紹介せんも、多少益無きにあらじとて、すなはち「梓神子」といふ戯文一篇を物して、且われを叱し、且世を諷して、思ふところをほのめかしき。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!


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