見出し画像

#868 逍遥と鷗外の食い違いはここから始まった!

それでは今日も森鷗外の「逍遙子の諸評語」を読んでいきたいと思います。

鷗外は、逍遥の「小説三派」の三分類、すなわち固有派・折衷派・人間派を、ハルトマンの哲学に当てはめ、固有派を「類想」、折衷派を「個想」、人間派を「小天地想」と言い換えます。

然はあれど固有、折衷、人間の三目は逍遙子立てゝ派となしつ。類想、個想、小天地想の三目は、ハルトマン分ちて美の階級としつ。二家はわれをして殆[ホトンド]岐に泣かしめむとす。
ハルトマンが類想、個想、小天地想の三目を分ちて、美の階級とせし所以は、其審美學の根本に根ざしありてなり。彼は抽象的[アプストラクト]理想派の審美學を排して、結象的[コンクレエト]理想派の審美學を興さむとす。彼が眼にては、唯官能上に快きばかりなる無意識形美より、美術の奥義、幽玄の境界なる小天地想までは、抽象的より、結象的に向ひて進む街道にて、類想と個想(小天地想)とは、彼幽玄の都に近き一里塚の名に過ぎず。

逍遥は、固有派は肢体、折衷派は五感、人間派は魂の如しと言い、また、固有派は文人画、折衷派は密画、人間派は油画の如しと言い、そして、固有派は常識(広くて浅い)、折衷派は諸科の理学(狭くて深い)、人間派は哲学(広くて深い)の如しと例えます。そして、このように言います。

併[シカ]しながら此等の比喩は其質を評せるのみ、必しも三派の優劣をいへるにあらず。

逍遥は優劣なしと言っているのに、鷗外は「分類」の名称を変えるどころか、「階級」を設けてしまうんですよ!

ハルトマンのいはく。類想の鑄型[イガタ]めきて含めるところ少く、久く趣味上の興を繋ぐに堪へざること、眞の美の僅[ワズカ]に個想の境に生ずることをば、今や趣味識の經驗事實なりといひても、殆[ホトンド]反對者に逢はざるべし。類想の模型には盡くる期あり。後れて出づる美術家は樣に依りて胡盧[コロ]を畫くことを免れず。(審美學下卷一八七面)ハルトマンは類想を卑みて個想を貴みたり。
ハルトマンのいはく。個物には階級あり。高下一樣ならず。その最[イト]低きものと最[イト]高きものとは、人の觀念の及ばざるところなれば、個物を見るごとに、これより高きものなきことなく、又これより低きものなきことなし。個物は高しといへども類にあらず。個物は具實せるものにて、類は抽象したるものなり。最高最下の間なる個物は、おのれより下れる個物を包みて肢節[シセツ]とすること、大天地想の世にありとあらゆる個物を包みて肢節とする如くなり。彼は梯[ハシゴ]を隔てゝ大天地を望めり。されば個想は絶對結象の想にあらざるゆゑに分想[パルチヤアルイデエ]なれども、又小天地の完想として見らるべし。(同上一九五面)ハルトマンは眞の個想を、おのづから小天地想たるべきものと看做[ミナ]したり。蓋[ケダシ]人事の間に後先ありて因果なきは、因果なきにあらず、因果のいまだ充分にあらはれざるものにて、小天地想ならざる個想は、即是れいまだ至らざる個想ならむのみ。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?