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#1474 その四は、感応寺建立の経緯を説明するところから……

それでは今日も幸田露伴の『五重塔』を読んでいきたいと思います。

今日から「その四」に入ります。それでは早速読んでいきましょう!

其四

当時に有名[ナウテ]の番匠[バンジョウ]川越の源太が受負ひて作りなしたる谷中感応寺の、何処[ドコ]に一つ批点[ヒテン]を打つべきところ有らう筈なく、五十畳敷格天井[ゴウテンジョウ]の本堂、橋をあざむく長き廻廊、幾部[イクツ]かの客殿、大和尚が居室[イマ]、茶室、学徒所化[ガクトショケ]の居るべきところ、庫裡[クリ]、浴室、玄関まで、或は荘厳を尽し或は堅固を極め、或は清らかに或は寂[サ]びて各々其[オノオノソノ]宜しきに適ひ、結構少しも申し分なし。そも/\微々[ビビ]たる旧基[キュウキ]を振ひて箇程[カホド]の大寺[ダイジ]を成せるは誰ぞ。法諱[オンナ]を聞けば其頃の三歳児[ミツゴ]も合掌礼拝[ガッショウライハイ]すべきほど世に知られたる宇陀[ウダ]の朗圓上人[ロウエンショウニン]とて、早くより身延[ミノブ]の山に螢雪[ケイセツ]の苦学を積まれ、中ごろ六十余州に雲水の修行をかさね、毘婆舎那[ビバシャナ]の三行[サンギョウ]に寂静[ジャクジョウ]の慧劒[エケン]を礪[ト]ぎ、四種[シシュ]の悉檀[シッタン]に済度[サイド]の法音[ホウオン]を響かせられたる七十有余の老和尚。骨は俗界の葷羶[クンセン]を避くるによつて鶴の如くに痩せ、眼[マナコ]は人世[ジンセイ]の紛紜[フンウン]に厭[ア]きて半[ナカバ]睡れるが如く、固[モト]より壊空[エクウ]の理を諦[タイ]して意欲の火炎[ホノオ]を胸に揚げらるゝこともなく、涅槃[ネハン]の真[シン]を会[エ]して執着の彩色[イロ]に心を染まさるゝことも無ければ、堂塔を興し伽藍[ガラン]を立てんと望まれしにもあらざれど、徳を慕ひ風を仰いで寄り来る学徒のいと多くて、其等[ソレラ]のものが雨露[アメツユ]凌がん便宜[タヨリ]も旧[モト]のまゝにては無くなりしまゝ、猶少し堂の広くもあれかしなんど独語[ツブヤ]かれしが根となりて、道徳高き上人の新[アラタ]に規模を大[オオキ]うして寺を建てんと云ひ玉ふぞと、此事[コノコト]八方に伝播[ヒロマ]れば、中には徒弟の怜悧[リコウ]なるが自ら奮[フル]つて四方に馳[ハ]せ感応寺建立に寄附を勧めて行[アル]くもあり、働き顔に上人の高徳を演[ノ]べ説き聞かし富豪を慫慂[スス]めて喜捨せしむる信徒もあり、さなきだに平素[ヒゴロ]より随喜渇仰[ズイキカツゴウ]の思ひを運べるもの雲霞[ウンカ]の如きに此[コノ]勢[イキオイ]をもつてしたれば、上諸侯[カミショウコウ]より下町人[シモチョウニン]まで先を争ひ財を投じて、我一番に福田[フクデン]へ種子[シュシ]を投じて後の世を安楽[ヤス]くせんと、富者は黄金[オウゴン]白銀[ハクギン]を貧者は百銅二百銅を分に応じて寄進せしにぞ、百川[ヒャクセン]海に入るごとく瞬く間[ヒマ]に金銭の驚かるゝほど集りけるが、それより世才に長[タ]けたるものの世話人となり用人[ヨウニン]となり、万事万端執り行ふて頓[ヤガ]て立派に成就しけるとは、聞いてさへ小気味のよき話なり。

ということ、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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