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#958 没理想という新熟語、なんの説明も添えずして……

それでは今日も坪内逍遥の「没理想の由来」を読んでいきたいと思います。

されば「梓神子」に見えたる翁は、其の實逍遥に非ずしてテーン、ドウデン、モールトンなどいふ、尤も多く我れを動かしゝ新批評家を代表せる、假作的人物にして、逍遥は単に戯文を艸したる作者なりき。さてまた、彼の神子の媼は、明治廿四年の文學を代表したる、假作的人物にて、現代の諸名家をはじめ、未出生の英才をも含め、且は作者といふ資格にては、自家をもその中に加へたりき。森鷗外君は、わが「小羊子の白日夢」を、険語のやうに解せられしが、もはら他人を嘲らんとて、みづから貶[オト]すといふが如き筆法は、わが屑しとせざるところなり。廿四年以後のわが雑著は、おほむね、自問自答、自難自駁の筆に成りしものなり。
同じ年の十月、はじめて『早稲田文学』を発行するや、われシェークスピアの作『マクベス』を評註せんと企てき。されど、今は演繹批評の誤り易きを思ふこと、更に舊日に幾倍しぬれば、わが小世界のみを見て我れ以外の世界を見ざるならひとて、わが平生用ひなれて、親しきどちの談莚にては、間々[ママ]口にせしこともありし、没理想といふ新熟語は、世の人も、已によく知りたらんやうに獨合點して、何の説明も添へずして、評註の緒言に用ひ、理窟の評判は、正鵠を得やすからず、没理想の作を評するに、予は理窟をもてせじ、とわきまへにき。シェークスピアを論ずるが主ならざりしは、前にもいへる如し。蓋し、われはシェークスピアをもて、小造化と思へるが故に、わが彼れを評し得るまでには、尠くとも尚十餘年の星霜を要すべしと為し、軽々しく口を開くことを禁めたり。四十年かゝりぬといふ、ハドソンの説にすら、あかぬ思ひのあればなりけり。
われおもへらく、理想見えたるか、見えざるか、といふことを主として、シェークスピアの傑作を見れば、猶造化の本相の窺ひがたきがごとく、今日に至るまでの經見の結果は、見えずと答へざるを得ざるべし、即ち没理想なり、シェークスピアの傑作の一面が、没理想なることは争ふ可からず。よりて思ふに、ドラマの作家たるもの、若しそが性情と理想とを、その作中に没却して、容易く見えざらしむること、シェークスピアが傑作の如くならば、これを呼びて没理想たること、シェークスピアにひとし、といふも不可なからん。没理想のみが、ドラマの本領美をなすにあらねど、没理想をもてわが修行時の目的となすも妨なしと。こゝに見えざらしむといふは、強ちにしかする意にはあらず、自[オノズ]からしかるをいふなり。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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