見出し画像

#964 ライフの本体は、単と復のパラドクス

それでは今日も坪内逍遥の「没理想の由来」を読んでいきたいと思います。

逍遥は、未詳氏が1884年に出版した書物のシェークスピアを論じる文を、再び引用します。

さりながら、尠くともシェークスピアの場合にては、當たれりと見ゆ。論者また或はいはん、批評の學進みて此かた、シェークスピアが脚本の倫理的位置と深意とは、次第に指摘せらるゝに至りぬと。吾人は之に答へていはく、シェークスピアに於ける批評の歩武は、いよ/\進めば、いよいよシュレーゲルが當初の概念、(即ち彼れを美術家なりとせる概念)、幷に彼れの智は彼れが無意識の天才に匹敵せりしか、しからざれば、更に優れりしならん、といふコールリッジが見解を堅うする傾きあり。シェークスピア批評の歴史は、世界の歴史に似たり、そを深鑿すること、いよ/\深ければ、そが發揮し来たるところ、いよ/\邃[トオ]うして、いよ/\美し。何となれば、件の歴史の全體は、次第にシェークスピアが本相を發揮闡明[ハッキセンメイ]し来たり。先づ外面の美よりはじめて、意味深長なる内面の結搆に及び、遂に未だ夢想せられざりし、揣摩[シマ]だに及ばざりし、一層高等なる唯一[ユニチー]をも發揮し来たればなり。さてかゝる進歩は、彼の大詩人を知らんとする吾人が口實を滅却するものにあらずして、却りて未来に於て同様の進歩あるべきを約束するものなり。
いでや、シェークスピアに近づきて視ん。吾人は彼の圓満なる意味に於て、神聖美術(按、宇宙)を摸倣し得たり、と断言し得べき、好[ヨキ]道理をもてりや。

この引用部分に対して、逍遥は言います。

按ずるに、「圓満なる意味にての摸倣」とは「第三級の摸倣」に対する、第二級の摸倣をいふなり。鷗外君の所謂個物の實の摸造、物力の實の摸作とは、第三級の摸倣の謂なり。第二級の摸倣とは、外形の摸倣以上をいふなり、即ち、常住不易なる先天の理を摸倣するをいふなり。所謂神を師とし、貌を師とせざるもの是れなり。

逍遥は、再び引用をはじめます。

吾人はシェークスピアの美術は、彼の一元二相の性質のものなり、といひ得べきか。美術と観念との相関、さしも深く且邃うして、そが美術に関しては、吾人を唯物論者たらしむる計りに、シェークスピアは幻[マボロシ]の美に富みたり、といひ得べきか。そも/\また彼れが美術は、real unreality(實にして虚なるもの)か、これによりて、吾人は常に、無言崇厳[ムゴンスウゴン]なる冷刺にいであひ、嘲弄せらるゝことを免れず。吾人は此の語逆理順[パラドックス]の言葉を屡々用ふることをことわらじ、何となれば、生活[ライフ]の本體は、単と復との語逆理順、有形の虚と無形の實との語逆理順たるに外ならざればなり。

引用部分に対して逍遥は言います。

原文やゝ険晦にして、譯文はた晦渋なり、讀者恐らくは意の在るところを看出だすことを難んぜんか。原文の大意は、シェークスピアの作は、實にして虚なり、かくいはば逆説の如く聞えんが、人生の本相の、虚にして實なる以上は、かくいふこと止むを得ざるなり、語逆理順的に成れるものが、造化の本體なり、造化の本體を評する言葉は、語逆にして理順ならざるを得ずとなり。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?