#863　ようやく没理想論争前哨戦の舞台が整ったぞぉ！

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

本日、いよいよ『梓神子』読了です！ちょっとだけ長くなりますが、最後まで一気に読んでいきますよ！

巫女に取り憑いた作家の怨霊の嘆きを主人公が次々と批判し続けた結果、大量の怨霊に取り憑かれた巫女はついに気絶します。主人公が介抱していると、突然「取次のオヤジ」が現れ、これまでの主人公の批評の仕方を非難する、というどんでん返しの展開！文章脚色のみを批評するのは評の一部であり、小説の性質として顕著普通を要するのも一部である。ホメロスの規矩・規準から外れているものは叙事詩ではないというのも偏見であり、シェークスピアの作を標準とするのも偏見である。批評は須らくその作の本旨の所在を発揮することをもって専とすべしである。馬琴を近松を西鶴を評するのも、かくの如くすべしである。演繹的専断批評の世は逝き、帰納的批評の代が近づいている。とりわけ「没理想」の詩すなわちドラマを評するには、「没理想」の評すなわち帰納評判を正当とする。

夫[ｶ]の理想詩[ｱｲﾃﾞｱﾙ･ﾎﾟｴﾄﾘｰ]は益[ｴｷ]あれども害なし。特[ﾋﾄ]り理想評判[ｱｲﾃﾞｱﾙ･ｸﾘﾁｼｽﾞﾑ]に至[ｲﾀﾘ]ては、當代[ﾄｳﾀﾞｲ]の詩人を誤[ｱﾔﾏ]らしめ兼[ｶﾈ]ては前代の詩人を損[ｿｺﾅ]ふ。其罪[ｿﾉﾂﾐ]いと大なり。斯[ｶｸ]いへばとて貴公此論[ｺﾉﾛﾝ]をもて直[ﾀﾀﾞﾁ]に作者の心得[ｺｺﾛｴ]とすべきものなりと思ふこと勿[ﾅｶ]れ。これは科学的批評家の心得なり。批評家の心得と作者の心得とは別なり。批評家の眼中より見れば、作者は没理想といふことを主とするも元より不可無く、勧善懲悪といふことを主とするも不可なく、唯[ﾀﾀﾞ]美是[ｺﾚ]寫[ｳﾂ]さむと力[ﾂﾄ]むるもよかるべし。作者としての作者の心得に就いては別に論あり、爰[ｺｺ]には只批評家の本分をいふのみ。悉[ｸﾜ]しくいへば、批評家は猶[ﾅ]ほ植物家の植物を評する如く、動物家の動物を評する如く、理想を離れて其物[ｿﾉﾓﾉ]を評すべし、といふのみなり。云々[ｼｶｼﾞｶ]の作は世に益あり、又は益無しといふは、當世[ﾄｳｾｲ]又は未来世[ﾐﾗｲｾ]に対しての評判なり。これは科学的批評にあらずして、實地應用批評[ｼﾞｯﾁｵｳﾖｳﾋﾋｮｳ]などゝいふべし。純粋評判と應用評判との間に別あること、猶[ﾅｵ]純粋哲学と應用哲学との間に別あるが如くなるを知れかし。此外[ｺﾉﾎｶ]いふべき事山々あれど、老人甚だ疲れたれば、此位[ｺﾉｸﾗｲ]にして尻切蜻蛉[ｼﾘｷﾚﾄﾝﾎﾞ]とす。ヒュードロ／″＼。といふかと思へば、老爺[ｵﾔｼﾞ]頭[ｽﾞ]てんどうとひるがへりて、アと一聲[ﾋﾄｺｴ]を名残りに、けろりかんたる元の取次老爺[ﾄﾘﾂｷﾞｵﾔｼﾞ]となり、批評の批の字も知った顔附[ｶｵﾂｷ]見えず。

巫女さんが気絶してしまったからでしょうか、彷徨う怨霊が、どうやら、取次オヤジに取り憑いていたようですね……

いつの間にか蘇へりたる巫[ﾐｺ]も立あがりて、急須[ｷｭｳｽ]、茶碗たづさへいで、おひとつ召しあがりませといふ顔、徒[ﾀﾀﾞ]の媼[ﾊﾞﾊﾞ]にかはりし所なし。嗚呼、これがまことの没理想の作者と批評家との本相[ﾎﾝｿｳ]か、生[ﾅﾏ]ざとりの輩[ﾔｶﾗ]の遠く及ばぬ所、と信心膽[ｷﾓ]に銘じ、其日[ｿﾉﾋ]は思案に沈みて家に帰りしが、忘れたるやうに怨霊の怪異[ｹｲ]は薄らぎぬ。しかはあれど人魂[ﾋﾄﾀﾏ]のとびかふこと今もなほ絶えずと聞けば、いつまた戻り来[ｺ]んも知る可[ﾍﾞｶ]らず。お染[ｿﾒ]留守とかやいへる護符にならはヾ、理想不在とかきてや貼らん。忌[ｲﾏ]はしの流行風[ﾊﾔﾘｶｾﾞ]。勿吹[ﾅﾌｷ]そ、勿吹そ。

というところで、『梓神子』は終わります！

結局、「取次老爺」に取り憑いたのは、誰の霊だったんでしょうね……

1889(明治22)年5月、ロシア帝国支配下だったブハラで最初に確認され、瞬く間に世界中に拡がったのが、いわゆる「ロシア風邪」です。1890(明治23)年の冬から、日本でも流行し始めます。当時、流行り風邪には流行り言葉を当てることがあり、このとき、歌舞伎・浄瑠璃で「お染久松」という演目が人気を集めていたため、「お染かぜ」と呼ばれました。実際の出来事を題材にした悲恋もので、豪商の娘・お染と丁稚奉公人の久松の身分違いのラブストーリーです。で……お染の名が冠された風邪の侵入を防ぐには、どうすればいいか！久松が家の中にいなければ追っては来るまい！ということで、家の軒に「久松留守」と書かれた札を貼るまじないが流行りました。「お染久松るす」や「お染御免」と書かれる場合もありました。

ちなみに1918(大正7)年から世界中で流行した、いわゆる「スペインかぜ」の時になると、内務省衛生局が、現代と全く遜色のない近代的な予防法を啓発します。

1.近寄るな - 咳[ｾｷ]する人に
2.鼻口[ﾊﾅｸﾁ]を覆へ - 他[ﾋﾄ]の為にも・身の為にも
3.予防注射を - 転ばぬ先に
4.含嗽[ｳｶﾞｲ]せよ - 朝な夕なに

ということで、これでようやく、没理想論争前哨戦の材料が揃いましたね！

いやぁ～長かったなぁ～ｗ

さて、逍遥の「小説三派」「底知らずの湖」「梅花詩集を読みて」「梓神子」の四作に関して、このあと、森鷗外が、「しがらみ草紙」第24号(明治24年9月25日)で、「逍遥子の新作十二番中既発四番合評、梅花詩集評及梓神子」と題して批評を行なうのですが……それに関しては……

また明日、近代でお会いしましょう！