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#839 ちょっとだけ石鹸の話

坪内逍遥の『梓神子』には、こんな一文があります。

暫らく伽羅[キャラ]の香りゆかしく、口紅の花咲かせ、粋[スイ]さまの美形拝[オガ]ませて、蟹文字[カニモジ]生[ナマ]よみの甲斐しょ無し、八方に走らせつ。……しゃぼん臭き當世[トウセイ]に、梅花の油芬[プン]とにほはせ、あゝ善[ヨ]う水[ミズ]手向[タムケ]てくれけるぞや。

油は、鎌倉時代から整髪料として使われていました。当時はチョウジノキから採取したグローブオイルいわゆる「丁字油[チョウジユ]」を使用していました。江戸時代になると、ごま油・くるみ油・菜種油そして椿油が使われるようになりました。1600年代の終わり頃になると、蝋燭の蝋、松脂、香油などを混ぜた「伽羅の油[キャラノアブラ]」が広く使われるようになりました。「梅花油」は、ごま油に龍脳[ボルネオール]、麝香[ジャコウ]、丁字などを配合した、梅の花に似た香りの水油で、これもポピュラーなものでした。

江戸の女性の洗髪は、全国でも頻度の高いほうで、しかしそれでも、月に1、2回程度でした。洗う際は、水や米のとぎ汁を用いていました。しかし、「伽羅の油」 は粘度が高いため、布海苔[フノリ]を熱い湯で溶かし、そこに、うどんの粉を入れて、よく混ぜたものを髪に揉みこみ熱い湯ですすいだそうです。

その後、逍遥のいう「しゃぼん(石鹸)臭い」時代が到来します。

最初に石鹸を商業レベルで製造したのは、横浜磯子の堤磯右衛門(1833-1891)です。1873(明治6)年、現在の横浜市南区万世町に堤石鹸製造所を開設し、洗濯石鹸の製造、翌年には化粧石鹸の製造に取り組みます。1881(明治14)年には売上2万4千円を超えていたそうです。また、堤石鹸製造所は、1878(明治11)年7月、全9か条からなる「石鹸製煉場規則」という、日本初の「就業規則」を設けた企業でもあります。その第一条は以下のように記されています。

石鹸製造は、4月1日より9月30日迄午前8時取掛り、午後6時に至り全止、諸器械取纒め6時30分退社。10月1日より3月31日迄午前6時取掛り午後4時30分に至り全止5時退社のこと 但土曜日は平日より1時間早く止め一同大掃除致すべき事

その後、堤石鹸製造所は、明治10年代後半のデフレの影響で経営が悪化、1890(明治23)年に操業停止、翌年には堤自身もインフルエンザで倒れ、そのまま亡くなり、1893(明治26)年には廃業してしまいます。この堤石鹸製造所の技術は、同工場出身の村田文助を通じて、1876(明治9)年に堀江小十郎が中之郷村(現・墨田区)に創業した石鹸製造所「鳴春舎[メイシュンシャ]」へと引き継がれることになります。

一方、そのころ、1887(明治20)年、日本橋馬喰町2丁目に小間物商店「長瀬商店」が創業します。創業者は長瀬富郎(1863-1911)、創業当時23歳でした。長瀬は店で取り扱っている国内産の石鹸の品質に不満を持ち、自身で製造を決意します。そんな折、鳴春舎から独立したばかりの村田亀太郎と出会い、彼を口説き落として、ふたりで本格的に製造に着手します。こうして、1890(明治23)年に完成したのが「花王石鹸」です。発売当時の価格は3個入りで35銭、そば一杯が1銭の時代ですから、なかなかの高級品でした。こうして現在の「花王株式会社」の歴史が始まります。

また、1877(明治10)年、新潟から上京した小林富次郎(1852-1910)という男も鳴春舎に入社しますが、目を病み療養生活を送ることになります。小林は再起をはかるため、1891(明治24)年、石鹸とマッチ原料の取次を行なう「小林富次郎商店」を創業します。1893(明治26)年には石鹸の製造販売に乗り出し、「高評石鹸」「軟石鹸」「絹練石鹸」を発売します。そして、1896(明治29)年には歯みがき粉事業に参入し「獅子印ライオン歯磨」を発売します。こうして現在の「ライオン株式会社」の歴史が始まります。

1932(昭和7)年、花王は「花王シャンプー」という名の洗髪用固形石鹸を販売します。「シャンプー」という名が冠された日本初の商品です。ちなみに、その時の広告のキャッチコピーは「せめて月二回は!」でした……。1935(昭和10)年になると「御洗髪は一週一度!」、1965(昭和40)年になると「夏の髪洗いは5日に1度!」でした……。

ということで、改めて『梓神子』を読んでいきたいのですが…

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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