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#830 第四回は「我慢」の上中下を論じるところから……

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

今日から「第四回」へと入ります。

かつて作家だったと思われる怨霊が、自身の勧懲主義の物語を自慢したところ、主人公の「おのれ」は、かつての勧懲主義の物語は、現在では役立たずで、現在のものとは似て非なるものだと非難します。それの続きです……

我當時[ソノトキ]、腹のうちに思ひけるやう、凡[オヨ]そ我慢といふ事にも三大段あるべきにや。其中[ソノウチ]最大我慢といふは造化を凌ぐ程の我慢なれば、一切の善悪を容れて餘[アマリ]あり、故に我慢の無きにひとし。

今回は「我慢」の上中下ですか……『当世書生気質』では「恋」の上中下を解説してましたよね……詳しくは#214を読んでみて下さい。

若し人の一生を道中雙六[ドウチュウスゴロク]に喩[タト]ふれば、徳の善悪は骰子[サイ]の目の一六なり。一を悪とし六を善とするは、道行く間の差別なれば、上[アガ]りての後[ノチ]には一も六も無し。一は悪なれども、轉[マロ]びて休[ヤ]まざれば、一念の功[コウ]積[ツモ]りて上[アガ]ること易く、六は善なれども空轉[アタマロビ]重[カサ]ならば振出しに戻ることあるべし。されば我慢は元[モト]悪徳なれども、最大に達して善徳と化す。大我慢と小我慢との間には天地の縣絶[ケンゼツ]ありて、甲は振出しの一つ、乙は上[アガ]りの一つ名なれど、極楽の風と地獄の風との差別あり。小我慢は人皆[ヒトミナ]具[ソナ]へたれど、大我慢は絶無にして稀有なり。さて中[チュウ]の我慢と下々[ゲゲ]の我慢との間にも幾千里の隔[ヘダテ]あるべし。中[チュウ]は能く衆善[シュウゼン]を容るゝ量あり。然れども其衆邪[シュウジャ]を破[ハ]するや疾風[トキカゼ]の枯葉[コエフ]を掃[ハラ]ふに似たり。勿論大我慢といへども、當世[トウセイ]に其法[ソノホウ]を布[シ]かんとするや間々[ママ]疾風[トキカゼ]の相を現ず。只其性[ソノセイ]の同じからぬのみぞ終に混じがたき差[ケジメ]なるべき。下々[ゲゲ]の我慢に至りては、喩へば目の無き笊[ザル]の如きか。おのれが抱容[ホウヨウ]したる所の外[ホカ]は、初[ハジメ]より看ることかなはず。見ぬが故に有[アリ]とも思はず、有とも思はねば一切を排[シリゾ]けて、善をも容れざれば悪をも容れず、天[アメ]が下に我ばかり尊[タット]きは無しと思ひあがり、さてこそ我を容れぬものを怨[ウラ]むなれ。かゝる我慢をなん聖人[カシコキヒト]も度すべき縁[エニシ]無しとは宣[ノタマ]ひけるとかや。今面前[マノアタリ]にあらはれたる幽霊は聞えたる我慢者[ガマンモノ]なり。我いかばかり論ずるとも、退散のきゝめあるべき筈なし。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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