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#1466 ちょっとだけ靴の話

幸田露伴の『風流佛』にはこんな文章があります。

業平侯爵も程[ホド]経て踵[カカト]小さき靴をはき、派手なリボンの飾りまばゆき服を召されたるに値偶[チグウ]せられけるよし。

西洋の靴に接した日本人にとって、最大の悩みと違和感は「かかと」の部分でした。草履・雪駄・下駄いずれも日本の履物の特徴は、「解放されたままのかかと」でしたが、これが「塞がれ固定される」時代に突入するわけです。

岩倉使節団の一員である佐佐木高行(1830-1910)の日記には、

沓[クツ]も、日本人は大きくて甚だ見苦敷[ミグルシキ]とて、一同小さきを買求めたり、窮屈にて足痛み難儀なり、文明開化も随分困難のことなりと、人々と談笑致したり

と記されています。

1883(明治16)年に教科書『小学入門』を著した伊藤竹次郎(生没年不詳)は、1885(明治18)年に座敷で使えるジョーク集『座敷即席一口噺し』を出版します。「酒と云う奴は 飲めば飲む程 調子(銚子)が変わる」「お池の 水を濁らせて 実に清[ス]み(済み)ませぬ」。その中にこんなジョークがあります。

洋服はいいが 足がつまってならない きゅう靴(窮屈)

1866(慶応2)年、日本に転勤したイギリスの外交官アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(1837-1916)は、祇園の芸妓二人から「どうしても靴下を脱いで私の足を見せてくれと言ってきかなかった」という出来事を日記に残しています。当時、ヒール靴を履く西洋人には、かかとがないのではないかという風説が広まっていたため、芸妓はそれを確認したかったのです。

1870(明治3)年4月17日、駒場野で行われた練兵天覧の時に、明治政府の号令のもと、兵士が揃って靴を履きます。日本における洋靴の導入は実質的にはここから始まります。1870(明治3)年3月15日、政治家の大村益次郎(1825-1869)が実業家の西村勝三(1837-1907)に命じて、東京築地に初めて近代的な靴の工場が誕生します。この年の冬に、軍用靴4万足という大量発注が舞い込み工場が発展します。これが今も続く、日本の革靴の老舗メーカー「リーガル・コーポレーション」のはじまりです。

1872(明治5)年1月23日、太政官布告652号「御車寄始都テ沓ノ儘昇降ヲ許ス」にて、靴のままで庁舎に入ることを許可されます。すると、西洋式にしたいという意図が伝わらず「草履で、土足のまま」登庁する人がいたようで、同年2月5日の太政官布告684号の「沓ノ外昇降ヲ禁ス」にて、靴以外での登庁は不可という布告が出されます。とにかく「うちでは脱いで、そとでは履く」の常識が大混乱!1873(明治6)年、加藤祐一[スケイチ](生没年不詳)が著した『文明開化 初編』には

沓はいたまゝで座敷へ上りをった、こりゃちと迷惑な文明じゃ、おまけにつれて来た犬も上りをった

と記述されています。

1872(明治5)年には、軽微な犯罪を取り締まる単行の刑罰法「違式詿違[イシキカイイ]条例」が施行されます。入れ墨・肩脱ぎ・ももの露出・立小便など、外国人の眼を意識して、身体に関わる規定・制約がかかり、30年後の1901(明治34)年には、警視庁から「東京市内に於ては住屋内を除き跣足[ハダシ]にて歩行することを禁ず」という跣足禁止令が出されます。ペスト予防というのが表面上の理由ですが、未開で野蛮な裸足をなくすことで首都の体面を重んじるというのが裏の動機です。文明開化のために、「きゅう靴」にするのは、足だけでは足りなかったようですね……。

ということで、また「紅露時代」に戻ろうと思うのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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