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#928 いまいちど「絶対」について振り返る

それでは今日も坪内逍遥の「雅俗折衷之助が軍配」を読んでいきたいと思います。

逍遥は、「衆理想皆是にして又皆非なるが為、絶対は衆理想を没却す」という、没理想論争の非常に厄介な箇所についてふたたび言及します。

まず、坪内逍遥は「没理想の語義を弁ず」でこんなことを言います。

古今の万理想、皆是なり、皆非なりと。皆是なりとは、皆此の無限無底的の中に没すればなり。皆非なりとは、皆此の無限無底的を掩ひ尽くす能はざればなり。如何にせば此の無限無底の絶対に達すべきぞ。曰はく、我を去つて我を立てん。一理想を棄てゝ没理想を理想とし、一理想を固執する欲有限の我を去つて、無限の絶対に達せんとするの欲無限の我を立てん。その方便は如何。答ふらく、没理想と。……
汝、没理想をもて理想とせば、汝、恐らくは、万理想の敵とならざるを得ざるべし、万理想皆非なりと信ずるが故に。また万理想の奴とならざるを得ざるべし、万理想皆是なりと信ずるが故に。而して若し其の孰[イズ]れかを択ばずば、進退窮谷し、中有に彷徨して身を終ふるまで前むこと能はざらんと。(#688参照)

で、自身の思想の核となる一文に辿り着きます。

我は「欲無限」と歌ひて「絶対」を尋ね、「没理想」を理想として「大理想」を求めんとす。(#689参照)

これに対して、森鷗外は「早稲田文学の没却理想」でこんなふうに反論します。

逍遙子が絶対の衆理想を没却するや、衆理想皆是にして又皆非なるがためなりといふ。且[シバラ]く此判断に注意せよ。常理に依るに、是と非とは矛盾の意義[コントラアヂクトオリシユ]にして、その二つのものゝ間に第三以上の意義を容れざるものなり。こはかの大と小との如く、その間に稍[ヤヤ]大、稍[ヤヤ]小の如き階級を容るべき反対[コントレエル]の意義におなじからず。反対のみなる意義に於いては、着眼次第にて衆理想皆大なりともいふべく、衆理想皆小なりともいふべけれど、矛盾の意義に於いては、縦令[タトイ]その着眼点殊なりとても、衆理想皆是なり、皆非なりといはむこと、尋常の論理の許すところにはあらざるべし。
逍遙子が衆理想皆是なりといふや、その着眼点は造化これを納るといふにあり。逍遙子が衆理想皆非なりといふや、その着眼点は未だ造化を掩ふに足らずといふにあり。
夫れ造化に納れらるとは何の謂[イイ]ぞ。答へていはく。造化より小なるなり。未だ造化を掩ふに足らずとは何の謂ぞ。答へていはく。これも造化より小なるなり。されば逍遙子が着眼点は、その言葉を二様にしてあらはされたりといへども、到底唯一つなること論なからむ。(#714参照)

逍遙子は衆理想皆是なりとするときも、衆理想皆非なりとするときも、衆理想の全体を指したり。これを引き括めての判断(全分法[ウニエルザアル])とす。取り分けての判断は同一体(前陳)に矛盾の義(後陳)を附することを許しもすべけれど、引き括めての判断はおそらくはかゝる自在を得せしめざるべし。
斯[カク]の如くよの常なる判断法より見るときは、皆是なる衆理想は同時に皆非なるに由なく、皆非なる衆理想は同時に皆是なるに由なからむ。
さらば同一の事物を是とも非とも見るべきは果していかなる境界なるか。答へていはく。是もなく非もなき境界なり。絶対の境界なり。……
夫れ絶対には是非もなければ彼我もなし。されどその能く是非なきものは何ぞや。その能く彼我なきものは何ぞや。答へていはく。空間を脱したればなり。時間を離れたればなり。質といひ、絶対といふものは顕象(事相)にあらざればなり。
絶対の相対を現ずるや、空間は彼我を立て、時間は後先をなす。既に相対あり、彼我後先あり。この顕象世界の中、争[イカ]でか是非なきことを得べき。(#715参照)

このやりとりについて、いまいちど、逍遥は考えるのですが……

それについては、また明日、近代でお会いしましょう!

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