見出し画像

#853 日本のシェークスピア、いつ見ても涙こぼれて忘れられず

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

「第八回」は、近松門左衛門の霊が嘆いた内容に対して、主人公が返事をするところから始まります。答えていわく、虚と実と被膜の間に美術ありという高説、面白く承った。「虚」は広くして限りなければ、一切の法相を覆って余りあり、「実」は狭くして鋭ければ、特殊な法相が躍如して飛動する。「実」は差別、「虚」は平等、「実」は個性、「虚」は通性、詩人の本領とは、この虚実の二字である。しかし、この二字の境を弁えるのは簡単ではない。そなたの作を見るに、おおかたは「虚」であり、虚妄が甚だしいのはシェークスピアにも優っている。名工の筆からなる神怪の絵は、形は「虚」であるが真に「実」である。形の「実」を重んずるのは、理の「実」を重んずるよりも甚だしい。時代物の劇を作れば、事実と風俗に力を尽くすが、人情の「実」は却って空しい。

大俗[タイゾク]のそれがしら、斯う利口げに辨[ベン]じても、忽ちのうちにけしとび、形而下[ケイジカ]の論理に目くらみ、形而上の論理を忘るゝ故[ユエ]に、例の虚實[キョジツ]の界[サカイ]に戸惑ひす。世間が足下[ソコモト]をほめて、日本[ミクニ]のシェークスピヤといふは、形の無き評[ヒョウ]にあるまじ。「大経師[ダイキョウジ]」、「戀飛脚[コイビキャク]」、「伊達染手綱[ダテゾメタヅナ]」、「天の網島」、「油地獄」、いつ見ても涙こぼれて忘られず。我れに知識の行學[ギョウガク]あらば、足下[ソコモト]のために大供養會[ダイクヨウエ]をつかうまつりたけれど、徳足[タラ]ざれば享[ウ]けらるまじ。序[ツイデ]ゆゑにきゝ申す、足下は中年まで専ら時代物ばかりを作り、而[シカ]も無稽荒唐[ムケイコウトウ]の書きざま、形の虚妄甚[ハナハダ]しく、例へばのぞき機関[カラクリ]見るやうに目さきのかはるを専一とし、大體[ダイタイ]は赤兒[アカンボ]のわやくの如く、さて又それにつれて人物も化物多く、百鬼夜行の幻燈繪[ウツシエ]、よろこぶ者は、小兒[ショウニ]に通人[ツウジン]とばかりなるべく存ぜられ、それがしなどには腑に落ちぬ所多かるを、老後の作は打[ウッ]てかはりたる自然派の虚實を兼ね、人情専[ニンジョウセン]とかゝれしには、譯[ワケ]ばしあっての儀でござるか。此答[コタエ]うけたまはりたい。と他人よりも先に見出しにあひし嬉しさに、そろ/\贔屓目の買かぶりしていひければ、如才なき平安堂、此[コノ]ぬけた奴、提灯につかひ、天下一の作者になりおほせて、速[スミヤ]かに我黨[ワガトウ]の萬歳[バンザイ]を唱[ウタ]はん、と自慢の鼻柱[ハナバシラ]おしかくし、殊勝気[シュショウゲ]の善哉[ゼンザイ]、粋[イキ]に発音し、さもさうず、さもありなん。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?