見出し画像

#1473 ああ心配に頭が痛む、もうやめましょ、やめましょ

それでは今日も幸田露伴の『五重塔』を読んでいきたいと思います。

腕は源太親方、立派なものじゃと褒められるが、鷹揚の気質ゆえに仕事も取りはぐりがちで、いい事はいつもひとに奪われ嬉しからぬ生活を送る味気無さ。膝頭を縫った股引ばかり夫に穿かせること、他人の見る眼も恥ずかしいけれど、なにもかも貧がため。ああ、考えこめば裁縫もイヤになってくる。腕の半分も夫の気心が働いてくれたならこうも貧乏はしまいに。ところが今度はまたどうしたことか感応寺に五重塔が建つと聞くや否や、急にむらむらとその仕事を是非する気になって、ちと偉すぎる私でさえ思うものを、ひとはなんと噂するであろう。

ましてや親方様は定めし憎いのつそりめと怒つてござらう、お吉[キチ]様は猶ほ更ら義理知らずの奴めと恨んでござらう、今日は大抵何方[ドチラ]にか任すと一言[ヒトコト]上人様の御定めなさる筈とて、今朝出て行かれしが未だ帰られず、何か今度の仕事だけは彼程[アレホド]吾夫[ウチノヒト]は望んで居らるゝとも此方[コチ]は分に応ぜず、親方には義理もあり旁[カタガ]た親方の方に上人様の任さるればよいと思ふやうな気持もするし、また親方様の大気[タイキ]にて別段怒りもなさらずば、吾夫[ウチノヒト]に為[サ]せて見事成就させたいやうな気持もする、ゑゝ気の揉める、何[ドウ]なる事か、到底[トテモ]良人[ウチ]には御任せなさるまいが若[モシ]もいよ/\吾夫[ウチノヒト]の為[ス]る事になつたら、何[ド]の様[ヨウ]にまあ親方様お吉様の腹立てらるゝか知れぬ、あゝ心配に頭脳[アタマ]の痛む、また此[コレ]が知れたらば女の要らぬ無益[ムダ]心配、其故[ソレユエ]何時[イツ]も身体[カラダ]の弱いと、有情[ヤサシ]くて無理な叱言[コゴト]を受くるであらう、もう止めましよ止めましよ、あゝ痛[イタ]、と薄痘痕[ウスイモ]のある蒼い顔を蹙[シカ]めながら即効紙[ソッコウシ]の貼つてある左右の顳顬[コメカミ]を、縫ひ物捨てゝ両手で圧[オサ]へる女の、齢[トシ]は二十五六、眼鼻立ちも醜[ミニク]からねど美味[ウマ]きもの食はぬに膩気[アブラケ]少く肌理[キメ]荒れたる態[サマ]あはれにて、襤褸衣服[ボロギモノ]にそゝけ髪ます/\悲しき風情なるが、つく/″\独り歎ずる時しも、台所の劃[シキ]りの破れ障子がらりと開けて、母様これを見てくれ、と猪之[イノ]が云ふに吃驚[ビックリ]して、汝[ソナタ]は何時[イツ]から其所[ソコ]に居た、と云ひながら見れば、四分板[シブイタ]六分板の切端[キレハシ]を積んで現然[アリアリ]と真似[マネ]び建てたる五重塔、思はず母親涙になつて、おゝ好い児ぞと声曇らし、いきなり猪之に抱きつきぬ。

というところで、「その三」が終了します。

さっそく「その四」を読んでいきたいと思うのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?