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#962 Idealは哲学的真理にして多様を包容するものなり

それでは今日も坪内逍遥の「没理想の由来」を読んでいきたいと思います。

そのはじめ、われ、シェークスピアに、偉大理想ありきと云ふことをこそ疑うたれ、理想なかりきとは、はじめより思はざれば、彼れはプラトーの説を理想として作しき、といふ論を讀みても、他の演繹的解釋を見し時と、われに殊なる感もなく、却りて此の著書はた理窟に堕ちたるにあらずや、と疑ひつゝ讀みもてゆくに、こゝにも没理想に通ふべき論あり。まことや、佛人なにがしが、確言に「幽玄なる發明とおぼしき思想の、ふと胸に浮かべるを養ひたてゝ、成長せさせんとするほどに、やがて其の考は、駄馬の如く用ひふるしたる、爛熟の理たることを看出だすこと間々あり」といへるける、其の譏、わが上に、二重の壓力もて堕し来たりぬ。幽玄の思索すら然るを、と一たびは鼻じろみしが、私情すかさず我れを回護し、此の論にも、シェークスピアが作の一面を、總評をすべき科語なし、没理想の新熟語も、全く無用には作られざりき、といへり。さて、件の論は、たとひわが説と背馳せざる迄も、相同じからぬ點しば/\あり。是れ、彼れはプラトーの理想論を本尊として、シェークスピアの主観を論じ、われはシェークスピアが主観を見えずとして、その客観をのみ評したるに因縁す。

著者いはく
プラトーの説によれば、此の世界は、極めて微妙なる性質の作物なり。哲学者以外の者は、その影[イメージ](幻像)を見て實體となせり。……吾人にとりては、美術と造化との間に、何の相異をも見出ださず、そのいづれにつきても、吾人は原作家の本意を領解せんことを力む。只相異なる所は、人工は有限にして、天工は無限なり。さりながら、更に進まん前に、プラトーが常住不易の實體を組成せるものとなし、且創作[クリエーション]の用に必須なりとなせるIdealとは、そも如何なるものをいへるにか、そを會得すべき要用あり。もと此のIdealといふ語は通例は、何にてもあれ、空想のふと指示すること、又は美術家が想像することを好む所のものをいへり。げにや、Ideal幻像[イメージ]又は顕象[フェノメノン]の第三級に於ける摸倣に関したるよりは、むしろ思想[ソート]に関したるものなれば、上の如くにいはんもよし、盖し、Idealといふ語の厳密なる意味は、哲学的眞理[フィロソフィカル・トルース]といふことにして、その眞理は正理論[ラショナリスム]の唯一[ユニチー]の底[モト]に多様[マルチヒプリシチー]を包容するものなり。さて人生の外面の性質に、最も近く近似したるもの、幷に理想[アイデアル]の力に據[ヨ]りて實在[エギシステンス]の最も深遠なる眞理と相合することを得べきものは、詩なり、取りわきてドラマチック、ポエトリーなり、云々。

按ずるに、こゝに見えたる理想といふ語は、鷗外君の所謂理想にはあらざるか。わが所謂理想も、此の意にても差支なけれど、予は、シェークスピアの理想が、拔くべからざる説によりて、明證せられざる間は、没理想の名目を取除くべき由縁を知らず、と思ふ。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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