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#965 ドラマの客観を、表裏二面より観察すること!

それでは今日も坪内逍遥の「没理想の由来」を読んでいきたいと思います。

かくて著者は、古来の大なる英才が、此の語逆理順[パラドックス]に重きを置きたる例にとて、カーライル、ショッペンハウエル、エマルソンを引きて、さていへらく。

このあと、逍遥は再び、未詳氏が1884年に出版した書物のシェークスピアを論じる文を引用します。

此の段領解せられたらば、吾人はいはんとす、若しシェークスピアの美術が、造化のとひとしなみに深邃なり、とせば、そが久しく其の本體を韜晦して、衆批評家の詮索を破斥せしこと、毫も怪しむに足らず。吾人は猶未開時代の國民のごとく、絶えて無形の美を解することなうして、彼れが著作をば玩賞せり、甚しきに至りては、考察力無き幼年が、有形世界(按、顕象世界)を悦べるが如くにさへ、彼れが著作をもてあそべり。彼れが美術いよ/\深邃にして、吾人がその本意を意識すること、いよ/\浅く、彼れが天才はいよいよ神聖なり、云々。

「ショッペンハウエル」については、#715でちょっとだけ紹介しています。

逍遥は言います。

著者は、しば/\大造化に虚實の二面あることを説きて、時に単複の二語を用ひたり。所謂虚とは、鷗外君の所謂想に適ひ、所謂實とは鷗外君の所謂實なり。蓋し、著者は、プラトーに従ひて、所謂實を顕象(幻影)とし、虚、即ち想、即ち理想をもて、造化の實體としたればなり。さてまたシェークスピアを評するには、恰も造化に於けるが如く、彼れの作にも二面ありとし、一面を虚(理想的)とし、一面を實(顕象的)とし、所謂虚とはプラトニック、フィロソフィー(プラトーの哲理)と解釋せり。鷗外君がドラマの上に用ひらるヽ理想といふ語は、此の著者がシェークスピアの作に対して用ひたると、同じ意[ココロ]なるか、非か。われ實に此の點に於て、鷗外君の意を會得しかねたり。
されば、こヽにいへる、単複又は虚實の語は、わが謂ふ平等、差別とは同じからず。予はドラマの客観を、表裏二面より見得べきこと、一國の、単複二面より見得らるヽが如く、世界の一地球としても、五大洲としても、見得らるヽ如くに、二様に観察し得べしといへるのみ。差別相とは、著者の謂ふ實相の謂にあらねば、平等相は、勿論、虚相即ち理想の謂にあらず。鷗外君が、わが活差別を個物的なり、と評し、わが活平等を理法的なり、と評せられしは、或はわが差別、平等を、著者の謂ふ虚實の義に解せられたるにあらずや。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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