#1553 君は残酷だ!
それでは今日も尾崎紅葉の『多情多恨』を読んでいきたいと思います。
墓参りに行きたいが老婢に止められ悶々としていると、家の外で人力車が停まります。慌てて駈け出ると、見覚えのある友人の葉山の車である。葉山が来てくれた!嬉しいような、頼もしいような、涙が出る。「ああひどい降りだ」「さあ上りたまえ」。葉山は座敷へ入ると、「おやビールかい。洒落ているじゃないか」。葉山は炬燵に入って、ああ寒い寒いと肩を揺すります。「今日はお見舞いに来たのだ。そうそう、持ってきたものがあった。これを御仏前へ」。袱紗の包みをとくと、西洋林檎ひと箱、蒸し菓子ひと折、鳩居堂の線香をひと箱出します。「おやまあ見事な。旦那様、御覧あそばしまし」。葉山はおかずとなる椎茸やかんぴょうが入ったお重も差し出し「代物は精進だけれど、すこしは陰にいかさまがしてあるかもしれませんよ」と言って笑います。葉山はなんと慰めたらいいのか思案していると、柳之助は左の袂からハンケチを取り出し隅の方へ投げやり、今度から右から引っ張り出し、それをも投げ出し、袖で目をこすります。「なんだあのハンケチは」「どうも涙が出て困る」「あれはみんな濡れているのかい。なるほど瞼が腫れぼったくなって、ひどく目が赤いと思った。さあ貸そう」と言って、香水がプンと匂うハンケチを出します。「いい匂いがするね。妻がよく言ったっけ、君が来るといい匂いがするって。じつにこういう時に妻がおったら御馳走するのだけれど、おらん、妻はおらん」「しかしね……」「しかし、おらんような心地はせんよ。死んだとは思われんよ」「それはもっともだ。しかしね……」「なぜ死んだかと思うと、妻は僕を愛しておらんかったと思うよ」「そんな無理なことがあるものか」「無理かもしれぬ、無理だろう、無理だった、全く無理だった」「時に、君は学校のほうはどうした?」「学校?学校なんぞはかまわん、もうイヤだ」。柳之助は東京物理学院の教授を勉めている。勤勉で懇切で実力もあり、生徒の信用も極めて良い。「あんまり長く退いていたら、学校のほうで差し支えるだろう」「差し支えても構わん」「そんなヤケを言っちゃ困るね。もう少し休んだら出た方がいい。引き籠っているより却って気が晴れるから」「なにも出来はせんよ。実際僕は生きとる楽しみがないのだ」「困ったもんだ」
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!