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#1407 ふたりの恋は永久なるべし

それでは今日も幸田露伴の『露団々[ツユダンダン]』を読んでいきたいと思います。

長かれと思う日影も短く、涙に濡らす袖も乾かぬ間に日は暮れ、いよいよ今日の悲しみにさしかかります。頬の色しろく、飲食は喉を通らない。「じやくそんの返事を考えればしんじあ様はお留守にちがいない。心を尽くして届けた文も何の役にも立たない。とうとう今日になったがもう智慧も何もない。どんな事があってもこの部屋より外へは出まい。もはや絶体絶命……生育の恩は深く、愛護の情は厚く、親の威光は強くても、もう背かずにはいられない。恋の意地、恋なればこそ死にもせん、恋は女の命の主……二億ばかりの金銀は光っても恋を買う値はない……人間とは兎角誤りばかりする動物……そんな動物から貰った人爵は石碑の模様になるばかり……名利はつまらない者だと決断してみれば恐ろしいものはない。父上は、貨物の空なカバンは潰れやすいと仰ったが、今日は神聖の恋というものがつまっている。父上の勇猛な力でも無法の圧政でも潰される気遣いはない」。一方そのころ、じやくそんは、帰ってきたしんじあの家を訪れます。「しんじあ君、ぼくと一緒に行きたまえ」。「どこへ行くのですか」。「るびな令嬢が婚姻する」。「ほんとですか」。「うそはつきません。令嬢から手紙があったのです。そこで令嬢はふたつの考えを起こしたのです。ひとつは抵抗する、ひとつは逃亡する」。「君はなんと返事をした」。「逃げるのはおやめなさいと返事をしたのです。これから君と一緒にぶんせいむのところへ行って誤りを悔い改めさせてやろうというのです」。「それはだめだ……行かない」。「るびな嬢が他人と婚姻しても?」。「僕はすこしも疑いを持っていません。決してるびな嬢を疑いません」。「君にはるびな嬢を取る勇気はないのです」。「いやしむべき軽薄の恋はしんじあは決してしません」。

「よろしい。其處[ソコ]までは君の考[カンガエ]が正當[セイトウ]に違ひない……君が申込まなかつたも正當です。ぶんせいむの欲望も畢竟[ヒッキョウ]徒労に属するだらうといふ君の考[カンガエ]も正當です。人の家事に嘴[クチバシ]を容[イ]るゝにも及ぶまいといふ君の考へも正當です。世人[セジン]の嫌疑を厭[イト]ふといふ君の情も正當です。が人の困難を救ふといふことは正當ではありませんか。人の非理[ヒリ]の行[オコナ]ひを爲[ナ]すを諫むるといふことは正當ではありませんか。我[ワガ]戀慕[レンボ]を成就させる爲に道理の許す所の働きをなすといふ事は正當ではありませんか。男子が女子を扶[タス]くるといふ事は正當ではありませんか。父をして不慈[フジ]とならしめ、子をして不孝とならしめざるまへに之を防ぎ之を誤らしめざるは警醒會の欲せざる所でせうか……智者の過ちは常に慮[オモンバカ]りの足らざるにあらずして、慮りの過ぐるにありといふは君の事でせう……るびな嬢は自ら不孝の名を負ふとも、猶[ナオ]其[ソノ]戀[コイ]を果[ハタ]さんとするの勇気あるに君は人の過誤[アヤマチ]を救ふて、しかも自己[オノレ]の戀[コイ]の誠[マコト]をあらはすに足るの美事[ビジ]をも爲[ナ]すの勇気がありませんか。」
と年丈[トシダケ]に論ずればつく/\聞居[キキイ]ししんじあも一つには義理にせまられ、二つには戀[コイ]にせまられ、三つにはぶんせいむの非理を憎む心にせまられて終[ツイ]に
しん「あゝ君のいふ所は尤[モットモ]だ。決心した。」
と忽[タチマ]ち立ち、じやくそんもろとも馬車に乗り、頻[シキ]りと鞭を加へたり。早くもぜねらす村に到りて音信[オトナ]ふ。此方[コナタ]へといふ案内に付[ツイ]てずつと通れば、是[コ]は如何[イカ]にぶんせいむにはあらずして泣[ナキ]くづをれたるるびななり。此方[コナタ]も呆れて言葉なく、彼方[カナタ]も驚き言葉なく、先立[サキダツ]ものは涙にて互ひにひしと抱[イダ]き付き、恍然[コウゼン]として夢現[ユメウツツ]を分[ワカ]たぬ處[トコロ]へいり来るぶんせいむ、
ぶん「二人の戀[コイ]は永久なるべし。」
じや「偖[サテ]も汝は妖物[バケモノ]かな……豚尾[チャンチャン]の紳士は。」
ぶん「一昨日[イッサクジツ]逃亡した。」
じや「其[ソノ]従者[ズサ]は。」
ぶん「昨日[サクジツ]跡を追[オッ]て立つた。」

というところで、「第十九回」が終了します。

さっそく「第二十回」へと移りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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