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#1514 いやだ!いやだ!つまらぬ!くだらぬ!バカバカしい!

それでは今日も幸田露伴の『五重塔』を読んでいきたいと思います。

源太は風呂敷包みを取り、結び目といて、十兵衛の前に置きます。なかには、材木や人足の費用、下絵図や平面図、欄干・垂木・桝・肘木に関する算法、先祖の遺品や秘蔵の絵図まで……。「これらは皆きさまに預ける。なにかの足しにもなろう」。しかし十兵衛は「ひとの巾着で我が口を濡らすようなことは好まず、親方まことにありがとうござりまするが、これはそちらにお納めを……」。「きさまは要らぬというのか」と怒りを底に隠して問うと、そんな様子に気づかず十兵衛は「別段拝借いたしても……」とうっかり答えてしまい、源太は堪りません。「親切の上に親切を尽くして絵図までやろうというものを、無下に返すのか!人の情けを無にするか!これをやって源太が恩がましく思うと思ったか!開けて見もせず覗きもせず、知れ切ったるといわぬばかりに愛想もなく要らぬとは!おのれ十兵衛、よくも拒絶したな!もう堪忍の緒も切れたり!今までは口もきいたがもうきかぬ!

いと物静[モノシズカ]に言葉を低めて、十兵衞殿、と殿の字を急につけ出し叮嚀に、要らぬといふ図は仕舞ひましよ、汝[ソナタ]一人で建つる塔定めて立派に出来やうが、地震か風の有らう時壊るゝことは有るまいな、と軽くは云へど深く嘲[アザ]ける語[コトバ]に十兵衞も快[ココロ]よからず、のつそりでも恥辱[ハジ]は知つて居ります、と底力味[ソコリキミ]ある楔[クサビ]を打てば、中々見事な一言[イチゴン]ぢや、忘れぬやうに記臆[オボ]えて居やうと、釘をさしつゝ恐ろしく睥[ニラ]みて後[アト]は物云はず、頓[ヤガ]て忽ち立ち上つて、嗚呼飛んでも無い事を忘れた、十兵衞殿寛[ユル]りと遊んで居て呉れ、我は帰らねばならぬこと思ひ出した、と風の如くに其[ソノ]座を去り、あれといふ間に推量勘定[スイリョウカンジョウ]、幾金[イクラ]か遺[ノコ]して風[フイ]と出[デ]つ、直[スグ]其[ソノ]足で同じ町の某[アル]家が閾[シキイ]またぐや否[イナ]、厭[イヤ]だ/\、厭だ/\、詰らぬ下らぬ馬鹿々々しい、愚図々々せずと酒もて来い、蝋燭いぢつて其[ソレ]が食へるか、鈍痴[ドジ]め肴[サカナ]で酒が飲めるか、小兼[コカネ]春吉[ハルキチ]お房[フサ]蝶子[チョウコ]四の五の云はせず掴むで来い、臑[スネ]の達者な若い衆[シュ]頼も、我家[ウチ]へ行て清、仙、鐵、政、誰でも彼でも直[スグ]に遊びに遣[ヨ]こすやう、といふ片手間にぐい/\仰飲[アオ]る間も無く入り来る女共に、今晩なぞとは手ぬるいぞ、と驀向[マッコウ]から焦躁[ジレ]を吹つ掛けて、飲め、酒は車懸[クルマガカ]り、猪口[チョク]は巴[トモエ]と廻せ廻せ、

「車懸り」とは車の車輪が回転するように攻撃する陣形のこと、「巴」は勾玉のような文様で、これが三つ、円形に配されると「三つ巴」となるので、「酒や猪口をとめどなく次から次へと」という意味ですね。

お房外見[ミエ]をするな、春婆[ハルババ]大人ぶるな、ゑゝお蝶め其[ソレ]でも血が循環[メグ]つて居るのか頭上[アタマ]に鼬花火[イタチハナビ]載せて火をつくるぞ、

今は「ねずみ花火」というのが一般的ですね。

さあ歌へ、ぢやん/\と遣れ、小兼め気持の好い声を出す、あぐり踊るか、かぐりもつと跳ねろ、やあ清吉来たか鐵も来たか、何でも好い滅茶々々[メチャメチャ]に騒げ、我[オレ]に嬉しい事が有るのだ、無礼講に遣れ/\、と大将無法の元気なれば、後れて来たる仙も政も煙[ケブ]に巻かれて浮かれたち、天井抜けうが根太[ネダ]抜けうが抜けたら此方[コチ]の御手のものと、飛ぶやら舞ふやら唸[ウナ]るやら、潮来出島[イタコデジマ]もしほらしからず、甚句[ジンク]に鬨[トキ]の声を湧かし、かつぽれに滑[スベ]つて転倒[コロ]び、手品[テヅマ]の太鼓を杯洗[ハイセン]で鐵がたゝけば、清吉はお房が傍[ソバ]に寐転んで銀釵[カンザシ]にお前其様[ソノヨ]に酢ばかり飲んでを稽古する馬鹿騒ぎの中で、一[ヒト]了簡あり顔[ガオ]の政が木遣[キヤリ]を丸めたやうな声しながら、北に峨々[ガガ]たる青山をと異[オツ]なことを吐き出す勝手三昧、やつちやもつちやの末は拳[ケン]も下卑[ゲビ]て、乳房[チチ]の脹[フク]れた奴が臍の下に紙幕[カミマク]張るほどになれば、さあもう此処[ココ]は切り上げてと源太が一言、それから先は何所[ドコ]へやら。

潮来地方の民謡「潮来節」のなかに「潮来出島のまこもの中にあやめ咲くとはしほらしや」とあります。
「甚句」とは、七・七・七・五の4句形式の民謡で、越後甚句・米山甚句・名古屋甚句・博多甚句などがあります。
「かっぽれ」は大阪の住吉神社の御田植神事[オタウエシンジ]に由来し、この奉納された踊り(住吉踊り)が伊勢で「伊勢音頭」となり全国的に普及し、江戸でも流行したといわれています。天保年間に江戸で住吉踊りが禁じられた際、同時期に流行っていた紀伊の民謡「鳥羽節」を取り入れて、新たな大道芸・お座敷芸としての「かっぽれ」が誕生したといわれています。
「木遣」とは、重い材木などを運ぶときに音頭をとる「木遣歌」のことで、のどをつぶしたような声で歌います。
『平家物語』巻第十の六「海道下[カイドウクダリ]」には「北には青山峨々[ガガ]として、松吹く風索々[サクサク]たり」という一文があります。

「拳も下卑て……臍の下に紙幕張る」とは、まぁ言ってしまえば……野球拳で女性がすっぽんぽんになったということですねw

なんか……いっこうに、五重塔の建築に話が進みませんねw

というところで、「その二十二」が終了します。

さっそく「その二十三」を読んでいきたいと思うのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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