見出し画像

#934 「絶対と相対」そして「一元論と二元論」

それでは今日も坪内逍遥の「雅俗折衷之助が軍配」を読んでいきたいと思います。

必竟ずるに、われ絶対の位置にたちて、絶対を追求せん本願を持し、さて其の立脚點よりいへばこそ、造化の本来の理想見えずといひ、シェークスピアの本来の理想見えずといひ、絶えて方向を知らずといひ、全く帰宿の處に迷へりともいひたれど、わが一時安處の理想-尚未定の境界にある理想-他の衆理想と衝突してそを折伏する能はざれども、尠くとも、ひとりわが一時の心にはかくあるべしと假信したる、目前安處の理想よりいへば、逍遥蒙昧にして不學謭劣なりと雖も、さすがに目前の必要に應じて、造化、人間等に関する假定の解釋を下さヾるべしや。況んや、平生繙讀する、シェークスピアに対しての假定の解釋をや。たとひ絶対の宇宙に対しては、有無の境に迷へりといふとも、現在の小宇宙に対しては、逍遥もまた、常にある種の理想を保てり。これ逍遥が不完全ながらに、一家の主人たることを得る所以にして、時に幾百人の學生を教授することを得る所以にして、かねては日本國民たるの本分を幾分か盡くし得る所以なり。夫れ将軍は、ハルトマン先生が一元哲学を奉じて、尠くとも現在に於ては、そを無二の眞理なりと信じたまへるなるべし、相対の當世に対しても、絶対の世間に対しても、こをもて處せんとこそ思ひ入りたまへるならめ。さればまた将軍は、逍遥が分身して、かく二境界に立てることを、いと心得がたくおぼされんずらん、さはれ、其の理[コトワリ]には些の不思議なし。将軍は已に心の師を得たり、われは未だ得ず、将軍と我れとは其の境界を異にしたり。我れは我が小経験が生みいだしたる小哲学をもて、絶対を規するに忍びざるがゆゑに、断えず絶対に対しては、迷惑の堺にあり、将軍が近世の大哲学者-ヴントいでざる前に於ては、殆ど一世を風靡せりきともいふべき-ハルトマン先生が論によりて、絶対に関する学説を覚悟し、よりてもて絶対と相対との間に、生涯を別かつことの必要を感ぜず、二つながら、ハルトマン先生が一元論によりて、處せんとせらるゝも合理の所為なれば、わが絶対を覚悟せざるが故に、假に相対に対する安養の理想を貯へ、生涯を二分して、諸の事に當たる。これはた合理の所為にあらずや。

#152で、少しだけ紹介しましたが、ヴィルヘルム・ヴント(1832-1920)は近代心理学の祖です。ハルトマンが一元論であるのに対して、ヴントは二元論者で、精神と肉体は別物であり並行して存在する物としました。ヴントは、心理学を直接経験の科学であるとし、形而上学を攻撃しました。心理学と物的科学の差は経験を眺める場・見地の違いにあるのであって、扱う「経験」の定義そのものが違うのではないとしました。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?