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#1389 善かれ悪しかれ人の意見に従った事は今まで一度もないぞ!

それでは今日も幸田露伴の『露団々[ツユダンダン]』を読んでいきたいと思います。

ぶんせいむは、うつむいて椅子に座るるびなに向かって「おまえの幸福の日が近づいてきた」と言います。今日は最終試験の日、最終試験に残ったのは五人。ぶんせいむは、前回の試験「不愉快という題で、その起因・性質及びこれを矯正する方法」に関する執筆問題で、どんな答えがあったのか、るびなに披露して驚かせようとします。「衣食住に足るを得れば不愉快はない」と答えた者は落第、「不愉快とは学問を食い足りぬ人の胃にある所の飢えの傷み」と答えた者も落第、「不愉快とは神の作り給える天地は善美なりという事を信ぜざる腐敗の脳髄に生ずるカビ」と答えた者も落第、しかし「不愉快とは不愉快を打破る勇気のない時の有様ゆえに勇気あれば即ち不愉快なし」と答えた者は及第、さらに「世間に一つも不愉快なし、ただるびな令嬢の歓心を得ざる時は大不愉快なれども、そのときは自殺すべければ不愉快もなし」と答えた者も及第だと言います。さらに、四十枚もの詩を書いた人もいるようで、るびなはぶんせいむに内容をお話くださいませんかと言います。太平の世に夫婦となったが、夷狄が攻めてきたので、夫は戦争に出るが戦死し、妻は悲しんで盲目となり、高山の雪中で凍死するという内容で、それを聞いたるびなは「もうやめて下さい。悲しくって胸が痛くなります」と言います。この人にもぶんせいむは及第を与えます。さらに「知らない」と答えた人もいるようで、ぶんせいむはこの人も及第とします。そしてちょうど試験の時刻となりますが、四十枚の長編を書いた詩人がやってきません。しかし、それでも試験を始めることになります。ぶんせいむはしんぷるに四人を別々の部屋に入れておくように命じます。すると、詩人から手紙が届きます。どうやら辞退に関する手紙のようです。どれ試験をしてやろう、とぶんせいむはそれぞれの部屋へと行きますが、わずかの間にふたりは終わって帰ります。三番目の哲学者の部屋に入って、ぶんせいむは言います。「試験はすでに結果せり。お帰りなされ」。

哲「予[ヨ]は既に悟れり。足下[ソッカ]が予をして帰らしめんとするは是[コレ]即ち試験なるべし。足下の命[メイ]に従ひて直[タダチ]に帰らば足下は乃[スナワ]ち、是[コレ]自ら試験を受くるの權[ケン]を放擲[ホウテキ]して帰りたるなりといはん。又足下の命に背きて帰らずんば、足下は予を不愉快の感を抱けるが故に帰らずといはん。然れども予は、」
しん「お饒舌[シャベ]りなさるな無益です。」
哲「然り。然れども予は無益の辨[ベン]を揮[フル]ふ事を厭はず。却つて愉快とせり。是れ予の答案なればなり。夫[ソ]れ、」
ぶん「えゝやかましい先生だ。るびなは既にある支那人の妻たるべき旨の契約をしたから先生なんぞを試験する要用はないのだ。」
哲「えッ何と仰やる。」
ぶん「婿はきまつたから貴様は帰れと云ふのだ。」
と聞くや面色忽ち變[カワ]りて元より早口のいとヾせはしく。
哲「是[コ]はけしからぬ事……受験者を悉[コトゴト]く試験せずして偏頗[ヘンパ]極まる決断するとは。」
ぶん「何をのろまな愚痴を飜[コボ]すのだ。」
哲「なんと。」
ぶん「怒り給ふな、足下[ソッカ]は只今落第だ。其[ソノ]怒[イカ]つた有様を鏡で御覧なさい。沈着[オチツキ]拂[ハラ]つた初[ハジメ]とはまるで變[カワ]つて……髪は逆立[サカダ]ち、眼は上[アガ]り、唇の端[ハシ]に泡を吹いて……いやはや愈々落第だ。」
哲「失敬極まる……えゝよろしいそんなら帰る。」
と嫉妬と慚愧の一瞥[イチベツ]の眼[マナコ]の光りを残して去るを見送り、
ぶん「哲学者は餓鬼のやうな者だ。」
しん「はゝ試験が意外ですから、三人が三人とも見事に落第して帰りましたが、一人残つた支那人もどうせ落第でせう。」
ぶん「さうだらう……あの詩人なら決して落第する筈はないが、惜しい男が逃げてしまつた。」
しん「それはともあれ支那人が落第してしまへば悉皆[シッカイ]畵餅[ガベイ]になりますが、もしさうなりましたら不愉快の感覚なき者を婿にするなぞと云ふ事を断然おやめなすつて、世間體[セケンテイ]の通り御嬢様の自由に御まかせなすつたらどうで御座ります。」
ぶん「貴様は矢張り腸[ハラワタ]もない小新聞の記者めらがおれの求婚事件を評して痴人[チジン]の妄想だのなんのといつたのを信じて居ると見える。そして到底おれの思付[オモイツキ]は無功[ムコウ]と考へて居るものだからそんな諫言[カンゲン]くさい事をいふのだらうが此[コノ]ぶんせいむは善かれ悪しかれ人の意見に従つた事は今まで一度もないぞ。悉皆[シッカイ]畵餅[ガベイ]になつたら又新[アラタ]に廣告[コウコク]して人を求める計[バカ]りだ。」
しん「へえ。」
ぶん「さあ行かう。」
と連れ立[タッ]て入[イ]る此方[コナタ]の部屋には田亢龍の吟蜩子、儘[ママ]よ浮世の七轉[ナナコロ]び、八起[ヤオキ]も人の手にまかす不倒翁[オキアガリコボシ]の達摩をば学ぶもつらき面壁の修行者じみて郭然[カクネン]無しやうに座したる所へ。

達摩が中国へ赴き、梁の武帝と会見した際「聖諦の第一義とはこれいかなるか」と尋ねられ、達摩は「廓然無聖[カクネンムショウ](不満や疑念などのわだかまりがなく、聖なる真理などない)」と答えます。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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