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#811 一切虚空なのに、なぜ君は笑うのか?

それでは今日も坪内逍遥の「梅花詩集を読みて」を読んでみたいと思います。

逍遥は、詩人の世界を、「心の世界」と「物の世界」に分けます。「心の世界」は「虚の世界」にして「理想」であり、「理想」を旨とする者は「我を尺度」として「世間をはかる」。彼等を総称して「叙情詩人(リリカルポエト)」とし、天命を解釈する「一世の預言者」とし、「理想家(アイデアリスト)」とします。「叙情詩人」は、作者著大で、「理想」の高大円満であることを望み、一身の哀観を歌い、作者の極致が躍然し、万里の長城のようである。「物の世界」は「実の世界」にして「自然」であり、「自然」を旨とする者は「我を解脱」して「世間をうつす」。彼等を総称して「世相詩人(ドラマチスト)」とし、造化を壺中に縮める「不言の救世主」とし、「造化派(ナチュラリスト)」とします。「世相詩人」は、作者消滅し、「理想」の影を隠し世態の著しさを望み、小世態を描き、作者の影を空しくして、底知らぬ湖のようである。我が国には短歌・長歌・謡曲・浄瑠璃等あるが、一身の哀観を詠ずる理想詩にとどまり、現実を解脱できていない。このたび、梅花道人があらわした新体詩の、物象を解脱し造化を釈す試みは、まず喜ぶべきである。山田美妙や宮崎湖処子の新体詩は造語造訓が難渋であるがために理解されない事が多いが、梅花道人の作はこれと異なり所々死語を活かし、大体を純然たる国文調にして、荘子のような楽天詩人であること火を見るより明らかである。技術と観念を兼ねそなえてはじめて詩人である。造化派は自我を脱して各性情を霊写すべき大任があるため大技量を要するが、叙情派は観念を有形・総合・描写すれば足りるため技能を比較的要しない。梅花道人は後者に属す。梅花道人が切磋琢磨し、技量を長じて、新日本の大預言者たらんことを求めなければならない。梅花道人は水の月の如く、うたかたの泡の如し。人間は飯を炊く間の夢に遊ぶ旅人の如し。未来を説くをやめよ。進歩を説くをやめよ。万法もと虚空なり。造化もと無情なり。本来空であるのに進退に何の損益があろうか。

道人が観念する所予が鑑[カン]若[モ]し誤らずば正[マサ]に以上の如くならん。是疑ひもなく荘佛を祖述して本来虚空を説く者なり。道人能く明治の豫言者たるべき理想あるか予大[オオイ]に疑団[ギダン]無き能はず。
夫れ理想詩人は言行[ゲンコウ]益々[マスマス]一致して益々大詩人たるに近きものなり。至誠[シセイ]人を動かすとは特に叙情詩の上にいふべければなり。彼[カ]のミルトンを見よ。蕉翁[ショウオウ]を見よ。予は殆ど其の人の生活の活[イキ]たる詩なるべきを信ぜんとするなり。窃[ヒソカ]に疑ふ道人に在りては敢[アエ]て言行一致せずとは言はず。理想に矛盾せる所あるか悉[クワシ]くいへば道人の理想は其の内界[ナイカイ]に於[オイ]て相撞着[アイドウチャク]せる所あるか。道人已[スデ]に荘子を祖として一切虚空なりと信じたるにあらずや。然らば何が故に面白しと唱[ウタ]ふか。案ずるにウオルテールも一種の楽天徒[ラクテント]なりしならん。然れども彼れは一切空とは言はず又曾[カツ]て面白しと歌ひしを記[キ]せざるなり。ジョンソンもまた楽天教派なりき。然れども未だ曾て彼が開口[カイコウ]して大笑せるを聞かず。予不学[フガク]荘子を解せず。乞ふ誨[オシ]へよ。彼れ曾て君の如く口を開いて大笑し世を面白しといひしことあるか。そは兎も角もあれ果[ハタ]して一切虚空ならんか。哀[アイ]無く歓[カン]無く喜[ヨロコビ]なく笑[ワライ]無からんずるなり。知らず君何が故に笑ふか。又何が故に「想[オモイ]を鴨河[カモガワ]の納涼に走[ハ]せ」若しくは何が故に「浦[ウラ]のとまやの曙[アケボノ]ゆかし」とするか。何が故に「日頃は烏[カラス]の憎き」やらん。何が故に田舎娘の塵埃[ホコリ]蹴たてし足音の依稀[イキ]として君が耳の端[ハタ]に残れるやらん。抑[ソモ]又何が故に君は新体詩を建立せんとするか。将[ハタ]又何が故に世間の軽薄文学者に示して文学の為に責任を盡[ツク]すべき所以を憤然叱咤痛論せしか。否[イナ]実に何が故に「わぐらはに此世に生れ来[キタ]し上は世にふさはしき營業[ナリワイ]の道を守[マモリ]て只管に意[ココロ]の駒をつなぐべし」と心学めいたる教[オシエ]を布[シ]くぞ。嗚呼君は只自家の為に安心を得んとして空を説くか。偏[ヒトエ]に自家の睫[マツゲ]の下に極楽を得んが為に荘佛を歌ふか。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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