見出し画像

#764  なんでシェークスピアのように書けないんだ!

今日も、没理想論争第二ラウンドが終了したところで、今一度、第一ラウンドから振り返りたいと思います!今日も、第二ラウンドの振り返りです。

逍遥の「シェークスピヤ脚本評註緒言」と「我れにあらずして汝にあり」に対して、鷗外が「早稲田文学の没理想」と「附記 その言を取らず」で反論し、さらにそれに対して逍遥は「烏有先生に謝す」と「没理想の語義を弁ず」と「烏有先生に答ふ」と「其意は違へり」で反論し、さらに対する鷗外の反論「早稲田文学の没却理想」を今日も振り返りたいと思います。

逍遙子のいはく。わが詩文に対する没却理想は没却作家なり、不見作家なり。作家の没却せられて見えざるは、その客観的なるがためなり。されば詩文に対する没却理想は客観を評する言葉ともいふべしとなり。
逍遙子が没却せむとする作家とは何物ぞ。答へていはく。作家の自己なり、自身なり、其小天地なり、其性情なり、其理想なり。作家の理想の没却せられて見えずなりたる、若くは見ること難くなりたるを活平等相といふと。
作家の没却せらるゝや、残るところは何物ぞ。答へていはく。こゝに活差別相といふものあり。詩文の中なる個々の人物、おの/\其特質ありて云為するさま是なり。こゝに又活平等相といふものあり。その特質ある人物の云為する間に、これを支配すべき因縁果の理法ありて一貫するさま是なり。されば見えざるものは作家の理想にして、見ゆるものは人間の理法なりと。
逍遙子は既に有理想とも、無理想とも定まらざる大天地を書き成せり。されどその小天地に至りては理想あることを免れず。作家の理想は蓋し絶対の意味にても有るならむ。
作家の理想は衆理想の一なり。されば衆理想の没却せらるゝときは、作家の理想も亦たこれと共に没却せらるゝことを免れざるべし。こは絶対の上より瞰下[カンカ]しての事なり。この顕象世界にて作家に理想ありといはゞ、その有るや、必ず絶対の意味にても有るならむ。
逍遙子は作家の理想を没却すといふ。作家の理想は縦令没却せらるといへども、見えずなりぬといへども、又見ること難くなりぬといへども、その没却せらるゝは、先づ存じて、而る後に没却せらるゝならむ、先づ見ゆべく、又見ること易かるべき由[ヨシ]ありて、而る後に見えずなり、又見ること難くなりぬるならむ。
作家理想あり。シエクスピイヤ理想あり。逍遙子は唯シエクスピイヤの理想を以て人間以上の理想なりとせず、大理想なりとせざるのみ。
さらばシエクスピイヤの理想大理想なるにあらず、衆評者の理想小理想なるにあらずして、衆評者のシエクスピイヤが作を評して其旨を窺ひ書すこと能はざるは何故ぞ。逍遙子答へていはく。シエクスピイヤが作は衆評者の理想を没却して、併せて又シエクスピイヤ自己の理想を没却すればなりと。さらばシエクスピイヤの理想大理想にあらず、衆評者の理想小理想にあらざるに、衆評者の作家となりて作をなしたるとき、若くは他のかいなでの作家の作をなしたるとき、その作の衆評者の理想と作家自身の理想とを没却すること、シエクスピイヤが作の如くならざるは何故ぞ。逍遙子は未だこれに答へざりき。

作家の理想が没却されて見えなくなる「平等相」と、詩文の中の個々の特質という「差別相」、この因縁果報の理法があるにもかかわらず、なぜ、ほかの作家はシェークスピアの作のようにならないんだ!

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?