見出し画像

#935 一語数義、不埒至極のキメラよ!

それでは今日も坪内逍遥の「雅俗折衷之助が軍配」を読んでいきたいと思います。

かく答へけるほどに、敵軍は忽ち「絶対よゝゝゝ」と一斉に笑ひどよめき
「あゝ絶対よ、何ぞ汝が名を更ふることの頻繁なる。眞如、大虚、玄無、静、空、一、絶対、質、絶対我、絶対主客両観、絶対理想、意思、無意識、さても/\煩しきことかな。剰へ、このたびまた没理想と變名し、やがてまた没却理想、不見理想、平等理想、如是本来空などゝ頻に變化して、人を惑はす、不埒至極の奴[ヤツ]かな」と、いみじうも面白くぞのゝしりける。

ここは森鷗外が「早稲田文学の没却理想」で「絶対」について説いたところですね。詳しくは#716を参照してください。

これは明かに味方の用ふる、没理想の語義をば、曖昧模糊なりと打笑ふ奇兵なりき。さてまた敵勢は「因にいふ」と染めぬいたる、さゝやかなる旗を打ちふりて絶叫し、汝が没理想といふ語は、第六號より前の『早稲田文学』にては、没主観、没挿評、没類想、没成心の數義に用ひられたり、汝こを得さとらぬとて、他を責むれども、いづれも皆自語相違の過ならずや。汝の所謂没理想ほど、變化自在なる重寶の語はあらじ、とやうに、五[イツ]かへり、六かへり、頓旋してぞどよめきける。

ここは森鷗外が『しがらみ草紙』第27号の「附記 その言を取らず」で「没理想」という単語に反論したところですね。詳しくは#676#677を読んでみてください。

「頓旋」に関しては、#911を読んでみてください。

味方はこれには答へずて/\、機を看て變におうむの鳥の口まねの百囀[モモサエズリ]、儒家が用ふる仁の文字、浮屠氏が使ふ涅槃の文字、老子の道や、カントが理性、實利教派の實利をも禱りあげ/\、痛はしやな汝等も、若し端なうも早稲田が谷[ヤツ]、種[ダネ]マクベスの評註の、緒言の中に用ひられ、片影ばかりをあらはせし折からに、此の将軍が目に掛り、さて後に、ゆくりなき質問に應じつゝ、次第に本體を現じ来たらば、必ずや一語數義、不埒至極の怪物[キミラ]よ、と罵懲[ノリコラ]されしことならん、言語道断笑止至極、ともろごゑに謠ひ了り、さてまたそれと同時に、眞如、大虚、以下、意思、無意識に至る、諸絶対に向かひて、彼等が立派なる本體的絶対にありながら、宿世わろくして逍遥子が、いとも瑣屑[サセツ]なる一時方便的絶対と同一視せられたるを、近ごろ気の毒の極みなり、と吊詞[クヤミ]をいひ、さて最後には、近代の文人カーライルの霊と、エマルソンの霊とに向かひて、甚だ潜越にはあれど、或は同患の感あるべし、と推[オシ]はかりて、取りわきて特別の吊詞をのべにき。

「機に臨み変に応ず」、「応ず」から「おうむ」へと繋がる、と……

米と塩はどちらも小さい粒なので、非常に細かく複雑で面倒くさいことのたとえを、「米塩瑣屑[ベイエンサセツ]」といいます。

「エマルソン」は、アメリカの哲学者で超絶主義の先導者であるラルフ・ウォルドー・エマーソン(1803-1882)のことでしょうか。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

この記事が参加している募集

#読書感想文

188,902件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?