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#852 ちょっとだけ写真の話

みなさま!あけましておめでとうございます!今年も、変わることなく、近代文学の読書感想文を毎日連載していきますので、どうぞよろしくお願いいたします!

さて……

坪内逍遥の『梓神子』にはこんな一文があります。

さるは畫工[ガコウ]と寫眞師[シャシンシ]とを一つとし、詩人と理學家[リガクカ]との差別を没[ナク]す。泥實[デイジツ]の至極[シゴク]なり。就中[ソノウチ]演劇の改良を云ふ者あり。

1839(天保10)年8月19日、フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(1787-1851)が、銀メッキを施した銅板にヨウ素蒸気に晒したヨウ化銀の膜を形成し、20分ほど露光する「ダゲレオタイプ」という世界初の実用的な写真撮影方法をフランス学士院で発表します。

その後、1851(嘉永4)年、イギリスのフレデリック・スコット・アーチャー(1813-1857)が、ヨウ化物を分散させたコロジオンを塗布したガラス板に硝酸銀溶液に浸したヨウ化銀の膜を形成し、15秒ほど露光する「湿板写真」を発明します。この湿板写真が、早くて安くて画質が変わらないという点から瞬く間にダゲレオタイプを駆逐します。

明治時代、このような新しい技術は、港からもたらされます。日本の「写真」に関する物語は、東の港「横浜」と、南の港「長崎」から、ほぼ同時に始まります。

長崎で湿板写真に興味を持ったのが、上野彦馬(1838-1904)です。上野は1858(安政5)年、オランダ軍医ポンぺ・ファン・メーデルフォールト(1829-1908)を教官とする医学伝習所の中に新設された舎蜜試験所に入ります。舎蜜とは、化学のことです。このとき湿板写真術が記された蘭書と出会い、同僚の堀江鍬次郎(1831-1866)らとともに写真の研究を始めます。中国のアロー戦争取材の特派員として派遣されていたスイスの写真家ピエール・ジョセフ・ロシエ(1829-没年不詳)が、取材後、日本に渡航し、長崎に滞在していたため、ロシエからも写真術を学びます。そして、1862(文久2)年、長崎に「上野撮影局」を開業します。この撮影局では坂本龍馬(1836-1867)や高杉晋作(1839-1867)など幕末志士や高官などを数多く撮影し、1874(明治7)年には日本初の天体写真となる、金星の太陽面通過の撮影なども行ないます。

一方、横浜では、1860(万延元)年、アメリカ人のオリン・エラスタス・フリーマン(1830-1866)が日本初の写真スタジオを開設します。開業して1年も立たないうちに、フリーマンのもとを訪れ、フリーマンから写真術を学ぶと共に機材・スタジオ一式を買い取り、1861(文久元)年、江戸両国薬研堀で写真館「影真堂」を開業し、日本で最初の職業写真家となったのが鵜飼玉川(1807-1887)です。

さらに、そのころ、同じ横浜で、写真術の研究に没頭していた男がいます。それが下岡蓮杖(1823-1914)です。ユダヤ人が営む雑貨貿易商で働いていた下岡の下宿に、アメリカの写真家ジョン・ウィルソン(1816-1868)が寄宿します。ジョンは、1862(文久2)年、文久遣欧使節団と共に日本を出国します。その際、絵を学んでいた蓮杖が描いたパノラマ画86枚と、自身が持っていた写真機材や薬品を交換します。そして、ウィルソンのスタジオをそのまま継承し、独自の研究を続けた蓮杖は、同年、野毛に写真館を開業します。その後、下岡は数多くの門下生を育て、写真技術の発展に貢献します。パノラマに関しては、#829を参照してください。

さて、横浜には、上野彦馬とともに仕事をしたことがあるイタリアの写真家がいました。それがフェリーチェ・ベアト(1832-1909)です。1863(文久3)年から21年間横浜で暮らしたベアトは、横浜で「F.Beato&Co.Photographers」を経営し、4人の写真家と4人の日本人の着色画家を雇い、手彩色の写真のアルバムを制作します。上質紙などの表面に、卵白に塩を加えた液を均一に塗り、これを乾燥した後に硝酸銀溶液を塗布して、感光性を持たせた「鶏卵紙」にプリントした写真に彩色を施し、蒔絵仕立ての装丁でアルバム化し、海外の人のお土産に販売したのが、現在「横浜写真」と呼ばれているもので、この制作スタッフである着色技師のひとりが日下部金兵衛(1841-1932)でした。日下部は1881(明治13)年頃に独立し、横浜の弁天通に写真スタジオ「金弊写真」を開業します。逍遥のいう「画工と写真師を一つとし、詩人と理学家の差別をなくす」ことになった「横浜写真」で、日下部は商業的に成功します。

1876(明治9)年、ドイツのヨーゼフ・アルバート(1825-1886)によって、ガラス板にゼラチンと感光液を塗布して加熱することによって版面を制作する「コロタイプ」が実用化されます。その後、1900(明治33)年の郵便法の改正によって「私製はがき」が解禁されたことによって、「コロタイプ」による「絵葉書」が流行し、手彩色によるカラー写真は衰退することになります。

ということで、改めて『梓神子』に戻りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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