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#025 万博バンザイ!

「美術」という単語が生まれたのは、ウィーン万国博覧会がきっかけであることを前回述べましたが、もう少しだけ、万博を中心に「美術」という単語が浸透していく様を見ていきたいと思います。

最初の万国博覧会が開催されたのは、1851年のロンドンです。それから11年後の1862年に第2回ロンドン万国博覧会が開催されました。

この時、万博の日程に合わせて滞在し、開会式にも参加し、何度も会場を訪ねて熱心に見学した日本の一行がいました。文久遣欧使節団です!第2回ロンドン万博には、駐日英国大使であったラザフォード・オールコック(1809-1897)が収集した漆器・刀剣・版画・草履・提灯・蓑笠等が展示されました。使節団の一行は、骨董品のような雑具ばかりを見て嘆いたそうです。おそらく、「日本の工芸は、こんなものではない!我が国本来の工芸品の精度や美しさで対外アピールし国力を顕示したい!」と意識した最初の出来事だったと思われます。

それからさらに11年の時が流れた1873年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の治世25周年を記念して、ウィーン万国博覧会が開催されました。これが、明治政府が正式に参加した最初の万国博覧会となります。

ウィーン万博の前年、明治政府は、上野の湯島聖堂で、予行演習として日本最初の博覧会を開きました。これをきっかけに誕生したのが東京国立博物館(1872[明治5])です。ちなみに、#019で紹介した中村正直が学んだ昌平坂学問所は、この湯島聖堂内にありました。

そして、ウィーン万博の4年後の1877年、明治政府は、国内で本格的な博覧会を開催します。それが「内国勧業博覧会」です。農業館・器械館・園芸館などと共に設置されたのが、最初の「美術館」です!

さらに10年後、内国勧業博覧会の「博覧会御用掛」を務めた佐野常民(1823-1902)、「勧業寮権頭」を務めた河瀬秀治(1840-1928)、「審査副長」を務めた九鬼隆一(1852-1931)らで結成された「竜池会[リュウチカイ]」(1878)が、1887(明治20)年、「日本美術協会」と改称します!

さらに、同じ年の1887(明治20)年、岡倉天心(1863-1913)とアーネスト・フェノロサ(1853-1908)によって創設されたのが、「東京美術学校」です!この学校の後進が、「東京藝術大学」です。ちなみに日本最初の美術教育機関は、1876年(明治9年)に、工部省の管轄である「工部大学校」の付属機関として設置された、「工部美術学校」です。

と、まぁ、万博をきっかけに、「美術」という単語が生まれ、それはすごい勢いで、建物名や団体名や学校名へと浸透していったわけですね。

ウィーン万博から12年後の1885(明治18)年、坪内逍遥は『小説神髄』の本文冒頭を、次のように始めます。

小説の美術たる由を明らめまくせば、まづ美術の何たるをば知らざる可らず

おそらく、坪内逍遥は、このあと、「美術とは何か」についての解答を書いているのでしょう。

えっ、いまだに答えがはっきりしない「美術とは何か」という疑問に関して、坪内逍遥は、明治の初めに、すでに答えているのか!

と驚いたことをきっかけに、長い回り道をしたわけですが…

これでようやく『小説神髄』に戻れそうですね!w

また、いつ、脱線するかわかりませんが…w

では、また明日、近代でお会いしましょう!

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