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#763 都合よく使われる「絶対」という名

今日も、没理想論争第二ラウンドが終了したところで、今一度、第一ラウンドから振り返りたいと思います!今日も、第二ラウンドの振り返りです。

逍遥の「シェークスピヤ脚本評註緒言」と「我れにあらずして汝にあり」に対して、鷗外が「早稲田文学の没理想」と「附記 その言を取らず」で反論し、さらにそれに対して逍遥は「烏有先生に謝す」と「没理想の語義を弁ず」と「烏有先生に答ふ」と「其意は違へり」で反論し、さらに対する鷗外の反論「早稲田文学の没却理想」を今日も振り返りたいと思います。

鷗外は、逍遥の言説を絡めて「絶対」に呼びかけます。

絶対よ。何ぞ汝が名を更[カ]ふることの頻[シキリ]なる。真如といひ、太虚といひ、玄といひ、無といひ、静といひ、空といひ、一といひ、絶対といひ、質といひ、絶対我といひ、絶対主客両観といひ、絶対理想といひ、意志といひ、無意識といふ。学者既にそのわづらはしさに堪へざらむとす。さるを汝は猶新[アラタ]に没理想といはざることを得ざるか。既に没理想といへり。今また何ぞ没却理想といひ、不見理想といひ、平等理想といひ、如是理想本来空といはむとするに至れる。

絶対よ。汝の名は、都合よく使われて煩わしいな!

絶対よ、汝は能く万物を没却すといふ。さらば没却理想は汝がために最適切なる名なるべし。しかはあれど汝が能く万物を没却するは、没却理想と呼ばれてより始て然るにはあらじ。何故に汝は真如といはれて足れりとせざる。玄といはれて足れりとせざる。乃至無意識といはれて足れりとせざる。
絶対よ。汝を喚[ヨ]び来たるものにはくさ/″\あり。一向専念に真理を求むるものあり。おのが転迷開悟の緒にせむとするものあり。已むことを得ずして言を立つといふものあり。今時文評論の裏にあらはれたるは、そも/\また何の目的ありてなるか。
絶対よ。逍遙子は汝をおほいなる心と名づけむとして猶與[タユタ]へり。こは神在[イマ]すといふに等しからむをおそれてなり。逍遙子は汝を大理想と名づけむとして猶與へり。こは大理想の何物なるかを證すべからざるを慮りてなり。逍遙子は絶対の意味にて汝を有心ともせず、無心ともせざりき、また有理想ともせず、無理想ともせざりき。汝は逍遙子に敬して遠[トオザ]けられたるか。我は逍遙子が心を用ゐたることの深きに感ず。

絶対の性質、そしてそれを必要とする人、さらに逍遥にとって絶対とは、を説いて……

然はあれど絶対よ。逍遙子は有心とも断ぜず、無心とも断ぜず、理想の有無の定まらざるを消極なりといへり。消極立たば積極立たむ。汝が絶対若し相対とせられなばいかに。絶対よ。心せよ。
われはこれより逍遙子が上をいはむ。
逍遙子の時文評論は果して絶対の地位(聖教量)にありて言ふか。
さらば逍遙子は衆理想皆是なり、衆理想皆非なりといふことを得む。われは唯その一切世間の法に説き及ばざるを惜む。

これは昨日の#762で言ったことですね。「皆是であり皆非である」といわれたら批評にならないと……

逍遙子の時文評論は果して相対の地位(比量)にありて言ふか。
さらば逍遙子は空間に禁[イマシ]められ、時間に縛[シバ]られ、はては論理に窘[クルシ]められむ。衆理想皆是なりとは、逍遙子え言はざるべし。彼は衆理想の中に於て論理にたがひたるものを発見すべければなり。衆理想皆非なりとは、逍遙子え言はざるべし。彼はおのれが理想の衆理想と共に非ならむとき、おそろしき絶対的無理想の淵に臨むべければなり。
これを逍遙子が形而上論とす。逍遙子のいはく。われは敢[アエ]て形而上論をなさず。われは方便を説くのみ。われは無辺際の大洋を渡る舟筏を造るのみと。殊に知らず、古今哲学の系統は悉く是れ方便なるを、悉く是れ舟筏なるを。
さて逍遙子が審美学はいかに。

で、鷗外は、このあと、「作家の理想」について言及するのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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